咲く前の花が散る
どんどん紘人の身体は冷たくなっていくようだった。濡れた服も脱がせて、身体を拭いて布団まで被せたのに。頬に触れるとぞっとするほどひんやりしている。
ろくにご飯も食べていなかったのだろう。日に日にやつれていくのは見て取れたが、食事に口出してもどうせ聞きやしないし。彼の中で、熱を生産するエネルギーがまるで足りていないのだ。
「どうしよう、このままじゃ凍えちゃう。こうなったら……」
低体温の人を救うにはどうすればいいか。
あかりの脳内にとびきりの解決法閃く。
しかしそれをやるには羞恥心を乗り越え乙女の覚悟を決めなくてはならない。
「……よし」
あかりは春乃の部屋を内側から施錠した。クローゼットの扉も、閉める。
ベッドで震える紘人を見下ろす。
彼を一人にはしない。
「…………おじゃましまーす」
あかりは頬を染め、ちょっとだけ期待しながら、紘人の眠る脇へ身体を潜り込ませた。
「ひぁっ」
待て待て心の準備が整っていない。侵入直後に絡め取られてあかりはパニックに陥る。彼の両腕が自分の背中に回されぎゅっと引き寄せられてしまう。
紘人は濡れた衣類を脱がすのが精一杯で裸のままだから、二人を隔てるのはあかりのサマードレス一枚しかなかった。
「う、うぁ……積極的だなあ」
意識がないのはわかっているけれど、求められているみたいでなんだか嬉しくなった。同時に、密着している部分のあまりの冷たさに当初の目的を思い出す。
「大丈夫。私の熱をあげるから」
むき出しの彼の身体に包まれているだけで、あかりの体温は勝手に上がってく。このまま抱き合っていれば紘人にも伝播してゆくはずだ。
「…………ぬおお」
紘人の顔があかりの首筋に埋められている。唇が肌に触れてしまっている。ささらに指摘されたように、あかりに経験はない。じっとしていろと言うのも酷かもしれない。
「わっ、ちょっ……」
本当に無意識なのだろうか。紘人の手があかりの尻を鷲掴んで引き寄せた。ぎゅっと腰と腰、腿と腿が密着してしまう。
あかりが異変に気づくのに、そう時間はかからなかった。
「え、ええ……? これ、もしかして」
右の内腿のあたりを何物かが蠢いていた。それはぐんぐん大きく、硬く、芯を持ちながら屹立する。知識としてはもちろん知っている。大好きな人のだから嫌悪感もない。けど、役立たずになったと彼は言っていた。
もしかしたら生命の危機を感じて、身体が勝手に命を繋ごうとしているのでは――――
「ひろくんっ」
「…………春乃」
あかりの心配は杞憂に終わった。冷や水をぶっかけられた気分だった。
あーそうですか。他の女の子を抱きながらそういうこと言いますか。良いですよ、私は最初からわかっていましたからね。どうせそんなことだろうと思っていました。彼が自分になぞ欲情するはずないと。夢の中で体温を春乃の物だと勘違いして久しぶりに臨戦態勢ですか。元気で何よりですよ。
でも、私は許してあげる。
取り違えでも構わない。身代わりでも受け入れる。
僅かな隙にでも自分をねじ込んで、彼の忘れられない女になってやる。
「こんなこと許すの、私くらいなんだからね」
紘人は夢の中で春乃を求めているようだった。
あかりへの愛撫が始まり、いよいよ彼の身体にも熱が戻ってくる。
「ひ、ぅ……んん,ひろ,くん」
首に吸いつくようなキスや尻を撫でるなどはまだ序の口だった。何もかも初めてのあかりは次々来る痺れに頭がパンクしそうになる。
「あっつい……!」
毛布の中に潜り込み暖を取っていたのだが、とても堪えきれない。あかりは布団を引っぺがす。紘人が離してくれないのだからしょうがないのだ。
「む、んんぅ……!」
首をせり上がってきた舌が顎の丘を越えた。目を閉じているのに感覚だけで唇を探り当てられる。容赦なく始まる口内の絡ませあいに応戦するなど当然出来ずに、ただ彼がこちらの感触をむさぼるのをされるがままに受け入れた。
鼻から呼吸を逃がす。あかりにはそれで精一杯だった。唇を密着させたまま、彼は準備を推し進める。
まず最後の衣服を取り去ってしまった。春乃と誤認しているだけで完全な無意識というわけではないのだろうが、ここまで出来てしまうものかとあかりは驚いた。簡単にブラジャーも外されていよいよ、かと思いきや紘人は下腹部を守る下着を外さぬまま肉茎を擦りつけて慣らすように動かした。
あかりは覚悟を決める。大丈夫だ大好きな相手だこんなに幸せな夜があるものか。
心配ない。もう自分の身体は受け入れる支度を終えている。
「春乃……やっとまた、ぁあ」
あーあ。どうしてこんな人、好きになったんだろうな。
紘人によって最後の砦が捲られる。
仕方ないじゃない。星の海に無くし物を探す背中を、放っておけなかったんだから。
自分の体内に異物が挿入されていく恐怖を、あかりは歯をくいしばり振り払う。
だからいい。もういい。この夏の忘れられない思い出を抱いて、呪われたまま私は生きていくのだ。
じわじわとあかりは開かれていく。涙をこぼし、苦しみに呻き、それでも紘人を信じている。
初恋だった。
報われない横恋慕だった。
痛みが伴って当然だ。
やがて、紘人があかりの最奥に辿り着く。
今だけは、痛みや悲しみを超えて、一つになった悦びを噛みしめていよう。
彼が目を覚ますまでの、短い夢だ。
「あっ、あ……」
明け方に見る夢は、どれだけ浸っていたいと願ったとて長くは続かない。
意識を取り戻した紘人があかりの姿に狼狽している。
「お、れ……」
なんてみっともない顔だ。これほど猛り狂った剣を人様に突き刺しておいて。
「酷い、ことを……」
自己嫌悪なら後にして欲しいと思った。今まさに、痛みも行為もピークなのだから。
「ひろくん、泣かなくていいよ」
泣きたいのはこっちだと、あかりは苦悶に喘ぎながら内心毒づく。
「私、嬉しいから。はじめてが好きな人で、うれしい」
微かに、微かに自分の中に埋め込まれた楔が形を変えた。
もとより隙間なく押し込まれているから、ちょっとの肥大も許容できない。
「…………ごめん」
それは、誰に対しての謝罪だったのか。
紘人はむき出しのあかりの両肩を掴み、ゆっくりと腰を押し引きする。これにはあかりも驚き、冷静になった思考がまた沸騰してしまう。
「ごめん、もう……!」
「んっ、ぅ、あ、……あっ」
信じがたいことが起こっている。
抱いているのをあかりだと認識した上で、紘人は行為に熱中している。
もはや止まれぬと彼の獣欲があかりを求めた。
「ひろ、くん……んんっ、ぁ、ぁあ」
彼女の反応も次第に熱を帯びていく。痛みの中に擦れ合う喜びが混じり始める。紘人の形になっていく自分に陶酔しながらあかりは、快感に震える彼を下から眺めていた。
キスとかほしがったら、だめかな。
さっきまでの情熱的な口づけの余韻が拭えない。また欲しくなる。ずっとそうしていたいほど。
こんなに近くにあるのに。ちょっとの間違いで繋がってしまいそうなのに。
間近で見つめ合う。彼の瞳の中に自分がいる。
春乃じゃなくて今だけは、自分を愛して欲しいと願うのはわがままなのだろうか?
「はっ、はっ、は……ぁ」
躊躇っているうちに、紘人の頭は南下してゆく。胸の中央部分に埋めて甘えるような格好になった。
「ごめんね。あんまり、ないから……」
男性が大きい方が好きなのはなんとなくわかっていた。あかりは自分の容姿が優れていることを自覚しているが、唯一自信を持てないのが胸だった。
こんなときに彼氏だったら綺麗だとか可愛いだとか言って慰めてくれるのだろうが。もちろんそんな気遣いはなく、紘人は乳首に舌を這わせたまま小刻みに腰を揺する。
「やっ、あっ、舐めたら……んんぅ!」
ぴりぴりと電流のような刺激が脳まで届く。愛撫されている。こちらを感じさせようとしてくれている。言葉はなくとも、それで十分だった。
色んな部分を舐められた。あちこちに吸いつかれ痕になった。彼も夢中になっていたと思う。快楽というより熱をほしがっているようにあかりには映った。
時折一番奥までやってきて、そのまま動かすことなくぎゅっと抱きしめてくれた。
彼の孤独や寂しさが紛れるならば、いくらでもしてていい。あかりも紘人を抱きしめ返す。互いの心音が共鳴する。この高鳴りは一体どちらのものなのか判然としない。
「……すき」
返答はない。ただ彼の罪悪感を和らげるための告白。
嫌じゃない。無理矢理じゃない。
私が欲しているから、思い出作りに抱いてくれた。
そういう筋書きを用意してあげる。
「だから、遠慮しないで。きて?」
抽送の速度が増していく。終わりに向けて激しく、強く。
もう春乃に頼るしかないと、諦めかけていた。
しかしあかりはこの土壇場で、彼の絶望を上書きする手段を見つけたのだ。
「ひろくんっ、すき……ひろくぅん!!」
「はぁ……はぁ,あああっ!!」
このまま彼の子種を貰い、新しい命を授かる。
紘人の子供を身籠もる事こそ、一番正しい解決法だとわかってしまった。払拭できないトラウマを成功体験で塗りつぶす。守るべき命があれば、紘人はきっとあの世に逃げられなくなる。彼の責任感につけ込むのだ。
今が千載一遇のチャンスだ。この避妊具なしの交わりで、彼のすべてを受け入れる。
心の準備ならとうに出来ていた。何もかもを捨て、彼のために生きると流星群に誓ったのだから。
はじめはおそらく上手くいかない。あかりの未来を奪った自責で押しつぶされてしまうだろう。でも子供が産まれたら。一度は手からこぼれ落ちてしまった小さな命が、再び自分のもとへ舞い戻ってきたなら。きっと愛情を注いで育ててくれる。ぎこちなさも次第になくなり、当たり前の家族になっていく。
そして、その頃にはきっと。
彼も自分のことを、愛する妻として隣に置いてくれるはずだ。
「――ぁああああっ」
腰を打ち付けるたびに水音が鳴る。限界が近いのだろうか、紘人はためらいなくそこへ向かって動きを加速させた。
「ひろくん、このまま……きてっ」
あつい。あつい。繋がっている部分が火傷しそうなほど。
生者の熱で死に体の男に命を灯す。
一瞬だけクローゼットに視線をやり、すぐに戻した。
ぎゅっと紘人の背を捕まえる。もう離しやしない。
「このまま、なかで……っ!」
ぴたりと室内の時間が急に止まった。鼓動だけが早鐘を打ってやかましい。何が起こったのかを飲み込めず、あかりはじっと紘人を見つめる。
絶頂間際だったはずなのに、どうして。
「………………」
ああ、さっきまでは自分を映してくれていたのに。闇が瞳を塗りつぶしていく。
「け、い……か」
果たして彼が呼んだのは最愛の妻ではなく娘の名だった。共有していた熱が嘘だったかのように急速に彼は凍えていく。
あかりを満たしてくれていた紘人の愛情が、萎びて枯れて形をなくした。
「…………ひろ、くん」
寒さに耐えきれず震えていた。涙をこぼして痛みに耐えていた。
この行為が何をもたらすのか、気づいてしまったようだった。
「ごめんね、ひろくん」
そしてあかりも、自らの浅はかさを恥じた。
もう一度失うかもしれない死産の恐怖に、紘人が耐えられるはずはないのに。
「うっ、う,ぁぁぁぁあ……」
あかりの胸に縋りつき、紘人はまるで子供のように泣いた。止めどなく溢れる涙があかりの身体に零れる。それは不思議と温かく感じて、紘人にまだ熱が残っていることに安堵する。
「ごめん、あかり……ごめんっ,俺……!」
「いいよ。我慢しないで、甘えてくれて、いいから」
彼の頭を撫でてやると、堪えきれなくなったのか力の限り抱きすくめられる。
亡き妻の部屋に残された男の嗚咽が響く。
今は泣かせてあげよう、好きなだけ、悲しみに浸るといい。
それはそれとして。
初めて名前を呼んだのがこんな場面だなんて。いくらなんでも、ずるい。
紘人が落ち着くのを待ってから、あかりは身支度を整えた。
もうすぐ夜が明ける。また一日が始まる。一睡もしていないけれど、お客様はやってくるし世界は止まらず動いていく。
また今日も生きていてくれたことに、感謝する。
「朝食の支度をしてくる。ちゃんと食べに来るのよ? エネルギー、足りてないんだからね」
返事はない。彼はベッドの上でダンゴムシのように丸まったままだ。
「目玉焼き、作っておくわ」
春乃の部屋を後にし、あかりはぎこちない歩き方でキッチンへと向かう。
痛みだけが、さきほどまでの情事が夢でなかったことを証明してくれた。




