湯煙に潜む影
なんだか懐かれてしまった気がしてならない。
「ひろくん、このあとお風呂行くよね?」
「…………まあ」
ゆきの人間性に惚れた、のなら彼は納得しただろう。ゆきは町のみんなやペンションの客、あらゆる人々に好かれている。紘人とて何度もゆきの優しさに救われて来ているし、あかりだってそのはずだ。ゆきだけが慕われているならわかる、のだ。
「一緒にいってもいい?」
うわ。
「…………」
星見の丘で機材を片付けて帰る準備をしていた。当然まだまだ観光客は残っているし、あかりが一際目立つ容姿をしているせいで、うっすら注目を集めていた中での発言。紘人は作業を止め周りを見渡す。
何組かが彼と目が合った瞬間に顔を背けた。邪推されているのを肌で感じられる空気。居心地が悪すぎる。
「ねえ、いいでしょう? いっぱいしたから汗でべとべと」
「あのさ」
「でもびっくりした。あそこまで大きくなるなんて……」
「ちょっと」
頼むから主語を省いてくれるな、誤解を生むと説教しても悪気のないあかりには響かないだろう。わさびの収穫の話ですよと紘人は声を大にして周りに伝えたい。
「今日は身体動かしたから、温泉気持ちいいだろうなあ」
あかりがわざとらしくアピールして来るのは、紘人に温泉代を出して貰おうとしているからだ。小銭入れを持ち歩く習慣が彼女にはない。『ばぁーや』に一人で遊びに行くときには絶対に財布を忘れないのに、紘人と行動するときは手ぶらなのだった。
ともあれ、悪気も作為もないのだから質が悪い。ばらまかれた単語を第三者が歪な形に繋げたなら、通報されても文句は言えない。
「お金渡すから、一人で行ってきなよ」
「いやよ夜道に一人でなんて」
「三倉に来た頃のメンタリティを思い出せ。身体一つでこの山を登ろうとしたあの日の姿を」
「警戒しろって言ったのはひろくんでしょ」
それはそう、なのだが。連れ回したくない理由はいくつかある、が、説明できないことも多くあるせいで言葉にはできずに。
「だから守ってくれるよね?」
あかりの両手が紘人の右手を包みこむように捕らえた。多分、この子にこんなお願いをされて断れる男性は存在しないんじゃないか。紘人も例に漏れず――――と言いたいところだが彼は実に面倒くさそうに、心の中で35回舌打ちを鳴らしたあとにようやく、返事をする。
「…………保証はできないな、事務仕事があるから置いて帰るかも」
何せあかりの風呂は長い。入浴中に会話に付き合わされるのも億劫だ。
「そしたら番頭さんに言いつけるから。あることないこと言ってあなたの評判を下げることだって出来るのよ」
「その攻撃は効かないなあ。俺は町の若い衆にはすでに嫌われているから」
「あ……やっぱりそうなんだ」
「やっぱりって何だよ。心当たりあるのかよ」
冗談として流されるかと思っていたのに想定外のリアクションが返ってきたため紘人はリズムを崩される。誰かに何か余計なことを吹き込まれてはいないか。
「んん、何というかね……みんな優しくしてくれるんだけど。親切のつもりかな、過剰に心配してくるのよね」
それはつまり、紘人のそばにいることについて、なのか。
「……って、こんなところで話すことでもないわね。はやくお風呂にいきましょう」
紘人に承諾した覚えはないのだが、どうやら今夜も、一緒に入浴するはめになりそうだった。
湯巡り広場の温泉は大体どこも22時には閉まってしまう。二人がたどり着く頃には飲食店も土産屋も暖簾を外し、人の往来も途絶えている。
そんな中で、三倉で働く人のための温泉があることは、どのガイドブックにも記されていない。広場の中心、足湯スポットから北東へ抜けていく。古い日本家屋に挟まれた小径を歩き、三倉唯一のカレー屋『サンパウロ』を右に曲がって五分ほど進めば、年季の入った門扉に突き当たる。
紘人が躊躇なく引き戸をずらすと、番台の中にいる法被を着た男が振り返り、寝癖頭をガシガシ擦りながら、
「いらっしゃー」
と雑な出迎えをしてくれる。
「こんばんは、西田さん」
「おれはこれからおはようなのよ、あかりちゃん」
60年続く三倉随一の秘湯『蔵西』の三代目、西田智幸はあかりが声をかけると猫なで声で応じる。歴史的にも観光で栄えた町だから、サービス業で不規則な時間帯に働く人が多くいる、そんな『もてなす側』のために終夜営業を行う湯巡りどころが蔵西だ。三倉振興協会の正会員かその紹介でしか利用できない縛りがあるため、一般客は入浴できない『秘湯』として知る人ぞ知る存在になっている。
「大人二人」
「……あいよ」
八百円が紘人の財布から消える。まんまと奢らされるはめになる。後で請求してもいいのだが、金持ち相手に小銭をせびったら、自分が惨めになる気がして言い出せない。
「ありがとう、ひろくん」
今度はきちんと音に乗せて舌打ちする。あかりはにこにこしながらそれを受け流す。
「いやー助かるわ。あかりちゃんが来てからこいつもよぉ来るようになってな」
「本当は毎日来たいくらいなんです。でもひろくんがダメって言うから……」
「ごめんねこいつケチだからさあ。あかりちゃんだけなら、特別に無料にしてあげようか?」
「やだぁ西田さん、奥さんに怒られちゃいますよ?」
タダにするというなら、あかりの分の四百円を返せと紘人は思う。もともとは、週に一度のご褒美的な楽しみだったのだ。誰にも邪魔されることなく、静かに、瞑想にふけるように、湯に包まれながら色んなことを考え、思いだし、忘れていく。身体の疲れを取りながら心を真っ白にするような時間だった。
それが今はどうだ。
「ねーひろくんって、ずっとこの町で働いてたの?」
「……まあ」
「この町から出たことない?」
「そんなことないよ。都会で暮らしていた方が長かったんじゃないかな」
男湯と女湯は丸太の壁に仕切られてはいるが、露天のため会話できるくらいには声が通る。紘人は乳白色の湯に肩まで浸かりながら、あかりの問いかけに答えていた。
「進路ってどうやって決めたの? 都会にいたなら沢山の道があったと思うけど、里帰りを選んだってこと?」
「…………選んだ、って実感はないかな。俺は君みたいに将来有望じゃなかったからね」
あかりは生まれが特別なだけでなく、頭脳や運動神経、芸術のセンスもたいへん優れていて『物事を失敗した記憶がない』とまで豪語していた。本人談なのでどこまで盛ってるかは知らないが、信じてやっても紘人に損はない。
「ただまあ、ここで生きていくんだって思えたから、そうしたんだよ」
「ふーん。ふわっとしていて参考にならない」
そりゃそうだ。全てを語るには一晩は短すぎる。
「やりたいこととかないのかね、せっかく可能性に満ちあふれてるのに」
「それがないから困っているんでしょう」
「胸を張るな。開き直るな」
「やだ、ひろくんどこかから覗いてる?」
ちょうどお湯の中で胸を張っていたのだろうか。
「めったなこと言うもんじゃないよ。もし誰かに聞かれたら勘違いされるでしょうが」
覗きなど疑われただけでも今後出禁になりかねない。
「ひろくんも男性だから、やっぱり女の人の裸に興味があるの?」
「覗いている前提で話を進めるのは止めるんだ」
見られているかも、と思うんならさっさと逃げればいいのに。自分の魅力をわかっているのかいないのか、紘人でなければ危ういような場面はこれまで何度もあった。
湯上がりの髪にドライヤーをかけさせたり、車の助手席で無防備に眠ってしまったり、やたらに身体の距離が近いから彼の方から押しのけたことだってある。箱入りだからなのか、男性の獣欲を軽く見ているのかわからないが、あかりの振る舞いはどうにも隙だらけだ。
「実際どう、興味ある? ない?」
それを知ってどうなるというのか。挑発しているわけではまさかあるまい。ないと言ってみたところで、信じられないと言われそうだし。
「残念だけど……随分前から『役立たず』でね。そういう感情は湧かないな」
なら、事実の一部を開示すれば、納得するだろうか。
「ばぁーや、あのさ、男の人が役立たずって……」
「おいばぁーやいるのかよ。なんで言わないんだよ」
男湯に誰もいないからてっきり向こうもそうだと思い込んでいた。ばぁーやが朗らかな笑みで白湯に浸かる姿が想起される。
「ふぇふぇふぇ」
質問には答えず、いつもの間延びした笑い声を発する。
「ばぁーや、違うんですよ。俺は覗きなどしないしうら若き乙女にセクハラしていたわけでもなく、相手がしつこいからしぶしぶ答えてやっただけで」
「ねえばぁーや、今のってわたしを油断させるための嘘かなあ? 安心させておいて、いきなりガバッと襲いかかって」
「ふぇふぇふぇ」
ああもう、だから誰かと風呂に入るなどいやだったのだ。あかりが来てからというもの、調子を狂わされてばかりだ。紘人はためいきを一つ、星空に向かって吐いた。
◇◇◇
「ばぁーや、ずっとにこにこしてて可愛いなあ。見てて幸せな気持ちになる」
風呂上がり、あかりは蛍火の浴衣を着て観光客気分を味わう。古い街並みには和装が映える、だからどこの旅館もこぞって可愛らしい浴衣を貸し出しセールスポイントにしているのだ。
「ゆきさんもそうだけど、この町の女性はみんなおだやかで素敵だわ」
「郷に入りては、って言葉があるね」
「あなたがイヤミばかり言うのは郷に従っているからなの?」
残念それは紘人の固有スキルであって三倉の人々は親切で人情深い者が多い、男女問わず。これもサービス業に従事する人間が多いからだろうか。ここでイヤミを重ねたら負けた気がするので紘人は口を噤んだ。
二人の足音が路地に響く。跳ねるようだったその音は次第に、小刻みに、控えめになっていく。虫の鳴き声と靴が砂を噛んだリズムが静寂を埋めていた。紘人はふと、あかりを窺う。怯えを孕んだ視線とぶつかる。
「ね、やっぱりひろくんって……私のこと嫌い?」
無言の時間に耐え切れなかったのか、あかりは紘人に尋ねる。きっと『そんなことないよ』『邪魔なんかじゃないよ』という答えが欲しいのだろう。仲良く出来た方が自分の居心地がいいから距離を詰めようとしてくる。だが紘人は、そう接されても応えてあげられない。一度閉ざした心は、滅多なことでは開かないのだ。
年頃の乙女のセンシティブな心の動きに付き合ってやるほど、紘人には余裕がない。嫌いではない、と前置きをしてから、
「間合いに入ってこられるのは苦手なんだ。出会ったばかりの相手といきなり親しくはできないよ」
静かに本心を吐露する。いっそのこと、きちんと金を貰ってあげれば、あかりは安心できるんだと思う。対価を払い、宿泊の権利を得ることで正当性を盾にする。客と店員としての距離なら、紘人もまだ接しやすくなる。
「そっか……」
「別に気の済むまでいてくれていいよ。どうせもうすぐの命だし、夏が終われば全部、なかったことになる」
「…………ん? それって、どういう」
「――――離れろ」
暗がりから急に突き出された何かを紘人はのけぞってなんとか躱した。何故反応できたのか自分でもわからないが、事前に声が聞こえていなければ確実に食らっていた。家と家の隙間から放たれた突き。しかし外灯の少ない町並みでは正体がつかめない。目をこらすも闇夜に紛れて判然としない。紘人は左腕であかりの動きを制止した。
「下がって」
「ひ、ろくん……なんなの、今の」
そばにいるあかりをちらりと窺う。紘人の身体にぴったりと寄り添って、傍目でもわかるくらいに怯えて混乱している。わけがわからないのは紘人とて同じだ。狙われていることだけは間違いなさそうで、対処する他ないから冷静であれと自分に命じている。
一先ず相手が野生動物でなくて安心する。問答無用で襲いかかってこられたらたまらないし、もし町中に熊でも現れたら、三倉の商売は壊滅的打撃を受けるだろう。
「……おい、そこにいるんだろ。出てこい」
守らなきゃ、と本能が刺激される。
普段の自分はやる気のないツラをしているが、実は10年間空手に打ち込んでいてその腕前はそこいらの暴漢では歯が立たないほど――――だったらいいなあと理想の自分を思い描きながら、紘人は暗がりに声をかけた。脚を震わせつつも。
正体も目的もわからない、が、降りかかる火の粉は払わなければ。




