覚悟と口づけ
8月が過ぎ去っていった。暦が進むほど、三倉は平地よりややせっかちに秋の装いを始める。9月になった、春乃の命日がもうすぐやってくる。
「ひろくん、お風呂連れてって」
どうしてこんな男の前で無邪気に笑えるのか。汚し、穢し、痛みだけを残していった最低な男なのに。
あの夜以降もあかりの距離感は変わらない。
紘人の意識は朦朧としていたし、未だに夢だったのではないかと疑ってしまうほど、平常運転のままだった。
「いいよ、行こうか」
もうそばに居ない方がいいのでは、とも思うが逃げてしまっては罪滅ぼしの機会もなくなる。もう一度ちゃんと話をして、謝罪をしないことには紘人は自分を見失ったままになる。
今宵の『蔵西』は盛況で、とても会話ができる状態ではなかった。女湯ではあかりの肌の綺麗さを皆が褒め称えていた。
もう痕は消えただろうか。陶磁器のように白く繊細な肌。自分なんかが触れてはいけなかったのに、乱暴に扱い、傷を穿った。
その事実だけでも、今すぐ消え去ってしまいたいくらいなのに。
「くそ……何なんだよ」
彼女からもらった熱が、まだ身の内でくすぶっている。あの夜の熱を思い出すたびに、紘人の四肢に新たな炎が滾る。心臓を凍らせたまま、あかりは紘人を蘇らせてしまった。
まるで、あかりに命を吹き込まれたかのように、意思を裏切りそこは肥大してしまう。
死ね、死ね、地獄に落ちろ。
早くあかりの前から消えてしまえ。救いようのない下衆野郎が。嫌悪の刃で心を切り裂き、喪失の痛みでほてりを冷ます。自分を戒めることでしか自分を保てない。心のうちに、最悪の結末が浮かんできてしまう。
ひょっとして俺は、死んでも春乃の下へはいけないのだろうか?
裏切った。完膚なきまでに裏切った。
両手いっぱいの愛を抱えていっても赦してもらえないかもしれないのに。
他の女に溺れた腕で、どうして彼女を抱きしめられようか。
だからこそ、あれは間違いであってすべての責は自分にあるとあかりに謝罪しなくてはならない。
「……あかり。そろそろ出ようか」
「あっ、はーい。それじゃあ夏休みお疲れ様でした」
あかりは町の若女将たちに挨拶してから、脱衣所に向かったようだ。しばし間を置いて、収まるのを待って、紘人も温泉から腰を上げる。
立ち上がり、空を見上げて矢印を探した。
はくちょう座が自分を導いてくれる気がした。だが、今宵の天の川は白くけぶって、星の粒まではとても見通せない。
向き合わなければいけないのだろう。あちらへ渡った人ではなく、今、隣に居てくれる人と。
紘人は唇を噛みしめながら、くちばしのその先を一瞥した。
◇◇◇
「ハードルを高くしすぎたかしら。期待してた割に大したことないわね」
「そりゃそうだ。いつもの丘が格別のロケーションなんだよ。ここはあくまで避難場所。行けるなら外に出た方がいいぞ」
紘人が今、あかりの希望を無下にはできないことを感じ取っているのか、ここぞとばかりに彼女が掃除をしたドームに誘われた。二人きりで話したかったからちょうどいい。
かつて春乃とそうしたように、ブランケットだけ敷いた床に寝そべる。成人が並べば隙間はほとんどなくなってしまう。
「三倉の冬は寒いからな。外に出るのが億劫な日には、ここで星を探すのさ」
「やっぱり雪すごいの?」
「ああ、降るときはかなり積もる。ゲレンデも近くにあるから、それなりに客も来るけどな」
「ふふ、楽しみね。寒い中で温泉入ったら気持ちいいだろうなぁ」
「…………」
「冬の星座も勉強しなくちゃ。寒くなるまでに覚えておくから、あなたに答え合わせしてもらうわよ」
「…………ごめん」
「聞き飽きた」
「でも、さ」
「別にいいんじゃない? 私は嬉しかったし、あなたもその……不能じゃないってわかったのだから」
何が良いものか。仮にあかりが心の底から紘人の事を愛していたとしても、最後まで思い出になるような抱き方もしてやれなかった。
紘人とてもう悟っている。あかりがどれほどの覚悟と献身で彼の命を繋ごうとしているか。
いくつ謝ろうとも足りない。
まず一つ、応えてあげられないこと。もう一つ、消えない痕を残してしまったこと。あと一つ、未来を台無しにしてしまったこと。
結論は揺るがないのだから、謝罪するほかない。
「こんなに尽くしてもらって、優しくしてもらって。救われたならどれほど楽だったか。それでもそうはならなかった。そのくせ、君に酷い仕打ちをした。本当にすまなかった」
「意気地のない人ね。責任持って幸せにしてやる、くらい言えないのかしら」
「言えない」
「ひどーい。女の子のはじめてを奪っておいて」
おどけた口調で何故話せる。幻滅してくれればよかった。愛想を尽かしてしまう方が自然だと思うのに。
「ねえ、このまま死んでしまったら、春乃さんに合わす顔がないんじゃない?」
「それは……そう思う。俺は間違えた。彼女の下へはいけないかもしれない」
「罪滅ぼしが必要じゃないの? 例えばこの先、ずっと私の隣にいるとか」
あかりの手が紘人の手に重なる。不思議と嫌悪感はなかった。
「逝かないで、以外のお願い事なら何でも聞くからそれで勘弁してくれ」
「何でも言うことを聞くなんて、軽率に口に出すべきじゃないわよ」
一体どんな無理難題を押しつけられるのだろう。残された時間くらい、この子の好きにさせてやろうと思った。
「こっちを向きなさい」
「はい」
「目を閉じなさい」
「……はい」
「こら、顰めっ面しないの。気分が乗らないわ」
「注文の多いお嬢様だな」
「抵抗しないでね。そう、そのまま……」
想像したとおりの、柔らかな感触が唇を覆った。初めての時は重ねただけだった。だが今のあかりは積極的にねだるように紘人の唇を欲した。
繋がることで熱が生まれる。星だけが秘密の行いを見ている。もう二度と紘人の方から貪ったりしない。
けれど、あかりが満足するまで拒むこともない。
息が苦しくなるまであかりは離そうとしなかった。
「…………ぷぁっ」
紘人の口周りは彼女の唾液でべとべとになっていたがすぐに拭ったら怒られそうなのでしばしそのままにしておく。
「うん、ありがとう。これで頑張れそうだわ」
充電は満タン、とばかりに紘人に笑みを向けた。
「そいつは何より」
「早速だけど、明日から私、実家に戻ることにしたの。ささらを置いていくから協力して仕事を回してね。これ、お願いだから。ちゃんと聞いてね」
予想外の角度から頭を殴られたような衝撃。
彼女が口にした言葉の意味は理解できる。が、何故そうなるのか過程がまるでわからない。逃走の果てにこの町へ来たのではなかったか。三倉に居たい気持ちの元々の形は『実家に居たくない』だったはずだ。
「どう、して?」
少なからず紘人も動揺を隠せない。
「あら、寂しい?」
「違くて。なんで……あ、いつまでも夏休み気分じゃいられないもんな」
「馬鹿ね。学校のスケジュールなんて気にしたりしないわ」
新学期に合わせて逃避行は終わり、とはやはりならないようだ。
「だったら……」
「いい? このお願いは絶対守って。一度帰るけど、私はここに必ず戻ってくる。それを待たずにピリオドを打つことは許さない。わかった?」
わけがわからない。あかりが帰ってきたとして、祖父の立場なら外出などしばらく許可しないだろう。
「……もう時間がないんだ。君の都合で遅らせることはしたくない」
「必ず戻るから。信じて待ってなさい」
待つことで何かが変わるのだろうか。あかりの企みは想像もつかないが、もし信じた結果、彼女が戻らなかったら。
言いつけを守っていつまでも待ち続ける忠犬じゃあるまいし。
或いは、約束で縛りつけるつもりなのだとしたら。とてもそんな願いは聞けない。
「一体、何をするつもりだ。あれほど敬遠していた屋敷に戻るなんて」
「ひろくんは、責任感が強いし抱え込む癖があるし融通が利かないし思い込みが激しいわよね」
「どうした、いきなり人の長所を並べて」
あかりは深くため息をついた。論旨が探れず紘人は言葉を重ねる。
「君が何を言いたいのか――」
「あのね、本当に春乃さんの気持ち、考えたことある?」
あるに決まっていた。四六時中春乃のことばかりを考えていたのだ。
「ひろくんが、春乃さんの気持ちはこうだったって思い込むのはしょうがないよ。でもね、私はそれが正解じゃないと思う。だからそれを証明してあげるの」
「どうやって。彼女はもういないのに」
「ゆきさんに渡したアルバム、まだ未完成なんだよ。気づいてる?」
「…………え?」
「ひろくんも知りたいでしょ? 春乃さんの写真に込められた遺志を。私が完成させてあげるから、待っていなさい」
不敵な笑みを浮かべたあかりは、もう一度、紘人にちゅっと口づけをした。
「もう寝るね、明日は早いから」
そう言い残しあかりはドームの中から去って行く。
あの日の過ちを懺悔するためにここに来たのに、終始あかりのペースに巻き込まれこちらの言い分など通せなかった。
彼女は何かを確信し、動いている。それがなんなのかは紘人には全くわからない。
ただ、彼女の謀が実を結んだとき自分は死ぬことさえ許されなくなる。そんな未来を想像して、まだ夏だと言うのに全身の震えが止まらない。




