來宮として
「それじゃあゆきさん、行くね」
その日の朝食の準備をきちんと終えてから、あかりはスタッフのエプロンを外した。いつもは適当なところに引っかけとくのだが、この日はきちんと畳んで、所定の位置に戻した。
「…………あかりちゃん」
一度実家に帰ると告げてからのゆきの瞳はずっと物言いたげだ。
「ありがとうゆきさん。あと、ごめんなさい。ここでずっと働いていたかったんだけど、無理かもしれない」
当初は自分たちがここを守っていけばいいと浅はかな考えをしていた。心安まる暇もなかった彼も、リフレッシュしてから世界と向き合えば考え方が変わるんじゃないかと。
今振り返れば、笑っちゃうくらいに甘い。
「いいのよそんな。あなたの未来まで犠牲にしなくてもいいの。…………だけど」
ゆきはあかりの下までやってきて、追いすがるように抱きしめた。
「けど、もうちょっとだけ居てもらえないかな? 紘人さん、このままだと本当にいなくなっちゃう」
ゆきの小さな身体が震えていた。怖いに決まっている。次々と周りの人間がいなくなってしまう。紘人もそうなれば、ゆきは孤独の中で生きていくことになるのだ。
「もしあの日までにあなたが戻らなかったら……」
「ゆきさん」
私に任せて、なんて安心させる言葉は渡せない。だって春乃を信じているが故のただの博打でしかないからだ。カメラの中に何もなかったら。紘人をさらに絶望の淵へたたき落とす事実が眠っていたら。そもそも復元できる? あかりの首を差し出すにはあまりにも勝率の低い賭。
「母親として言ってあげなよ。後を追うなんてしちゃいけないって」
「……だけど」
「気づいていたでしょ、彼の気持ち。何年も一緒に過ごしてきたんだから」
「わかってた。わかってるけど」
あかりは不思議に思っていたのだ。ゆきが事態を静観していることを、紘人に任せていることを。ゆきのことは大好きだ。ずっと蛍火で暮らしていけたらどれほど幸せか。しかしこの一点に関しては承服しかねる。
義理だとしても親なら寄り添ってあげてもいいのでは。
「どうして止めようとしなかったの? ゆきさんも辛かったのはわかるけど」
「気持ちがわかるからっ!!」
あかりの言葉を遮ったのは聞いたこともないような声量のゆきの叫びだ。
「あの人の痛みがわかるの……。家族を亡くした痛みに心が引き裂かれる毎日で……それがわかっているから、わたしには生きろなんて言えなかった」
ゆきにもきっとその選択肢がよぎったのだ。ましてやゆきは旦那にも先立たれている。二人で始めた蛍火を守っていくかどうかさえ悩んだはずだ。
「……ごめん、なさい」
これほどの闇を抱えながらも、灯火が消えぬように守り続けてきた。想像もつかない痛みと闘いながらゆきは笑顔を絶やさなかった。
なんと強く尊い。
あかりは自分の浅慮を恥じた。
「全部奪われるのよ。大切な人たちがいなくなる。そんな世界で、わたしは彼に希望を語ってあげられなかった」
背中にゆきの熱を感じる。愛しい人の体温だ。なくしたくない。うしないたくない。
悲しませたくない人がいる。
「だからせめて、見届けてあげて欲しいの。最期まであの人と一緒にいてあげて欲しい」
ゆきはもう止められないと悟っている。流れには逆らえないとしている。彼が自分を閉じることを前提として、ダメージコントロールにシフトしている。間に合わなければあかりが後悔するはずだと。
しかし諦めの悪い女にその理屈は通じない。
「ちゃんと約束したから平気よ。私が戻るまで、ひろくんは生きていてくれる。そして、その先も……」
旅立つ根拠は思い込みでしかない。紘人が春乃を追い詰めたなんてあり得ないと信じているからだ。だって、こんなにも彼女のことを愛している。今でも忘れられないほど重たい愛だ。春乃もきっと支えられていた。絶望の中にあっても、生を諦めたりしなかったはずなのだ。
「すぐに戻るから待ってて。春乃さんが必ず、ひろくんを闇の中から救い出してくれるから」
あかりは歩を進め、ゆきの抱擁を振り切った。
そして振り返り、笑みを向ける。
「……おかあさん、いってきます」
不意に想いが溢れて、そんなことを口にした。
ゆきはその場に頽れて両手で顔を覆った。あかりは拳を握りしめ、彼女に寄り添うことはせず、愛しい我が家の扉をくぐり外へと。
「……物騒ね。逃げたりしないわよ」
蛍火の門の前では、黒塗りの車とスーツ姿の男が数人、あかりを出迎えた。
昨夜のうちに車を寄越せと連絡をしていた。居場所をバラしたからにはもう逃げられない。
「さてと……上手くいくといいけれど」
後部座席に乗り込んだあかりは抱えたカメラをそっと撫でる。
ど田舎に不釣り合いな高級車が山を下っていく。
9月の三倉は肌寒いくらいだが、下界に降りればそうもいかない。変わらず連日猛暑日で、想像するだけで、気が滅入ってくる。




