まやかしの熱
「雨が降ったあとだと、夏草に滴がついててひんやりしてる」
紘人はわざわざあかりを避けたりすることもなく、日課の星見を続けていた。それについて行っても文句は言われない。ならば一人にしてやるものかとあかりは意地でも時間を捻出する。
「雲がよけてくれてよかったわね」
「…………滑ったりするなよ。ケツまでびしょ濡れになるから」
双眼鏡を持ちながら小刻みに場所を変えている。いつもはここだと決めたら頑と動かないのに、コンディションが悪いとこうなるのかも。
雨上がりだけあって観光客もいない。二人で独占出来るのは初めてではないか。
「ひろくん、転んだことあるんだ」
「雨雲レーダー便利だよな」
さっきからいまいち反応が鈍い。まあ、星見中はよくあることだ。あかりも両手で双眼鏡を構え、頭上を睨めつける。
デネブからアルビレオまでをなぞり上げるように観察する。北十字と呼ばれるはくちょう座、そこから流れ出す天の川のきらめき。あの乳白色の中に春乃がいると紘人は言った。そこに死者を見るからには特別な想いがあるのだろうとあかりも目を凝らしてみる。
と、必死になっていたため、あかりは気づくのが遅れた。
数分の後に首が疲れて地上に意識を戻したとき、居るべき場所に彼はいなかった。
紘人は、濡れるからと言っていたくせに地面に横たわっている。
寝転がりながら空を見ることはよくある、けど、雨上がりの土の上でシートも引かずにそんな真似するはずがない。
非常事態で相違ない。
「……ひろくん!」
慌てて駆け寄り呼吸を確認する。息はあるし過度に乱れていたりもしない。しかし安心はできない、立ったまま行動中に意識を失ったのだ。身体もこのままにしておいては濡れ鼠になる。急いで連れ帰らなければ。
「ぐ、ぬぅううう」
紘人の脇に肩をねじ込み、起こすか背負うかにチャレンジするもびくともしない。圧倒的にパワーが足りない。乱暴に扱っても紘人は目を覚ましてくれない。
「こんな時に限って誰もいないなんて……」
普段は邪魔だなって思うくらい観光客がいるのに。ちょっと二人っきりに浸っていたら罰があたった。
「……仕方ない」
あかりはスマホを取り出しささらをコールする。繋がる前に向こうから切断される。あかりが星見の丘にいることはわかっているから、即座に助けに
「お嬢様、ご無事で?」
近隣で待機していたのかと疑うほど素早くメイドは姿を現す。なるべく二人きりの時間が欲しくてついて来ないようと言いつけているのに、非常時に助けを求める自分が情けない。
「ごめんなさい。一緒にひろくんを持ち上げてほしいの」
ささらは露骨に嫌そうな顔をした。
「ええー、マジかぁ。そいつ濡れてんじゃん、やりたくねー」
「お願いします。助けてください」
「ならあかりちゃん下側持ってよ。わたしは濡れてないほう持つからさあ」
何でもいい。ささらが左腕を引っ張りあげ、浮いた右脇にあかりが身体を差し込む。どうにか、二人がかりで紘人を立ち上がらせることに成功した。
「ねえ、大丈夫かしら。重病だったりしないかな?」
支えている紘人の身体は、まるで血の通わない重石だ。体温がどこにも感じられず冷え切っている。
「見た感じは過労。脈は弱いけど規則的だし、瞳孔にも異常なし。寝不足とエネルギー不足で意識が飛んだんじゃない? 心配なら明日の朝にでもクリニックに行けばいいよ」
「それって眠ってるだけってこと?」
「多分ね。点滴を打てば元気になるはず。死にたがりに効くかはしらんけど」
乗ってきた車の下へなんとか運び出す。ささらは18歳になってすぐに免許を取得していたから運転を任せられる。
「綺麗に終わらせたいなら、倒れてる場合じゃないでしょ。馬鹿ね……」
車内で眠った彼に語りかけても、返事はなかった。
◇◇◇
闇の底は凍えてしまいそうなほど冷たい。身体の末端から凍てついていく。この冷気が心臓に届いたとき、自分は死ぬのだ。
それでも抜け出そうと思えないのは、お似合いの場所だと理解しているから。
この暗く陰鬱なひとりぼっちの闇が、自分のいるべき場所なのだ。
紘人の意識は深く落ちていく。這い上がるための気力を彼は持ち合わせていない。
下っていく最中でいくつも夢を見た。
当時の映像とリンクした感情が泡のように弾けていく。
ずっと寂しかった。親の関心は弟が生まれてからすべてそちらに向かった。放課後に遊ぶ友達が羨ましかった。自分が早く家に帰ればその分母が休める。選択肢はなかった。
薄い身体をさすり続け、落ち着くまでそばにいた。弟はいつも苦しそうだったが、自分には屈託のない笑みを見せようと踏ん張っていた。
彼は悪くない。母も悪くない。
罪は自分にある。
たった一度、どうしても観たい映画のために二時間ばかり家を空けた。発作はこちらの都合など考慮してくれない。欲に従った利己的な行動は、確実に弟の寿命を削った。
俺の大切な人は、みんないなくなってしまうんだ。
気まぐれに奪われるってわかっていたのに、幸せに溺れた。
動いていた方が調子がいいからという春乃の言葉を疑わなかった。
あの日、キッチンでうずくまる彼女をもう少し早く見つけられていれば、蛍夏は助かったかもしれない。
雪が深深と降り積む静かな夜。
田舎住まいを呪った。病院は三倉から遠すぎた。
蛍夏がいなくても、自分には春乃さえいてくれればよかった。母体が無事で何より、とすべきだった。
はき違えなければ。
彼女のケアに全力を注いでいれば。
今だって、春乃は俺の隣で空を見上げていたはずなんだ。
隣で。
『 』
闇の中に振動が波及する。音の連なりは理解できなかったが、それは声のようだった。
紘人の目の前に、ぼんやりとした光芒が差し込む。
「なん、だ……?」
『 』
光は次第に形を変えていく。もう二度と触れられないと思っていた相手の姿を形作る。
「あ、あぁ……」
『やぁ、こんばんは』
在りし日の春乃が。
暗闇を照らして会いに来てくれた。
『久しぶりだね、紘人くん』
「はる……の」
表情や仕草を何度思い返したろう。どれほど夢にうなされてきただろう。その後の人生を一人で往くには、重ねた時間が足りなすぎた。
もう一度、もう一度だけと願い続けた。
『ごめんね。あなたにばかり辛い思いをさせて』
「……いいんだっ」
『うぁっ』
堪えきれずに抱きしめた。心と身体に熱が灯る。
かつてのままだ。
声も、抱き心地も、反応も。記憶の中の春乃そのものだ。
「こうしてまた会えたのだから、もういい」
彼女が戻ってきてくれたのか、自分があの銀河に辿り着いたのかはわからない。どっちだってよかった。この日を目指して歩いてきたのだから。
『うん。嬉しいよ、わたしも』
温かい。春乃の温もりが心をほどいていく。夢ならば覚めなくていい。これは意地悪な神様が自分にくれた最後の赦しなのかもしれない。
「ずっと一緒にいたい」
『 』
「愛している」
『 』
満たされた空間に別の波紋が揺らいだ。邪魔をしないでほしい。ようやく、再び春乃を抱きしめることができたのに。
『ひろくん!』
ノイズが走り急速に紘人の意識を覚醒させていく。上方へ引っ張り上げられるような浮遊感。
下へ下へと腕を伸ばすも、距離は離れていくばかり。
「春乃っ! ま、まって。まだ……!!」
闇の底で春乃が微笑みながら手を振っている。
紘人の視界が再び現実を捉えたとき、信じられない光景が広がっていた。
こっちの方こそ夢だと言って欲しいくらいだ。
「あっ、あ……」
自分が一体何をしたのか。春乃だと思って抱いていたのは誰なのか。紘人は理解し、自分を見失う。
「お、れ……」
あかりが。
衣服を全部剥ぎ取られ、生まれたままの姿の彼女が、紘人に組み敷かれる格好で彼を受け入れていた。
そして自らも一糸まとわぬ姿で覆い被さっている。
さっき灯った熱は、春乃だと思って抱いた温もりは、まやかしだった。
「酷い、ことを……」
もう行為は取り返しのつかない地点まで進行していた。
春乃が死んで以来『役立たず』となっていた紘人の性器は、あかりの秘所へ割って入り、中の狭さに呻きをあげている。
一線を越え、二人は繋がってしまっていた。
決して汚すまいと。翼を折るまいと少女のことを見守ってきた。それは紘人なりの優しさで、あかりの未来を守るためのこと。
なのになぜ、咲く前の蕾を摘んでしまったのか。
「ひろくん、泣かなくていいよ」
小刻みな荒い息を吐くあかりは、紘人の頬を撫でる。
「私、嬉しいから。はじめてが好きな人で、うれしい」
痛みを感じているだろうに心配させまいと笑みを浮かべる少女のいじらしさに、紘人は委ねてしまいたくなった。
掴み取ったはずなのに、またなくした。何度目かわからない喪失の寂しさを、この子なら埋めてくれる気がした。
収まらない。戻れない。下腹部に集まる血流が理性も矜持も捨てさせる。
紘人はもう自分がわからなくなる。
あかりの華奢な肩を抱いて、一つ。
「…………ごめん」
誰も赦しちゃくれないのに、自分が楽になりたいがために、謝罪を口にする。




