その星の名は――
不意にまぶたが勝手に開いた。意識を失っていたことに酷く焦燥した。自分は蛍火に辿り着いたはずだが、それも夢だったらどうしよう。來宮で倒れ、約束の刻に間に合わなかったのではないか。記憶が混濁していてどれが正解かわからない。起き上がろうにも力が入らない。私は、一体。
「死んだように寝てたぞ、君」
「これから死のうとしてる人間に文句言われたくないわね」
不機嫌そうな彼の声に軽口が反応した。ああ間違いない、私は蛍火に帰ってきたのだ。春乃の部屋に残されたベッドに寝かされている。
「一体どんな無茶をしたんだまったく。ここまで運ぶの、重くて大変だったぞ」
「あら、星見の丘で倒れたくせしてその言い草? それに私の体重はかなり軽い方だから訂正しなさいな」
「これで貸し借りなしで手打ちとしよう」
「馬鹿言わないで。倒れた振りしてえっちなことしたでしょ。私の貸し、100のままだから」
これには紘人も反論できない。
「どうすれば返せる?」
「100回キスしてくれたら許してあげるかも」
「君さあ、自分の容姿に甘えてるところあるよね。直した方がいいよ、可愛いから許容されているだけで、今の台詞やばいからな」
「…………ぅあ」
顔が、耳が、一気に熱くなった。身体に熱が戻ってきた。可愛いなんて急に言うから。
「照れんなよここで、今更。自覚してるくせによ」
ええそれも私の武器だものとでも返してやれればよかった。貸しを99にしておいてやる。
紘人は深く息を吐いて、寝床を上から覗き込む。
「それで、無茶をした結果がそこにある、と。頼む、見せてもらいたいんだが」
あかりは胸に抱いた封筒の存在を思い出す。離すまいとしていたようだが、折れたりしていないか慌てて検分する。
「まだ続きがあるんだろ?」
紘人はあかりが溢した数枚を目の前に掲げてみせる。
あかりが持ち帰った紘人を繋ぎ止める唯一のピース。ここですべて渡してしまうには惜しい。春乃の真意を伝えるなら、やはり。
「見たい?」
「無論」
「なら、空の見える場所に行くわよ。お姫様だっこのまま星見の丘まで運んでちょうだい」
「メイドを召喚するには指を鳴らすんだったか?」
「駄目よ。あなたが運ぶの」
「重たい女だ」
あかりはムッとするが、自分でも重たい愛だと思う。
「動けるようになるまで待ってやる。ほら、飲んどけ」
スポーツドリンクが手渡される。キャップは捻って開けてくれた。素直に口にした。糖分が身体に染み入っていくのを感じる。
「……感謝するよ。心残りだったんだ、このカメラに眠っている写真が」
ぼそりと、ともすれば聞こえないくらいの声量で、紘人は漏らした。
「ありがとう、あかり」
これが、あかりに対して紘人が向けた、最初で最後の笑みだった。
◇◇◇
残念ながら、彼が予定していた日を一日跨いでしまった。
日付は春乃の命日を超えた。未だ明け切らぬ空の下で二人は対峙する。時間は稼いだ、だが、ここからが正念場であることはあかりにもわかっている。
緊張を悟られぬように星を眺める。他に誰もいない、月も出ていない絶好のロケーション。
ただ気になるのは、もう風が冷たくなってきていること。
夏は死んだ。
焦がれるような暑い季節が過ぎ去り、やがて秋が来る。星座も移ろってゆく。春乃が待つはくちょう座も西の空へと流れていく。
二人は無言でしばし佇んでいた。
望遠鏡も双眼鏡も持ってきていない。ただ、消えゆく星あかりを肉眼で追いかけていた。
「もうちょっとだけ時間くれ。これが最後の星見だから」
「わかった」
こうしていられるのもあと僅かだと思うと、あかりの胸を寂寥感が支配する。彼の命を繋ぎ止めたとしても、自分は戦場に赴かなければならない。
写真の対価を支払うときだ。
來宮の後継者として会社を守る。この愛した町で働く夢はどうしたってもう、叶わない。
「……はい、これから」
あかりは紘人に写真を提示する。いつもの春乃らしい作風、昼のこの丘から町を見下ろした構図だ。
「ライト、いる?」
「いいや、平気だ」
紘人は顔を間近まで近づけて写真を凝視した。彼は過程を知らない。どれだけの熱意と作業量でこれを現像したかわからない。適当にそれっぽくでっち上げたと思われても仕方ない気もする。紘人をどんな手でも繋ぎ止めたいあかりが、春乃の写真を偽造した。疑いも多少はあったのだろうか、まじまじと、ただの風景をじっと眺めていた。
「綺麗に残っていたのか? データの吸い出しは無理だと断られたのだが」
「そのままの質感で残っていたのもあるよ。でも最後の方は、まともな形をしてなかった。復元するために、私の実家を頼ったの」
「そうか……」
彼は写真に春乃の魂を感じたのだろうか、次、その次と請われるままに渡していく。
町の人々がこれほど多くを占めているのは紘人にとっても驚きだったようだ。内容を総括すれば「三倉町のアルバム」とでも呼ぶのがふさわしい。
人々の息遣いが写真から浮かび上がってくるようだった。そこに撮影者である春乃の姿も映っていて欲しかったとあかりは思う。
「ね、未完成だったのよ。あなたの作ったアルバムは」
紘人を隠し撮りした何枚かを纏めて渡す。
「あいつ、いつの間に……」
彼がかつて自罰的に語ったように、仕事に打ち込んでいる姿は確かに余裕がなさそうだ。だからこそ懸命さが伝わってくる。それは妻を守ろうとする男の戦いだったのかも。
「あなたの写真がたまったら、いつか見せにくるつもりだったんじゃない? いたずらしたことを白状して、笑い合って」
あかりの目に光景が浮かぶのだから、紘人からしたらもっと鮮明に映るはずだ。
「死んじまったら意味がない。カメラごと燃やしてやるところだった」
一度、空に向かって愚痴を吐いて。
「構う余裕がなかったんだ。寝る時間さえ削った。夢に蛍夏が出てくるのが怖かった。だから、仕事に溺れた」
自分の弱さが春乃を追い詰めたと彼は自戒している。紘人が余裕をなくしていく様を、レンズ越しの春乃はどんな気持ちで見ていたのだろう。
彼と同じように自分を責めたのかも。
痛みを共有していた二人は、傷が穿たれる前とは同じ形でいられなかった。
「不甲斐ないよ。パートナーとして寄り添ってあげればって、後悔は消えてくれない」
「春乃さんがあなたを赦してくれれば、あなたは自分を赦してあげられる?」
紘人は顔をあげあかりと視線を絡ませる。数秒の交錯ののち、ふっと顔を背ける。
「わかんないよ。向こう行ってから決める」
僅かな隙をあかりは逃さない。向こうになど当然逝かせない。
「あなたが思うよりずっと、春乃さんは前を向いていたのよ」
紘人に伝わってほしい。解説なんかしなくたって、この光が彼の心を貫いてほしい。
二人並んで歩いて行く誓いを、春乃は最後の写真に込めたのだから。
「どうしてそう言える?」
「こんなに沢山の人々が映ってる。春乃さんが写真を撮ろうとしたら笑って彼女の方を向く。愛されていたのね、町に。そして、あなたにも。蛍夏ちゃんの悲劇を抱えてなお、春乃さんは生きようとしていた」
「だから、なんで君がそう言えるんだって」
急かすような、すこし苛ついたような紘人の声も、あかりは真正面から受け止める。
「写真が」
あかりが切り札を取り出したとき、紘人の動きが完全に静止した。
「……見えるかな。これが、カメラに遺された最後の一枚」
薄ぼんやりとしたあかりが、闇を徐々に食い潰していく。東の連峰のシルエットが浮かび上がる。
夜明け前の、頼りない青の色彩が、春乃の遺作を現像する。
これまでと違いがっつく様子はなく、恐る恐る、彼はその写真を覗き込む。
「…………なん、だ、これ」
「完璧には復元出来なかったけれど、あなたならわかるよね」
黒く皺だらけの背景の中でたった二つ、寄り添うようにその星たちはあった。
「アル、ビレ……オ」
はくちょう座のくちばしにあたるその星は、独特の輝きを放って夜空に色を添える。
「うん、よかった、見つけてくれて」
あかりは現像室で一粒の星を探そうと全力を尽くした。果たしてそこにあったのは、並んだ二色の、
「青と……金だ」
まるで紘人と春乃、二人の指輪の色を象っているような星。
因果が逆だ。春乃はこの星を愛したからこそ、指輪のモチーフに選んだ。サファイヤとトパーズ。それぞれ異なる光を誓約のしるしとした。
「あ、あぁ……」
「あなたたちの指輪の色よ。支え合って、二人でも、生きていこうってメッセージじゃない?」
春乃は天の川を『星の描いた地図』と名付けた。
多くの人の目に触れ、個々人が様々な解釈をし写真の美しさに惚れ込んだ。
紘人はそれを十字架だと背負い、墓標だとも語った。
だがその中には隠されていたのだ、二人で進むための道しるべが。
「春乃さんは、絶望に暮れてなんかなかった。この空の下で露光時間を稼ぎながら、一番綺麗に青と金が並ぶ瞬間を待っていた」
自ら死を選ぶ人間が、そんな真似をするはずない。
喪った蛍の光ではなく、永遠に輝き続ける二重星を捉えて。
「あなたの、ために……この写真を」
三年の時を超えて、写真が二人を繋いだ。
未来への意思を示した春乃と、過去に囚われた紘人がようやく邂逅する。
「あなたの負けよ。彼女は生きたかった、あなたと並んで、ずっと、生きていたかったのよ」
紘人は崩れ去り、夏草を強く握りしめる。知りたくなかったのかも。このまま自分の意思で閉じてしまった方が、よっぽど楽だったのでは。
「…………だ、けど」
「これ以上あの人を傷つけたくないなら、生きなさい」
「けど、もう、俺は……」
煮えたぎった後悔と自責が、彼の深奥から噴出した。
「だけど俺は、もう生きていたくないんだ! どうしようもない糞みたいな世界だ、全部奪っていきやがる。掴んでなくして……だったら最初から与えるんじゃねよ!!」
慟哭が空に溶けてゆく。怒りと悲しみが綯い交ぜになった痛ましい咆哮。。
「もっと一緒にいたかった。ともに、最後までともに……歩いていきたかったのに」
あかりは受け止める。主演にはなれなかった物語の結末を、じっと聞いてやる。
「愛は漸減する。想いは摩耗する。熱は、温もりは指から零れていく! このまま色のない日々が続けば、考えてしまいそうなんだよ」
「こんなに苦しむくらいなら、出会わない方がよかったんじゃないかって」
「だからそうなる前に、俺は俺を保存するんだ。たとえ向こうで、彼女に叱られるとしても」
恐怖の根源を覗き見た。保存と語った意味がようやくあかりの胸中で腑に落ちる。忘れていく前に、気持ちをパッケージして時を止める。
私も、あなたに出会うべきじゃなかったのかな?
あかりの中に疑念が宿る。沢山つらい想いをした。このあとだって、きっと涙に暮れる。愛した人のいない場所で戦っていく。一生來宮に縛りつけられる。
天秤にかける。
彼がこの世界から消えていってしまうことに比べれば、些細なことだ。
後悔はない。
私は、初恋に呪われたまま生きていく。
「忘れなくていいよ」
「…………えっ」
「痛みも苦しみも悲しみも、抱えたままでいい。重荷を抱えたまま、脚を引きずりながら、生きていってもいいんだよ」
紘人は泣きはらした顔で、あかりを見上げる。
私が支えてあげるから、という言葉を、あかりは、決して口に出さぬよう、
決して、
「ここで後を追ったら、彼女がもっと責任感じちゃうよ」
蛍夏を上手に産んであげられなかった。
春乃はゆきにそう語って涙したのだという。
彼女はその痛みを抱えてなお、前を、上を向いて、星を。
「これ以上、春乃さんを追い詰めないで。つらくても、あなたは、生きてよ」
あかりも膝立ちになり、紘人と視線を合わせる。
「…………あ、かり」
呼ぶ名前が違うよ、馬鹿。
「俺、やだよ……。未来が怖いんだ。この先何十年も生きれば、いつか、隣にいないことが当たり前になっていく。忘れたくない、耐えられないんだ……」
「大丈夫よ。一途なのがあなたの良いところなんだから」
きっとこの先も、忘れられずに苦しむ。その度に愛が深まる。そうやって、かさぶたにならないままずっと、痛みを抱えていく。
「あなたの胸に空いた傷はそんなに浅くない。自信を持ちなさい」
そしておそらく、私の傷も。
「寂しくなったら星座を探せばいい。いるんでしょ、あそこに。ずっとあなたのこと、見守っていてくれるから」
祈るように、彼は夜空を見上げた。
「ぁ、ぁあ……」
「ちょっとくらい待っててくれるって。星の一生に比べれば、あなたの人生なんて一瞬よ」
「お、れ……、ずっと……」
見るも無惨な情けない表情だ。
けれど、今まで見たどんな彼より愛おしい。
やはり私は、趣味が悪いのかな。
「春乃、俺、生きて……!」
そこからは、言葉にならなかった。
「ぁぁあぁぁあぁぁああ!!!!」
力の限り抱きついてきて、子供のように嗚咽する。
決壊した涙も鼻水も、全部なすりつけてきやがった。
まあでも、好きな人のだから、ゆるす。
しがみつかれた感触も、火傷しそうなほど熱い身体も、なくさないでいられたから。
あかりは頭上を見上げる。
東の空から、橙とも紫ともつかない光の塊が昇ってきているのがわかる。
夜があけていく。
一日が始まる。




