プロローグ
月が消えた夜だからか、いつもより人が多い。
八島紘人は丘を登り切り台地の賑わいに不満げな吐息を漏らした。年若いカップルが全体の半数以上を占め、次いで写真家とおぼしき装備の人たち。シートを敷いて寝そべっている者もいて、これでは設置するスペースが限られる。
みな上空を見上げているからぶつからないようにしつつ、なるべく水平な場所に紘人は陣取り、運んできた三脚を地面に噛ませた。
手際に迷いはない。次々とパーツを取り付け固定して、あっという間に組み上げる。周りの視線を集めるほどの立派な天体望遠鏡だ。
紘人は砲身を上に向けてかがみ込み、空の隅々まで睨みを利かせる。天の川が今夜の主役だった。新月期かつ雲のない日、これほどのコンディションはなかなかお目にかかれない。
田舎だけあって星を霞ませる街灯もない。これを目当てにやってきた観光客もほぅっと息を漏らすほどの絶景。
だというのにこの丘で、つまらなそうにしている人物が二人いた。
紘人はとても趣味に興じているとは思えないほど苦々しげに、険しい表情でアイピースを覗き込んでいる。
そしてもう一人、彼に近寄る人物が
「ねえ、何が見えるの?」
紘人は反応しなかった。一人で来ているから自分への呼びかけだと考えなかった。
「ねえってば、そこのおじさん。望遠鏡の人」
より具体的に指定され、彼はのそりと身体を起こし周囲を見渡した。
年若い女の子が紘人と望遠鏡を交互に眺めている。まだ二十代後半の紘人だが、この子にならおじさん呼ばわりされるのも仕方ないと思う。
初めは、四肢と顔の輪郭が不気味に浮かび上がって見えた。
驚いて身構えてしまったがなんのことはない、服装が黒のワンピースであり、腰までストンと伸びた漆黒のロングヘアが闇に同化して映っただけだ。
夜を凝縮したような黒い瞳が紘人を観察している。
「ああー……、うん」
瞬きを繰り返し、近くの人物に焦点を変えるように意識する。次第に目が慣れてくる。少しだけ考え込んで、彼は回答を口にした。
「ある人は蛍舞う海原と言った。またある人は空に並んだ五線譜だと。そして、ある写真家インフルエンサーが『星の描いた地図』と名付けてからは、ここは一躍有名になった。知っての通り正体は天の川銀河だ、それが見える」
紘人は観光客向けの文句を並べてみせる。大げさな呼び名をもらったが、地元民からすれば地主の名を冠した『椎名の裏山』でしかなく、昔から当たり前にここにあった星空が注目されるのは面映ゆい気分になる。
「その呼び方は知ってる、だから観に来たんだもの。でもいまいちピンと来なくてね、どのあたりが地図なのか知りたいのよ」
「そこはほら、個々人の感受性によるから」
「あなたにとってもあれは地図なの?」
「少なくとも俺にとってあれは地図じゃない、けど、そう名付けた写真家はこの光景を出世作として一躍有名になったようだよ。だからその人にとっては未来への地図も同然だったろうね」
これほど世間に知られたからには、多くの共感を得たのだろう。だが少女は納得できてないようだった。
「導かれるように吸い寄せられるように、写真家は何度もここに通い、空を切り取った。地図上の自分の位置を確かめるようにね」
「残念ね、私にはあれを指針に生きていく感受性はなかったみたい」
「名前に惹かれて現地まで来ている時点で結構なロマンティストだと思うけど」
「だったらいいなって期待していたの。自分にもそういう、女の子の隙みたいな部分があるんじゃないかってね」
「せっかくだからちゃんと覗いてみるかい? どこかに光る矢印が浮かんでいるかも。五分100円でこいつを貸してあげよう」
「阿漕な商売ね」
「観光地価格だから」
冗談のつもりだったのに、少女は小銭入れから硬貨を取り出し紘人に渡した。キャッシュレス化の波は田舎までは届いておらず、この町では相変わらず現金が手放せない。
少女が、空を見据える。
紘人は使い方を説明しながら少女の姿を観察する。綺麗な娘だ、こんな田舎ではまず出くわさない、洗練された都会人のオーラを感じる。
鏡筒に添えられた指のしなやかさ、闇を弾くくすみ一つない白い肌、全体的に細身ながらスタイルは抜群で、決して低くない身長の紘人とも大して背丈は変わらない。
顔の整いようはテレビの向こう側で見かけたとしても違和感がないくらい、美しいパーツの作りで見入ってしまいそうだったが、あまりじろじろと見ていては周囲に不審者扱いされかねない。ただでさえ大型の機材を持ち込んでいて目立っているのだし。紘人は空に視線を戻した。
「行き先は見つかりそうかい?」
「つまらない道なら二、三本、見えているんだけど。選びたくないわね」
「真っ当に、普通に、生きていく道?」
「特別な場所や体験が、そうじゃない方を私に示してくれると思ったんだけど」
「間もなく延長料金が発生しますお客様、観覧を続けますか」
「まるでこの星達を我が物かのように扱い人から金品をせびる。素晴らしい景色は心まで綺麗にしてくれないのね、知見が広がったわ」
少女はアイピースから顔を遠ざけ、紘人に向き直った。
「ありがとう。素敵な夜だったわ」
ちっとも満足していなそうな顔で少女は言葉を並べた。
「楽しんでいただけたようでなにより」
「なるほど、遠くを見つめるほど近くの人のことはぼやけてしまうものなのね」
「そうだね。倍率が高すぎると遠くの惑星はよく見えても、天の川の全体像は捉えづらくなるように、探し物って案外近くにあるのかもね。見知らぬ土地や景色じゃなく、日常の中とか自分の周りにさ」
ちっと結構な音が鳴った。美人の舌打ちはおっかないと紘人は思う。
「イヤミな人ね、あなた」
「応援してるんだけどね、伝わらないかあ」
人生の指針。生きていく道、その方角。自分が生まれた意味やすべてを懸けられる何か。それがほしい気持ちは彼にも痛いほどわかる。
誰しも、自分が手にしたものが特別だと思いたい。素晴らしいのだと信じたい。少女の身の周りには輝く星が見つからなかったのだろう。
だから迷い、探しに出たのだ。
見つかるといい、そして、手にしたのならどうか、離さないでいてほしい。
「それじゃあ、よい旅を」
紘人は望遠鏡を一つ撫で、再び天体観測に戻ろうとする。
「待って。あなた、地元の人よね?」
「まあ、一応、そうなるかな」
「この時間から小川市駅まで戻る手段ってないのかしら?」
この子は何を言ってるのだろう。
三倉町は自然豊かで景色が売りの田舎である。となると当然、交通の便はよくない。市街に出て行くバスもあるにはあるが、使用者はもっぱら車の運転ができない学生であり、下りはまだしも上り最終便など昼の三時頃で終わってしまう。
まさか公共交通機関で、一人で、ろくに下調べもせずここまで来たというのか。
「あるわけないでしょこんな時間に。大体、星を見に来るのに宿取ってないの?」
「はっきり言わせてもらうと、侮っていたのよ。宿泊施設はど田舎の割に相当な数があるし、現地へ向かう車中でも予約が取れるだろうってね」
紘人は内情をよく知っている。今日が絶好のロケーションであるのは天気にも恵まれたのもあるが、何より月が出ていないからだ。毎年七月の新月を確かめて数ヶ月前から宿を予約する客も珍しくない。
当日に部屋を押さえられるほど甘くはないのだ。荒天などのトラブルがない限りは、キャンセルもそうそう出ないだろう。
「都会ではアプリで呼び出せば数分でタクシーが来るのよ、たとえ12時を回っていようとね。それがこの町では、会社に電話しても出やしない。信じられないわ、まだ9時前なのに」
「需要がないんだよ。こんな辺鄙な土地、みんな自分の車がある。それに万が一捕まったとしても、ここから市の中心街まで一時間くらいかかるよ。とんでもない額になる」
「旅費には困っていないのだけれどね」
口調や雰囲気からいいとこのお嬢様なのだろうと想像していたが、どうやら当たりのようだ。世間知らずなところも推論を補強する。
「あのさ、金を持ってるとか言わない方がいいよ。悪い大人に目をつけられてしまう」
「あなたみたいな?」
「親切で言っているのに」
華奢で綺麗でお金持ちの女の子が無防備に一人で旅をしている。外国だったら絶対にさらわれている。この国だって安全じゃない。特にこんな、夜に人の往来が少ない山の中などは。
「…………そうね、迂闊だったかもしれない」
少女はじっと紘人を見て考えを改める。それも失礼な話だが。
「見通しが甘いね、旅をするなら時刻表くらいは頭に入れておくべきだった」
「ええ本当に。自分の至らなさを噛みしめながら、今日は満天の星の下、眠りにつくことにするわ」
どうやら寝袋は持ってきているらしい。最後の備えまでしておきながら、どうして手前で何回もしくじるのか。
「正気か。どうしてもと言うなら街まで送ってあげてもいいぞ」
熊はでない、が、イノシシや野犬くらいなら出るかもしれない。それにテントも張らず屋外で夜を越せば、全身虫刺されになってしまうはずだ。
「ご厚意はありがたいけれど、そこまでしてもらうのは悪いわ。それに、狼が出そうだし……ね」
授けたばかりの警戒心をさっそく発揮していて、紘人も満足げに頷く。
「そうだな、人の優しさは簡単に信用すべきじゃない。特に君みたいに抜きん出て綺麗な女の子は、常に警戒していなきゃな。でも本当に、どうしようもなくなったらここを訪ねるといい。野宿は免れるだろう」
彼は一枚の紙を差し出す。名刺――いや、ショップカードか。
そこには電話番号と住所、そして、施設の名前が書かれていた。
『ペンション 蛍火』
「俺のおかあさんが宿をやっている。困っている人はほっとけない人だから、客室が埋まっていても事情を話せば泊めてくれるはずだ」
この丘からそう遠くない。歩いて行けなくもない距離だった。
「……話が出来すぎている」
「そうだね、だから来るかどうかは自分で考えて決めなさいよ」
田舎の人の温かみととるか、何か裏があるのかと勘繰るか。
「もちろんペンションには俺も寝泊まりしているからな、スタッフとして。それを考慮した上で答えを出すんだな」
さて、余計な邪魔が入ってしまった。紘人は今度こそ星を探しに夜に潜る。傍らの少女が動いた気配はない。次第にそれも気にならなくなり、彼の脳内は星と星を線で繋ぎ始める。
星座はこじつけだ。そう描きたいと誰かが願ったから、夜空に形をなしたのだ。これはことだ、わしだ、はくちょうだなんて決めたからそう見えてしまうんだ。
想えば、願えば、自分だけの線を描ける。
探そう。きっとまだ、どこかにいるはずだから。
糸を引き、繋いで、結んで。
「ねえ」
裾が掴まれる。
あーあ、邪魔しやがって。
「……ごめん、頼らせてもらっていい?」
「送迎つき一泊100円になります」
これが、彼にとって最後の、少女にとって未来で何度も振り返ることになる特別な、
夏の、はじまりだった。




