置いてけぼりの
無機質な数字の列が時折歪んで見える。納品書に印字されているから整然としているはずなのに、今の紘人には一部の数字だけ大きく見えたりぐにゃりと折れ曲がって見えたりする。たかが数字のくせに人様を混乱させてきやがって。頭痛も相まっていらつきが加速するばかりだ。
帳簿への転写も手こずっていた。二重線の訂正ばかりが目立つようになってしまい、間違えていないところさえ読みづらく、一度破り捨ててしまいたくなる。
「……ああ、わかんね」
ガシガシ頭を掻きながら書類と睨めっこする。客の寝静まった本館のリビングに呻きが響く。自室を追い出されてから紘人の事務作業はもっぱらここで行われている。春乃の部屋だとやはり集中できない。
水でも飲もうかと顔を上げたまさにそのとき、扉が開いたことに驚き肩が震えた。
「わっ、まだやっていたの?」
寝間着姿ではない。きちんと身なりを整えたあかりがリビングに顔を出した。
「……なんだ、冷蔵庫のプリンをつまみ食いしに来たのか?」
「あれは、ちゃんと私が自分で買ったものだから。じゃなくて、早く寝なさいよ。時間わかってる?」
紘人はスマホで時刻を確認すると、四時半。すでに就寝予定時刻を大幅に通り過ぎていた。
「ね? もう朝の準備の時間。一旦切り上げてさっさと休みなさいよ」
「それにしたって、起きるのが早すぎやしないか。君こそもう少し寝ていては」
「先に準備をしておけば、私がまだ出来ないことをゆきさんに教えてもらえるでしょう。だからこの時間で、いいの」
見上げた心意気だ。しかし、無駄な努力でもある。
「私、目玉焼きが作れるようになったのよ。今度ご馳走してあげるから、おやすみ」
「まだ終わってねえのよ。終わったら寝るから、気にするな」
「何にそれほど苦戦しているのかしら」
あかりは紘人の隣に座り、手元を覗き込んでくる。
「……ねえ、ひろくん。今は昭和じゃなくて令和だよ? なんでこの宿の出納帳は未だに手書きなのかしら?」
何故か? 慣れているからに決まっている。そして、ゆきから教わったやり方でもあるからだ。
「何かおかしいか? 俺は平成生まれだが」
「私だって生まれならそうだけど、おかしいとしか思えないわよ。ちょっと私の部屋に来て」
お前の部屋ではなく俺の部屋だ。という突っ込みは黙殺された。領収書を人質にとられ、紘人はあかりに付き従うはめになる。
「いちいち電卓を叩かなくたって、入力すれば勝手に勘定してくれるわよ」
あかりはpcの表計算ソフトを起動するなり、物凄い速度で領収書を捲りつつセルに数字を打ち込んでいった。テンキーをたぐる指はそれぞれが五体の生き物ように動き回る。これほどの速度で迷いなく打ち込んでいくから間違えたりしそうなものだが本人は自信満々に作業をこなす。
「んで、項目を分けるわね。食材の売上原価に、水道光熱費、あとは人件費と、ええと、租税公課に減価償却費、このあたりの固定費もまとめて……はい。これが6月の蛍火の試算表ベースの数字」
紘人が散々手こずった作業が、あっという間にデータ化されてしまった。わざわざ税理士に依頼している作業を彼女は簡単にこなしてしまう。
「…………お嬢様のくせに、事務作業は得意なのか」
「あのね、私は将来会社を継ぐ立場だったのよ? 数字に弱いわけがないでしょう」
それはそうだが、トップは上がってきた数字を元に分析して指示を出すのが仕事ではなかろうか。
ともあれ、紘人にはあかりが魔法を使ったとしか思えない。
「こうしておけば、後で見返すときも楽だし。面倒だったら過去の帳簿をくれれば私が打ち込んでおくわよ?」
「…………」
彼女が優秀なのはわかった。申し出てくれているのだから頼ってしまえばいい。けれど、たかが居候に経営のことを任せるなど、
気づく。
あかりはここを継ぐと言っていた。ならば帳簿に口を出すのも彼女の本気の表れなのではないか。紘人が続けていけないと匙を投げたあとも、この場所を守っていくために。
「いや、パソコンよくわかんないからな。今まで通りやるよ」
だがそんな未来は訪れない。仮になったとしても、それは紘人はいなくなった後の彼女の自由意志に因るもので。ここで紘人が自分の仕事を投げ出していい理由にはならない。
「私がやるよ。やらせて? ひろくん、あなたとっても疲れた顔してる」
「馬鹿言うな。男はちょっとくたびれている方が魅力的なんだよ」
紘人は鏡で自らの面貌を確認する。
「ちょっとどころじゃない。くたびれきってぐちゃぐちゃ」
この女、自分が少しばかり恵まれた容姿に生まれたからってめちゃくちゃ言いやがる。
あかりは立ち上がり、そっと紘人の両頬を支えるように手のひらで包んだ。
「今日はゆっくり休んだらどう? 夏の疲れがたまっているのよ」
自然と間近で見つめ合う格好に。
あかりは勝手に照れて、二歩、後じさった。あの日自分が犯した暴挙を思い出したのかもしれない。
「データを纏めてくれたのは感謝する、けど、ここまで来たら最後まで自分でやりきるよ。少し休んだら、平気だからさ」
最後まで。夏の帳簿を完成させて、読める形でゆきに届けることで、紘人の使命は全うされる。
「長年続けてきて染みついたもんってのは、中々変わらないもんだよ」
「ひろくんのそういうところ、好きだけど嫌い」
「出たポエム」
「…………茶化してばっかり」
あかりはぷんすか肩を怒らせて、部屋を出て行った。
好きだけど嫌い、不思議な感情だと思う。好きだから相手の欠点が目につくのだろうか。嫌いだから相手の良い部分が輝いて見えるのだろうか。
かつての妻は、一体自分のどこに惹かれてくれたのだろうか? 今となってはわからない。
紘人はずっと自分を嫌悪している。
春乃がそばにいた七年間だけは目を背けていられた。光が失せれば闇がまた肩を組みに来る。
もう一度飲み込まれてしまってからは、抜け出そうという気力も沸いてこない。




