星と蕎麦
あっちにいってろ、と言うわけにもいかず。かといって1から全部解説してやる気にもなれない。望遠鏡と双眼鏡を交代で使い、倍率を変えながら空を見上げる。二人は夜の丘で星を探していた。
「すごいね、今日の空も」
「昨日はつまらなそうにしていたじゃないか」
「その日の寝床すら危ぶまれる状況では、どんなに素晴らしい景色も感じ方が変わると思わない?」
一理ある。この場所に初めて巡り会ってから何年も経ったが、当時の気持ちはとっくに喪われてしまった。年月が、多くの出来事が、この空に向き合う姿勢を変えさせた。
「つまり、心配事のせいで正しく楽しめなかっただけだと?」
我が意を得たりとあかりが微笑む。
「本当に昨日より綺麗に見えるのよ。何故かしら? 同じ場所から見上げる同じ星達なのに」
「よし、地図が見えたのなら次の目的地に進もうか。君の未来に幸あれ」
「ひろくん、オブラートが薄すぎて出て行けって内心が丸見えよ」
「いやだなあ、深読みしすぎだよ」
「今朝、面倒なことになったって顔してた」
彼の顔が一瞬歪んだのを彼女は見逃さなかったようだ。
「そこまで邪険にしていないよ、でも、せっかくなら色んな景色を見た方がいいんじゃないの。目的がなんなのか知らないけどさ」
紘人とて即刻追い払いたいわけではない。だが三倉にいることであかりに得るものがあるとも思えない。ましてや、自分なんかのそばにいてはいけないと彼は考えている。未来のある人だ、あかりは。だったら前だけを見据えているべきだ。
「選択肢が欲しかったのよ。お爺さまは私が幸せに生きていくための道を用意してくれていて、それはきっと一番の正解の道なんだと思う。だけど、盲目的にそれを選びたくなかった。これしかないんだって思うととても寂しくなった。だから反対を押し切ってこの旅を始めたの」
夜の底でアンニュイな表情を浮かべるあかりは、紘人でさえ目を奪われるほど様になっていた。これほどの美貌を持って生まれ、家柄もよく、輝かしい人生が待っているのだろう。なのに悩み、迷う。誰しも心にその人なりの闇を飼っているのかもしれない。
「わざわざ道を踏み外しにここへ?」
「そう、野宿も辞さない覚悟でね」
もうすっかり、過去の失敗は笑い話になったらしい。
「この町で、何か見つけられそうなのかい?」
「はくちょう座が昨日より鮮明に見える。デネブの明かりに目を奪われる。東京からは見づらかっただけで、星空はずっとあそこに浮かんでた」
あかりは頭上の絶景ではなく、隣にいる紘人の顔をじっと見つめる。
「それを知れただけでも、屋敷を飛び出してきた甲斐があったわ」
昨日とは大違いの、すっきりした面持ちだった。
「勇気出して話しかけてよかった。あのまま野宿していたら、朝一のバスでここを出ていたはずだから」
偶然話しかけた相手が偶然宿屋の身内で偶然空き部屋を貸してくれる。声をかけるという選択一つがあかりの行く末を変えた。紘人は少しだけ昔を思い、しみじみと呟く。
「現地住民との交流は旅の醍醐味だからね」
「これからもよろしくね、第一発見村人。この町のこと、たくさん教えて」
「NPC扱いしやがって。俺は君のツアーガイドではないのだけれど」
「ちゃんとお礼はするから、ね?」
お礼と言われても紘人にはピンとこない。お金に執着がなく、物欲も乏しく、何を返してもらっても彼の心には響かないだろう。これほど美しい少女に、至近距離でお礼するなどと言われたら、普通の男性なら少しくらいは意識しそうなものだが。
「お礼……ね。楽しみにしとくよ」
本当は礼などいらず、一人でゆっくり星を眺めていたかったのだが、機嫌を損ねるとさらに時間が削がれそうだったので波風は立てぬようにする。
「してほしいこととか、考えておいてね」
改めて隣の少女の姿を眺めて紘人は、やれやれと肩を竦めた。
◇◇◇
「あの、あかりちゃん……そんなに近くで見られると緊張しちゃう」
やんわりとした口調で離れてくれと伝えてみるも、あかりは手元を覗き込むように身を乗り出して興味津々といった様子。
「危ないから離れなよ。おかあさんが怪我をしてしまう」
ゆきの手に握られた、女性に不釣り合いな厳つい包丁に視線をやって、あかりは数歩たじろいだ。
「あんまり上手くないから、期待しないでね」
自信なさげな笑みをあかりに向けてから、ゆきはまな板に向き直る。折りたたまれたそば生地の上にこま板を乗せて、すぅっと一息吸って。
「…………わぁっ」
とととととっと、リズミカルな音を立てながら、一定感覚で包丁が落とされ生地を棒状にカットしていく。あかりの目にはあっという間に映っただろうか、多少の心得がある紘人から見ても、ゆきの手さばきは熟練のそれだ。
蛍火名物手打ちそば。ここには新鮮な魚介もジビエもない。風呂と星の町だからって料理がおろそかでは客は来ない。先代が考え抜いた末にできた看板料理がこれだった。
すっきりしたのどごしの二八そば。冬は鍋の締めとして、そして夏はそば御膳の主役として献立を支えている。
そして何より本わさび。おろし立てのつんとする香り高い本わさびを、贅沢にそばに載せ、つゆを纏わせて啜ったなら。口内で混ざり合う上品な味わいは客の箸を次へ次へと向かわせる。
ペンションのレビューを読んでも、『もっとおかわりしたかった』『ランチ営業もして欲しい』等、大変好評をいただいている。切ったそばを手で纏めては打ち粉を落としていく。そして桐箱に納め、今日と明日の宿泊客に振る舞われるのだ。
「……すごいっ! 1からそばを打てるだなんて」
生地作りからジーッと見ていたあかりは興奮もひとしお、スタッフの制服代わりのエプロンに粉がつくことも厭わずに、打ち上がったそばから道具を経てゆきの手を見たり触ったり。
「部屋が空いていたらいいのに。そうしたらきちんと宿泊手続きをして、おそばを楽しめるのになあ」
残念ながら蛍火は連日満員御礼だった。夏休みの避暑地だけあってそれなりの人気はある。
「それじゃあちょっと味見してみようか。お客さんが来るまでにはもう少し時間があるし」
「本当に? ゆきさんありがとう!!」
まるで甘える娘と応える母のような構図。麺を茹でる準備に取りかかるゆきにぴったりくっついて、そばに関するレクチャーを受けるあかり。
紘人は眉間を指で揉み込みながら仲睦まじい二人の姿を眺める。あかりが蛍火にやってきてもう一週間になる。たったそれだけの時間で、長く一緒に暮らした紘人よりよっぽどゆきと親しくなってしまった。紘人にしても、なんだかんだあかりがいる日常に慣れつつある。
流されている、と紘人は感じていた。彼女のここで過ごしたい気持ちは伝わるし、迷惑にならないように一生懸命手伝おうとしているのもわかる。もしこのまま長引くようなら、早めに伝えなければいけない、のだろう。拾った者の責任として。
「ひろくん、おそばが行くから準備して!!」
びしっとリビングのテーブルを指さす。客がいないのをいいことにこっちで食事するらしい。
「自分が食べるんだから自分で用意しなよ」
「紘人さんは食べないの?」
茹でたそばを流水で冷やしながらゆきがこちらを窺う。
「……いただきます、ありがとう、おかあさん」
せっかく用意してくれたのなら断れない。本来の食事の時間ではなかったが、ご相伴にあずかることとする。誘ったくせにゆきは食べずに夕食の準備を進めているので、あかりと卓につくことになった。厨房の奥ではなく、客も食事するリビング。四人がけのテーブルが並んだうち、一番人気の席に二人は腰掛ける。
「特等席、もらうね」
あかりの位置からは、この部屋の象徴がよく見えた。壁に掛けられた60号キャンバスに、『星の描いた地図』の写真がプリントされている。初見の客は全員脚を止めて見入ってしまうサイズ感ながら、解像度もよくぼやけた印象はない。もちろん実物とは比べるべくもないが、しっかり星々のきらめきを閉じ込めていて素晴らしい出来だった。
町が全力で推しているだけあって見事な展示品である。だが、今のあかりには星より団子、らしい。並べたのは簡素なせいろそば。つゆとわさび以外は用意していないが、夏はこういうシンプルなそばが恋しくなるものだ。
「ゆきさああああん、いただきます」
厨房に向かって大声で声かける。期待のほどが窺える。あかりは箸で麺をリフトしてから、全長の半分だけをつゆに浸して、じゅぼるうずぅうーず、という音を口から発した。
持ち上げた塊を全て口の中にすすり入れ、もむもむと咀嚼する姿はまるでリスのよう。よほど待ちきれなかったのだろう、普段は美しい所作で食事をするあかりが今は、マナーを気にせずそばを頬張っている。
「もうちょっと上品に食べられないの」
紘人が話しかけても無視する。聞こえてはいるのだろうが、あくまでも美味いメシが優先であり、言い返すよりも味わうのが大事だ。塊を嚥下する前に次のそばを手繰っている。キャパシティが空いたのと同時につゆから引き上げ、またもや下品な音を立ててすする。クレームは黙殺されてしまった。
そんな真似をするから、あっという間に彼女の分のそばは枯渇する。夢中になっていたせいか、空になったせいろをつつきようやく、全部食べたことに気がついたようだ。
「あ、おそば……」
全身から哀愁が漂う。さっきまであんなに幸せそうだったのに。そば職人を目指すと言いかねないほど感動していたのに。
「もうちょっと食べたかった?」
素直にこくりと頷いた。視線はずーっと紘人のせいろに向いていた。よほど気に入ったのだろう、なら、仕方がないという気持ちになる。紘人は自分のとあかりのを取り替える。彼はまだ一口も食べていなかった。
「これはあなたの分だから……」
しおらしいことを言いつつ、欲しがっているのが透けている。
「食べたい人が食べればいい。俺はいつでも食えるからね」
「ひろくん、優しい……っ」
出会ってから今までのどの場面より、尊敬のまなざしで紘人を見つめる。宿無しの窮地を救ったり星座の見方を教えたり、あかりの人生の余白を随分広げてきたつもりだったのだが、どれも彼女の心には響いていなかったらしい。
あかりは厨房のゆきと眼前の紘人に一礼をして、そばを「待て」突如紘人が制止をかけた。おあずけを食らった彼女は潤んだ瞳で彼を見つめる。
「焦りすぎだ。こいつをつけずに食べきるつもりか」
彼は右手にわさびを、左手に鮫皮のおろし器を構え、慣れた手つきで円を描きわさびを擦っていく。空間に風味と辛みが充満していくようだった。紘人はおろしたての塊をそばにちょこんと乗せ、食って見ろと顎をしゃくった。
豪快にすすり。一瞬雷にでも打たれたかのようなリアクション。のちに、目を見開いては閉じ、咀嚼し、天を向き、両手で高々とトロフィーを抱えるかのようなガッツポーズを決める。
「これが当館の食の肝だ。よーく味わうといい」
美味い物を美味そうに食う人間を見ていると、自然と頬が緩む。紘人の死んだ魚のような表情にも、僅かばかりのほころびが窺える。そんな自分に戸惑いながらも、彼はせっせとわさびを擦り続ける。




