野山のお嬢様
蛍火から星見の丘へは三十分ほどの緩やかな上り道を行けばいい、途中までなら車も通れるし観光地だけあって人の手が加えられている。
だが現在の目的地はペンションの裏手から道なき道を歩いていかなくてはならない。鬱蒼と茂る木々の合間を縫って、砂利や枝だらけの悪路を進む本格的な山歩きの行程だ。
「うあ、ちょ、ひろくん速い――――って!」
「無理についてこなくていいよ。怪我でもされたらたまらない」
都会暮らしの世間知らずには厳しすぎる道のりだった。あかりは足下の全てを大げさに避けようとしてかえってバランスを崩している。ゴム長靴を履いているのだからそんな小石、踏みしめて進めばいいのに。
「しばらく置いて貰うんだから、私だってお仕事を手伝いたいのよ」
こうして右も左もわからずに連れ回しているうちは、『手伝い』どころか『足手まとい』にしかならないのでは。紘人はあかりをじっと見つめる。
その言葉を言うか言うまいか迷って、止めた。元はと言えば自分で抱え込んだ厄介ごとだ。だから飲み込むことにする。
「ありがと、待っててくれて。さあ、行きましょうか」
優しさ由来の気持ちで脚を止めていたわけではないのだが。あかりは地上に突き出た木の根をスタートラインに見立て、四歩ほど先行してみせる。
「なんだか楽しそうだね」
抜き去ったときの横顔、頬が緩んでいるように紘人には映った。
「楽しいよ、経験したことないから、真新しくて……っと」
よたよたと、両腕でバランスを取りながら歩き出す。ペンギンみたいに。都会には刺激が溢れていて、田舎暮らしの紘人からすれば退屈する暇などないように思える。遊ぶ場所などそこら中にあって、何でも手に入って。
翻って、ここには自然くらいしかない。綺麗なおべべも可愛らしいサンダルも今は纏うことができない。年頃の女の子には窮屈な町だろう。
「昨日は街に戻りたがっていたのに。どういう心境の変化だい?」
何より、昨夜の絶景はつまらなそうにしていたくせに、たかが山歩きで楽しげなのが紘人には理解しかねる。
「あっ、もしかして!」
質問をスルーしたあかりが指さした先は、緑の葉の生い茂る、横幅二メートルほどの沢だった。これまで歩いてきた雑然とした山の中で、明らかにそこだけ人の手が加えられ、小さいけれど棚田の形を成している。
傾斜に沿って階段を作るように沢の底を整えて、段板に当たる部分にそれは植えられている。葉をかいくぐって覗き込むと、山の豊富な湧き水に育まれたわさびたちが顔を覗かせる。
「あれを全部育ててるの?」
「まあね、うち個人としてはあれで全部。だけど町の名産品でもあるからね、もっと規模の大きいのがあるよ。みんなで管理するんだ」
紘人は大凡を見渡してから、目星をつけたわさびを慎重に掘り出していく。あかりは紘人の真後ろに遷移して、様子を興味深そうに眺めている。
抜き取ったものから痛んだ葉を外し、ひげ根もむしってやる。そして沢の流れで泥を落としてやれば
「へえ、表面はごつごつしてるのね」
立派なわさびの根茎が現れる。
「一般的なチューブのわさびは大半が、ホースラディッシュという西洋わさびをブレンドしたものでね、この本わさびはそれらとは段違いの風味を感じられる高級品さ。屋敷お抱えの寿司職人はこれを使っていたのでは」
「ひろくんは私の家をなんだと思ってるのかしら」
金持ちは外食なんてしない。自宅で一流シェフが腕を振るってくれるのだ、というのは紘人の勝手な推測で、あかりの家もそうだろうと決めつけてかかる。
「三倉で唯一自慢できる名産品が、このわさびなんだけどなあ。“本物”を知らない状態で味わってほしかったよ」
「目の前で握っていたわけじゃないから、どんなわさびだったかはわからないわ。お手伝いさんが運んで来るのよ」
本当にいるのかよ、お抱えの職人。
「でも、これこそが本物だって言うのなら、既知か否かにかかわらず感動するはずだわ。あとで食べさせてね」
「これは当館に宿泊するお客様の分だから、君の分が残るかどうかわからない。待ちきれないのなら湯巡り広場の脇にあるお土産屋『ばぁーや』で本わさびアイスを買うといい」
本わさびアイスとは、何食ってもうまいと言われる『ばぁーや』の食べ歩きラインナップの中でも一番人気を誇る看板商品だ。おろし立ての本わさびがバニラアイスにトッピングされていて、湯上がりの客に好まれている。
「少しくらい味見させてくれてもいいのに……」
「残ったら、な。それでどうする、自分でやってみるかい?」
目を輝かせるあかりを見て、紘人は内心ため息をつく。まるで職業体験施設のインストラクター、しかも報酬なしのやるだけ損な役回り。
「沢に脚を踏み入れるなら、決して根を踏むんじゃないぞ。乱暴に扱ってもいけない、お母さんが心血注いでここまで育て上げた宝石なのだ」
厳重に注意すると、浮かれていた表情も引き締まる。
「う、うん。わかった……やってみていい?」
朝のばっちりセットとはまるで違う、汚れてもいい格好に着替えた彼女は慎重に流れの中に足跡を置き、腰をかがめて、端っこに植わっている難度の低そうな個体に狙いを定める。
葉に頬を撫でられながら、根の周りの土や軽石を両手でゆっくりと掘り進めていく。
「ひろくん、これ……もう抜ける? 出る? なんか、思ったよりおっきいのかも……」
「もうちょっと土を払って、そう、そう……このくらい顔を出したら、あとは思いっきり」
「――――んぅっ!」
力を入れすぎだ。大きくのけぞり尻餅をついたあかりは、まるで大物を釣り上げたような顔をして泥にまみれた本わさびを見ている。
「…………」
彼女自身にしかわからない心の動きがあるようだ。紘人は、この山とはミスマッチなお嬢様の様子を観察する。わさびの収穫ぐらいで揺すぶられているのなら、やっぱり自分が気づいていないだけ。まだまだ子供の、女の子の隙だらけだ。
まあ、それをいじるのが野暮だって事くらい、紘人にもわかっている。
「……ひろくん、お願いがあるの」
「大事に食べなよ。さ、今度こそお客様の分を収穫してくれ」
「先回りしないでよ」
どうせこの一本を買い取らせてとでも言うつもりだったのだろう。あれほど感動していたのなら、プレゼントくらいしてやってもいい。
「いらないなら蛍火で使うが」
「いる。…………ありがと」
あかりは恥ずかしそうに俯きながら、自らが摘んだわさびを沢の水で丁寧に洗っていた。
◇◇◇
「うちを選んでくれる客層は上品で素敵なお客様が多い、が、世の中には色んな人間がいるもんだ。常識の合わない人、自分さえよければいい人、どれほど外面が良い人だって、プライベートな空間で本性は暴かれる」
わさびを摘んで戻るなり、客室の清掃に取りかかる。紘人はぶつぶつ言いながら部屋のあちこちを――ベッドの下から戸棚の奥まで――しらみつぶしに点検していく。
「要するに信じがたい部屋の使い方をする人もいる、ってことだ」
前の客の痕跡を除いて、リネンを取り替えて、居心地のいいペンションの一室を作りあげる。たった四室しかなくとも、のんびりしていては次のチェックインの時間はすぐにやってくる。
「とまあ客室清掃はこんな感じだ。綺麗に使ってくれるお客様でも、忘れ物や落とし物があるかもしれないので、きちんと確認する」
「意外と几帳面なのね」
「ホテルマンの流れるような所作を目の当たりにして感想がそれか」
「ひろくんここにホコリが」
「なんだと」
あかりはつーっと人差し指で机の角を撫でると血相を変えた紘人がすっ飛んでくる。すぐさま布巾を取り出し該当部分を入念に擦り擦り擦り。
「……ん?」
布巾を開いてみても、目に映るほどのホコリは確認できなかった。顔を上げるとあかりが悪戯っぽい笑みを浮かべて。
「冗談よ」
「手伝う気はあるのかね居候。俺をおもちゃにしていないで、仕事を覚えたらどうだい」
どうせ掃除など人生で一度もしたことがないのだろう。
紘人の想像する成金あかりは、身の回りのことをすべて使用人がこなしてしまうはずだし、学校の掃除の時間さえ金をばらまいて下々のクラスメイトに肩代わりさせていたはずである。ほうきやちりとり、布巾など触れたこともないに違いない。
「わかってるわ、明日からは任せてちょうだい」
あかりは薄い胸を張って自信を露わにしてみせた。ここまで言うなら任せてみてもいい、戦力になるならそれでいいし、ダメで元々、二人でもこなせていた作業量だからなんとかなる。
このように、まるで期待をしていなかった紘人だったのだが。あかりの有用性はわずか二時間後に彼の目の前で証明されることとなる。
「ええ、本日からお世話になっていて……はい、そうなんです。夏休みを利用してお手伝いに来ていて」
チェックインの際はスタッフ総出で出迎える。玄関をくぐった客達の視線は、正面のゆきではなくその斜め後ろ、あかりに注がれた。
素晴らしい美術品や息を呑む絶景を眼前にしたときのような、一目見ただけで人を惹きつける美しさ。老若男女押し並べて、あかりに目を奪われていた。
不意に会話を持ちかけられても、緊張する様子もなく応じている。
「不慣れな部分も多くありますが、精一杯務めさせていただきますので、よろしくおねがいします」
100点満点のスマイル。接客態度は文句のつけようがなかった。便利なもんだ、と紘人は思う。
未だに常連の中では、紘人を“ない物”として扱う人がいる。ゆきとばかり会話し、無愛想な彼を半ば無視する客がいるのに、あかりはルックスと笑顔だけで皆に受け容れられてしまう。
不公平だとは思わない。持って生まれるのも、それを維持するのもきっと簡単じゃないのだ。それにどうやら、持つ者なりの悩みも抱えているようだし。
「それではお部屋にご案内します」
紘人が先導し部屋へ向かう道すがら、あかりは世間話で場を繋いでくれる。
「あ、やっぱり夜景目当てでいらしたんですね。私も普段は東京に住んでいるんですけど、もうすごかったですよ。あんなに夜空に星があるなんて、知らなかったですもの」
期待が外れた、とでも言いたげだったのに。
「夏でも涼しいから、温泉も気持ちよく入れますよ」
まだこの町の温泉に浸かってもいないのに。
「都会にはない魅力がたっぷりあるので、楽しんでいってくださいね」
案内“される”側だってのに。熟練のガイドのような佇まいに、紘人は舌を巻いた。施設のルールを伝えるときも、事務的で血の通わない紘人の説明にフォローを入れてくれたおかげで、相手は終始笑顔で話を聞いてくれた。
紘人は初対面の相手との雑談が苦手だった。掃除はいい、案内をすべてあかりに任せてしまおうかと彼は密かに企て、内心ほくそ笑む。




