家族が揃うとき
「ご苦労様でした」
配達員から荷物を受け取ったあかりは差出人を確認する。
「通販だ。珍しいな」
物欲のない男だ。先日の帳簿をのぞき見した際に彼にいくら給金が流れているかも把握してしまったわけだが、散財している様子はない。唯一の趣味、と言っていいのかわからない星空観察も、道具は宿泊者に貸し出す分も含めて相当の数があるから今更増えることもなかろうし。
だから買い物一つで珍しく思うのも無理はない。
荷物を持ってあかりは紘人を探しに行く。自由時間を与えたってどうせ館内にいるに決まっていた。最近は、彼の元々やっていた仕事をほとんどあかりとささらで巻き取っているのだけど、日に日に紘人は衰弱していくように見えた。
もうすぐ八月も下旬にさしかかる。彼の定めた自分を閉じる日はいつだろうか? 毎日を明るく照らそうと必死に努力を続けてきたあかりだが、成果も見えずに焦り始めていた。
紘人にだけタイムリミットがあるわけじゃない。自分にだって、向き合わねばならない時が必ず、
「……あれ?」
真っ先にアタリをつけた春乃の部屋までやってくると、違和感が連続してあかりに襲い来る。
まず紘人がいないことを確認する。それはいい。すぐにいないとわかったのは、扉が開け放たれたままだったからだ。今までの彼なら絶対にあり得ない行動だ。
次に、あるべきはずの物がそこにはなかった。
「な、なに。なんでないの……」
四方にかけられていたいくつもの額縁が、すべて取り払われている。
壁を彩って幾星霜。額があったはずのスペースは見事に日焼けを免れ、周囲との質感の違いが浮き彫りになっている。四角い縁取りがいくつもあるからまるで碁盤の目のようだ。
驚いて部屋の内部まで立ち入ると、隅の方に大きなゴミ袋がいくつも積んである。中身は額縁の死骸たち。捨てるつもりなのか。唯一安心できたのは、中身の写真は取り外してあったことくらい。
「なんなのこれ。遺品整理のつもり……?」
残っているのは机の上の地図の写真。二人の指輪と空の額縁。最愛の人が開いた個展のような部屋を解体している。あかりの背筋に悪寒が走る。
がらんどうになりつつある部屋を見回していた。
最後の違和感は、遅れてやってくる。
クローゼットの片側の扉が開いていた。
絶対に開けるなと強い口調で言うから、あかりは言いつけを守っていた。きっと春乃の着ていた服や大切にしていた小物が収められているはずだから。
部屋中が写真を飾るために特化していた。ならばあそこには、カメラを持っていないときの、春乃の人間くさい部分がしまいこんであるのだと。
恐る恐る、そこへ近づく。
見間違いであってほしかった。
「あ、え……」
あかりの願いは裏切られた。あの特徴的なフォルムを見間違うはずもない。近づくほど、それが死者を祀る装置であることに疑いなくなる。
クローゼットの中に、仏壇が隠されていた。そして開け放たれた部分から春乃とおぼしき女性がこちらを見て下手くそな微笑を向けてくる。
初めて対面した彼女の遺影は、これまで想像するしかなかった輪郭に色をもたらした。紘人が愛した人。写真を撮るのは好きでも撮られるのは慣れていなかったんだろう、笑ってと指示されたのに照れて失敗した、みたいな顔だった。
「隠していなくてもよかったのに」
なんなら、もっと早く挨拶させて欲しかった。告白した日にでもよかった。自分と彼女を結ぶ糸は確かに存在しているのだから。自己紹介くらい――――
そう思ったのが、あかりの運の尽きだった。
残された半分の扉を開いたときに、彼女の情緒はぐちゃぐちゃに引き裂かれた。
「なに、これ……」
モノクロの写真が春乃の横に並んでいる。それは巾着の中の空洞を捉えたもののようだ。黒い海の中に浮かぶ白い影。それは日を追うごとに、形を為そうとしている新しい命の蠢き。
「エコー、写真?」
病院でもらった物をわざわざ撮影し、写真として印刷したのか。これまたきちんと額に納めてあって妊娠の記念に保存していたものだろう。だがここが死者の部屋であり、当人と同じ仏壇に祀られていたとなれば……。
考えたくなくても、最悪の結末が自ずと浮かんできてしまう。
ぎゅっと心臓が引き絞られる。
「なっ、え、ひろ……くん」
動悸が乱れて激しく脈打つ。答えを想像するほどにそれは強く、不規則になって。暴れる拍動を抱えながら、あかりはこれまでの彼の所作を振り返る。
絶望は端々に潜んでいた。
るいを相手にしたときの距離感。蛍の森で呟いた名前のようなもの。娘の死に際さえ語ったゆきが言い淀んだ、二人を追い詰めた理由。
全部繋がってしまう。春乃を喪ったことだけでも十分過ぎるほどなのに、もっと深い傷痕を抱えていたなんて。
この小さな命は、息をしたまま生まれてこられなかった。
あかりはその場に頽れる。彼を支配する闇の濃さに言葉がでてこない。
「届いたんだな。荷物、受け取ってくれてありがとな」
いつもの紘人の、だるそうな声音だった。だけど今は、随分脳天気に感じる。
ゴミ袋を捨て場所へ運んでいたのだろうか。禁を破ったあかりを認識しているはずなのに、怒った様子もなく次のゴミを入り口へ運んでく。
「ひろくん、あなた一体……」
「だから言ったろ。きっと後悔するって」
星の降る夜に彼はそう言った。あかりは取り合わなかった。諦めずに頑張れば想いは届くのだとまだ信じていたから。
しかし今の彼女には、どうしていいかなどわからない。あまりに深く根ざした絶望に触れることすら恐ろしい。
「蛍夏だよ。俺と春乃の、娘だ」
紘人は一旦作業を止め、あかりの方へ歩み寄ってくる。
「残念ながら、まっとうな形で生を与えてあげられなかった。けど、俺たちの娘なんだ」
やはりそうだ。けいか、彼が蛍の森で口にした言葉だ。
「この子さえ無事でいてくれてたら、すべてが上手くいってたと思うよ。でも、そうはならなかった」
愛する人と結ばれ、愛の結晶を授かり、理不尽に奪われた。どれほどの苦しみの中で彼は毎日を生きているのか、あかりには見当もつかない。
「奪われるために与えられたんだ。さよならするために繋がった。これほど苦しいことはないよ」
同調してしまいそうになる。否定を、しなければ。このままにしておいたら、大好きな人が――――
「なあ、もう良いだろ? 俺は俺を保存する。現世は汚れすぎているから、愛情を真空パックしたまま、空の向こうへ持っていく」
「…………っ」
喉から意味のある言葉がでてこない。
あかりは自分の左胸に触れる。まだ生きている。諦めたくない。終わりにしたくない。
「ほら、それ。いいかな」
紘人は放り出された荷物の封を解いてみせる。
新たな額縁が現れる。
さっき全部捨てたはずでは。
「これで、家族が揃った。……やっと会えるね」
紘人は、そのまま額縁に自分の写真を収める。
そして、仏壇の空いているスペースへと、それを飾った。
「やめて!!」
喉の奥から言葉が迸る。紘人の生気が目の前でどんどん希薄になっていく気がした。止めなければ、このまま昇っていってしまいそうなくらい。
「ねえ、こっちを向いて! 駄目よ、そんなの飾ったらっ」
三つ並んだ写真を彼は満足げに眺めている。
「もうすぐ会えるんだ。ようやくなんだ。悪いがどうしようもできない」
彼が保存しようとする自分は、顔立ちが若々しいだけでなく、心からの笑みを浮かべていた。まだ幸せだった頃の写真。あかりの知らない姿。春乃が撮影したに違いない。
「ひろ、くん……」
どれだけ想いを叫んでも、行かないでって縋っても。あかりの努力全部、紘人にとってノイズでしかなかったのだ。
なら、自分には何が出来るのか。
駄々をこねたって通用しない。恋心で動かせるほど安い決意じゃない。考えろ、必死で、彼を救うすべを。
空の額縁が視界に映る。
「中の、写真たちは?」
「ん……? ああ、流石に春乃の作品を処分したりはしないよ。プリントアウトしてあったのは、アルバムに纏めてゆきさんに渡すのさ」
彼女が生きた証をアルバムにする。ゆきは受け取り、懐かしむだろう。最愛の娘のことを。
「写真は、時間を切り取る……」
春乃は多くの写真をこの世に遺した。部屋に飾っていたのが全部なわけはない。
春乃の写真なら、彼の心を救ってあげられるのでは。きっと沢山あるはずだ、二人の思い出を映した物だって。
紘人は春乃を殺した罪の意識に囚われている。解放してあげるには、春乃に赦してもらうしかない。
写真なら、彼女のメッセージを届けることができるかも。
「ねえ、春乃さんは、写真を撮影しながら亡くなったのよね?」
「言ったっけ? それともゆきさんに聞いたのか」
「ゆきさんに聞いた。蛍夏ちゃんのことは、知らなかったけど……」
「そか、まあいい。春乃は星見の丘で写真撮影中、足を踏み外しなくなったとされている。ただ、事故ではないよ。彼女を追い詰めた俺が悪いんだよ」
今と違って安全柵もなかったんだ、と彼は続けた。現在丘には滑落防止の柵が張られている。あるいは彼女が切っ掛けで、そうなったのかも。
「蛍夏を喪った俺たちは、とうに限界だった。それでも毎日朝は来る。予約の客を断るわけにもいかなかった。あのとき春乃を休ませてあげていたら、無理矢理にでも仕事を止めていたら……事故など起きなかったはずだ」
「ひろくん、あなた、悪くないよ。あなただって辛いのは半分こだもの。いっぱいいっぱいなのは春乃さんだけじゃなかった」
「俺は、仕事に逃げたんだよ。熱中し、寝る間も惜しんで働くことで、蛍夏を喪った悪夢から目を背けたんだ。一番大切な人が隣で消耗していくのにも気づけないくらいに」
紘人は春乃の遺影を撫でた。
「だから俺が殺したも同然なのさ。本当は、彼女さえ隣にいてくれれば、他に何もいらなかったのにね」
馬鹿な自分を諫めるように彼は言う。
「喪ってから気づくんだから、救いようのない奴だよ」
紘人は機材が置いてある棚に向かい、壊れたカメラを手に取った。
崩壊した日常を象徴するような、痛ましい遺品。
「…………それも春乃さんの、でしょう。捨てちゃうつもり?」
「そうだよ。状態がよければゆきさんに渡そうとしたけれど、もう壊れているからな。これじゃあ見ているだけでつらいだろ」
きっと滑落の際に持っていたカメラだ。あかりの直感が閃く。このまま捨てさせてはいけない。
「ね、いらないんならさ。私がもらってもいい?」
「多分直らないぞ。一応カメラ屋に持ってったけどな、もう撮影は無理だろうって」
確かに損傷は激しい。しかし、内部のメモリやSDカードはどうだろう。
あれが最期に手にしていたカメラなら。
死の間際に撮ろうとしていた写真が残っているかもしれない。
「いいの。他のも、纏めるだけでまだ捨てちゃだめよ。いるかいらないか判断するのはゆきさんなんだから」
星見の丘で春乃は何を撮ろうとしていたのだろう?
それが紘人の未来を照らす、希望の光であって欲しいと願う。
本音を漏らして良いなら、あかりは、自分こそが彼の光になってあげたかった。しかし、彼が一度構築した家族の円環に割って入るなんて不可能だった。
……ごめん春乃さん、力を貸して。
「遺品整理もほどほどに。あなた、すぐにでも倒れそうな顔してるわよ」
「……ほっとけ」
信じて縋ることしかあかりにはできない。
いいんだ、彼の中に居場所を作れなくたって。
生きていてくれれば、それで。




