鳥かごの外
三倉町は高所に開かれた温泉街だけあって、七月でも過ごしやすい気温だ。都会の蒸し暑さに比べれば快適そのもので、夜は肌寒さを覚えるほど。
だからと言ってエアコンもつけず、布団まで被って寝たらどうなるか。
彼のように寝苦しさに呻きながら目を覚ます羽目になる。
「あっ、がぁ……?」
紘人は半開きの目で内装を見渡した。いつもの寝床ではない。トイレに行った帰りか? 寝る前の酒が進みすぎたのだろうか? 離れに寝泊まりしているとは言え、敷地内にお客様もいるというのに部屋を間違えるなんてなんたる失態か。
回らない頭で自分を責め立てた。よりにもよってこの部屋で意識を失うなんて――――違う。
「……そっか」
勘違いや酔いのせいではない。この部屋で寝たのは、普段の寝室を客人に明け渡したからだ。もやのかかった思考の糸を手繰り、寝る前の記憶をロードし始める。
◇◇◇
蛍火に着いた少女はあちこちに視線を配る。
『ここが内風呂。12時まではお客様が入れる時間帯なので入浴はすこし待ってくれ。寝間着のサイズはこれで……何か気になるか?』
視界に映る何もかもが新鮮、そんな瞳の色をしていた。
『いえ、何でもないわ。続けて』
『手狭な宿泊施設もあったものだろう? ペンションと銘打ってはいるが、ちょっと広い一軒家みたいなものだよ。お屋敷暮らしには珍しいかもしれんが』
客間は全部で四つ。三倉の宿泊客は徒歩圏内に散らばる湯巡り施設を利用するため、内風呂は狭く家庭の浴槽と変わりない。
『あら、私の素性は伝えてないはずだけど?』
『高貴な人間は立ち振る舞いから違うものですよ、お嬢様』
『その呼び方やめてくれる? 嫌いなの』
屋敷には彼女をそう呼ぶ人間が何人もいるのだろうか? 最初に想像したより何倍も立派な家柄なのかもしれない。
だからこそ、こんな田舎に無防備かつ一人でいることが、紘人には信じられない。
『ではなんとお呼びしましょうか?』
本館を出て、離れに向かう渡り廊下を先導しながら少女の返事を待つが、なかなか声は聞こえてこない。仕方なしに振り返ると、少女は紘人の顔を品定めするようにじっと見つめる。
『ねえ、出会ったばかりの男性に本名を教えるのも、不用心にあたると思う?』
『そう思うなら偽名を名乗ればいい』
話の流れで聞いてみただけで、紘人はそもそも少女の素性に興味なさそうだ。
それもそうね、と呟いたあとに。
『あかり……よ。そう呼んでちょうだい』
名字は? と聞き返しそうになったが、止める。おそらく明日の朝にはあかりはここを発つはずだから、知ったって仕方がない。
『覚えておくよ』
『おじさんは名乗ってくれないのかしら?』
こちらに言わせたのだからそちらも名乗れ、と言わんばかりの声音。
『……紘人。好きに呼んでくれていいよ』
おじさんだろうと何だろうとどうでもいい。ここ数年で一気に老け込んでしまったと彼自身が思っている。
再び歩を進め、離れの入り口を開く。車に乗る前に許可は得ていたものの、申し訳のなさが胸の内にある。優しさや面倒見のよさにつけ込むような真似をするのは気が引けてしまう。
『それで今から会ってもらうのが、ゆきさん。ここ蛍火のオーナーであり俺のおかあさんにあたる。無償で部屋を貸してくれるのだから、お礼くらいは言ってくれな』
『どれだけ傍若無人だと思っているの? 当然感謝しているし、念押しされなくてもお礼くらいちゃんとする』
とは言うものの、紘人に対する接し方はずいぶんと上からに見えてしまうが。言い返した後に、あかりは気がついたのか言葉を重ねる。
『そうだ、あなたへのお礼がまだだったわね、私を拾ってくれてありがとう。助かったわ、ひろくん』
好きにしろ、とは言ったが。冗談のつもりなのか、舐め腐っているのか理解しかねる。
まさか、親しみを込めてではあるまいに。紘人は考えるのをやめ、ゆきの居室の扉をノックした。
『遅くなってごめんなさい、入っていい?』
『どうぞ』
◇◇◇
「あら、随分遅いお目覚めね。お客様たちはもう、朝食を食べて散歩に行ってしまったのよ」
本館のリビング兼宿泊客の食事処に顔を出すと、ゆきとあかりが仲よさげに談笑していた。紘人に気づいたあかりは、昨日は見せなかった笑顔を浮かべながら彼に小言を言う。
「まだ9時半だろう。俺の仕事は11時からなの」
「ゆきさんは5時に起きて朝食を準備していたのに?」
「あかりちゃん、紘人さんには夜のお仕事を任せているから、朝はゆっくりしてもらっているのよ」
あかりに蛍火を案内した後も、紘人は帳簿の管理などの雑務をこなしていた。就寝したのは客がみな寝静まってからであり、なるべくゆきの起床時間と合わせて空白が生まれないようにしている。
「だからって、お客様のいる空間に寝ぼけ眼で来るのはよくないわ」
一理ある。紘人が言い返せずにいると、あかりはわざわざ彼に近寄って顔をまじまじと見つめてくる。
「無精髭、散らかった髪型、全然だめね。それに、昨日から気になっていたのだけれど、どうしてそんなに生気のない目をしているの?」
そういうあかりは、夜を纏っているときとは大分印象が異なる。
今日はまっさらな白のサマードレスという出で立ち、麦わら帽子でも被せて丘の上で風を浴びていたらよく似合いそうだ。紘人に身だしなみを説いただけあって、長い黒髪はバンスクリップで後頭部に纏められているし、メイクもばっちりだった。
改めて見ると、やはり若い。昨日の会話から、進路に悩む学生といったところか。
「年を取るっていうのはそういうことだ。君みたいに寝て起きたら充電が満タンになっているわけじゃないんだ」
「ゆきさん、ひろくんっていくつなの?」
「今年で28になるのかしら」
「まだ20代なのにそれじゃあ、中年になったときに辛いわよ」
説教臭いやつだ、と紘人は思う。
「なぜおかあさんに聞くんだ」
「あなたに聞いても適当に誤魔化しそうだもの」
「…………」
当たりでしょ? と言いたげな目線を寄越してけらけら笑う。昨夜との態度の違いに酔いそうになる。
屋根の下で眠ることができてこわばりがほどけたのだろうか? 気難しいお嬢様という第一印象はすっかりなりを潜めている。
「顔を洗ってくる」
「紘人さん」
逃げだそうとした紘人をゆきが呼び止めた。
「準備が出来たら、あかりちゃんとわさびを取ってきてほしいんだけど……」
彼の頭に疑問符が浮かぶ。なぜあかりを伴って仕事をしなくてはならないのか。
「もう電車もバスも動き出しているはずだが」
朝起きたらもう出立している可能性まで考えていたのに。
「ゆきさんがね、よかったら何日か滞在してていいとおっしゃってくれたの。私、もうちょっとこの町にいたいわ」
お言葉に甘えすぎではなかろうか。こういう奴が詐欺に引っかかるんだろうと紘人はあかりの行く末を案じる。
「だから紘人さん、色々とあかりちゃんに教えてあげてほしいの。頼めるかしら?」
面倒なことになったと紘人の顔には書いてある。行き場なき少女を哀れんで救いの手を差し出したのに、まさか世話までしなくてはならないとは。
嫌に決まっていた、けれど、ゆきのお願いを断ることはできないのだった。
紘人はしぶしぶ了承し、少女と連れだって蛍火を出る。




