最後の一枚
「お嬢様、少し休まれては……」
「心遣い感謝するわ。でも時間がないの」
あかりの記憶を頼りに写真の現像は進んでいた。後半になるほど写真の欠損は酷くなるが一枚一枚、紘人が見たとき春乃の写真だと思えるように補正を施してゆく。
夜を何度も徹した。
現像師は代わる代わる彼女の補助を務めたが、あかりはずっとその場に詰めて写真とにらみ合いを続けた。
彼女の頬はどんどんやつれていくが、目の光は失われることはなかった。
春乃の見ていた世界を暴いてく。三倉の人と風景が鮮明に残されている。その中には紘人を映した物もあった。彼がそば打ちに挑む姿をバレないように遠目から撮った物。横顔でわかる。すさまじい集中力で仕事に向かっている。
こういう日常の思い出を、あとでこっそり現像してさ。隠し撮りだって笑ってみせる。幸せな光景が目に浮かぶようだった。写真はすべて蛍夏を喪ってからのものだが、春乃の息吹がカメラに宿っている。
あかりは確信する。
やはり彼女は死ぬつもりなどなく、彼と寄り添って、ずっと……。
「あと少し、もう少しで……」
彼を翻意させるだけの説得力を欲した。眠さや疲れは不思議と感じなかった。あかりは目を見開き写真に色を載せてゆく。ここまでついてきてくれた職人達もあかりに呼応し、休憩中も後ろから見守ってくれていた。
あかりの指示でパラメータを調整し、解像度が増していく。現像師もカメラや春乃のくせを捉え始め、写真の土台をより彼女の作品に寄せた状態であかりに受け渡す。
作業室には連帯感が生まれ始めていた。
あかりの指揮で春乃が蘇っていく。
「次で、さい……えっ?」
「これは……」
最後の一枚に辿り着き、全容が映し出されたとき、あかりも技術者も言葉を失った。
状態が悪くなるのは覚悟の上だった、だが、その一枚は、写真の体をなしていなかった。
残っていた撮影情報があかりに絶望を突きつける。
「春乃さんの、命日……だ」
救いの光が保存されていると思っていた死の間際の写真は、真っ黒に塗りつぶされ、ノイズの海に沈んでいた。
「そんな、これじゃあ何も……」
あかりの指先が真っ暗のモニターに触れた。さっきまでここに春乃の輪郭があったのに、今は何も感じない。
「この写真を最後に、カメラが壊れたんですね」
状況も経緯も知らない彼らは早くも諦観を漂わせ始めた。SDの復旧から始まりここまで、当初の写真は綺麗に残せていただけに、落差にショックを受けている。
「試せる方法は試してちょうだい。何かが映ってるかもしれない」
現像師は頷き、暗闇の中へと身を投げた。
「露光量を最大限まで追い込みます」
本来なら白飛びしてしまう設定値にしても、そこにあるのは皺の寄った闇そのもの。あかりはこれを夜空だと考えたが、取り返しのつかないデータの破損の可能性もある。
「暗部1%以下を強制ストレッチ。……うおっ」
思わずプロが呻きを漏らすようなノイズがのたうち回っている。
あかりの指示通り思いつく限りの方法を試してもらった。しかし歪み方が酷くなるだけで、一向に元の情景が浮かび上がってこない。
まずい、時間がもうない。
アドレナリンが出ているのをあかりは自覚していた。脳内麻薬が切れるまえに終わらせなければいけない。
ここまでの成果物も十分、彼の思い出を呼び起こしてくれるはずだった。ならば今すぐ最後の一枚を諦めて三倉に戻り、春乃は生きたかったんだと紘人を説得すべきか。
「…………あっ」
ふと、隣に置いた春乃のカメラが視界に入る。
傷だらけだが、まだ、燃やされることなくここにある。
春乃さんは、きっと滑落して亡くなる間際まで、カメラを庇ったに違いない。
愛する紘人が絶望しないように、この世に愛と写真を遺していってくれたのだ。
これがカメラに眠る最後の写真だと言うのなら、絶対に星が映し出されている。
信じろ。
春乃は必ず、紘人のための光を切り取っていたのだと。
「もう一度、やり直して」
「お嬢様、これはもう……」
「これを夜空だと仮定する。カメラの持ち主は星の写真家として名を馳せたの。だからどこかに一点、星の粒が潜んでいるはずよ。他の背景は捨てていい」
「それでは写真として……」
「肝心の部分がわかればいいの! お願い、ノイズの中から星を探して!」
現像師とあかりは再びマゼンタとグリーンに覆われた漆黒へ潜っていく。AIによる補正から手作業でのあぶり出しまですべて試した。都会の空に星座を探すような試みだった。地上が明るいほど夜目は利かなくなる。それでも空を見上げる。中々気づけないだけで、星は、変わらずそこにあるのだ。
「ここを重点的に処理して!!」
ちらりと、一瞬だけ何かがあかりの視界で弾けた、それは蛍の光のように弱々しく見逃しても無理はないような微弱な反応だった。
導かれるように、あかりは、見つけた。
現像師が息をのむ。ようやく、写真に意味が刻まれた。
「…………これって」
背景は皺の寄った黒い波で覆われていてお世辞にも綺麗とは言えない。
けれど、これこそが春乃の映したかったものだと断言できる。
「一つじゃ、なかった……」
紘人に届けなければ。
その一心で、あかりは身体を叱咤し奮い立たせる。動け、走れ、まだ間に合うはず。
蛍火へ、一秒でも早く。
◇◇◇
蛍火は本日より休業に入る。
最後の客を見送り、ゆきと紘人は一息ついていた。
「紘人さん、すぐに決めなくてもいいんだからね。わたし、まだまだ現役だから。少しだけ休暇を挟んで」
「おかあさん」
残念ながら彼に引き延ばす気などない。あかりを待ち続けるつもりも。
「ありがとう。俺、もしかしたら幸せだったのかも」
多くの人は人生を漠然と浪費する。
ただ食事をし、眠り、孤独を紛らわすように人と繋がりながら毎日を消化していく。誰だって劇的な人生を生きてみたいと思う。けどドラマの主人公に自分はなれないと気づいた瞬間から腐ってゆく。
無為が生きる熱を奪う。
それなりで妥協する。
それが大半だと紘人は考える。だが自分は、かけがえのない人と出会った。全霊を捧ぐに足る存在と結ばれた。なくしたけれど、確かに手にした。
これは幸せと呼ばなくてはならない気がした。
「この先にだって、まだ落ちてるかもしれないわ。私はまた見つけたよ」
「えっ?」
「また、娘ができたみたいで嬉しかったよ。はるちゃんの代わり、とかじゃなくて。ああ、この子達と出会えてよかったなってふと思うことができたの」
「…………」
「あなたはまだ若いんだし、それを探しにいっても良いんじゃないかな。はるちゃんだって、そうしろって言うと思う」
「俺は……」
開くはずのない玄関扉が開いた。
リビングにいた二人は身構える。客はもう取っていないから、町の誰かが閉業の挨拶にきたのか。インターフォンくらい鳴らせと紘人は愚痴る。
「出てくる。待ってて」
彼が玄関に足を向ける。
ああ、そうか。
確かにこいつは呼び鈴を鳴らさない。滞在してたのはせいぜい二月ほどのくせして、いつも蛍火を我が家のように振る舞っていた。
「……ひろくん、ただいま」
満身創痍のあかりが、紘人の胸に抱き留められた。ふらふらですでに意識はない。こんなに痩せこけていたっけ? 顔を覗くと驚くくらいの濃いくまを携えていた。
一体何をしたら、数日でこれほど消耗するのか。
よろけたはずみで、大事そうに抱えていた封筒から印画紙が何枚か零れ落ちた。
「これは…………」
あかりが何をしていたのか、紘人はようやく理解する。
封筒の中に残りがしまわれているのか。
胸の中に抱き込んでいるせいで手は出せない。
誠に遺憾ではあるが、起きるまで待っていてやる。
数時間、稼いだな……あかり。
でも、これが終わればさよならだ。




