埃被った思い出
『はるちゃんはね、とっても変な子だったのよ』
ああ、またこの夢だ。ここのところ何度も繰り返し、脳裏に浮かんでくる。
『友達と遊んだりするよりも、一人でぼーっと空を眺めたり、絵を描いたりするのが好きな子だった』
星華祭の二日目の夜、ゆきに春乃のことを尋ねた。彼女は昔を懐かしむような語り口で、あかりに思い出を話してくれる。
『まだ、カメラで有名になる前かな。いつもみたいに写真を撮りに行ったと思いきや、人を拾って帰ってきたの』
『それが……ひろくん?』
『そう。星見の丘で野宿しようとしてたんですって。宿を取ってなかったみたいで、だから泊めてあげてってはるちゃんが言ったの』
あかりはハッとさせられる。まるで自分の境遇と一緒だった。
それと同時に、あのとき紘人が見せたらしくない優しさの理由がわかってしまった。
『紘人さんは大学生だったから、長期休暇のたびに蛍火を訪ねてくるようになったの。はるちゃんもどんどん打ち解けていった。それで、彼が卒業する年に、言ったの』
『春乃と真剣に交際している。どうか自分を蛍火で働かせて欲しいって』
当時、ここには幸せが満ちいたんだとあかりは思った。だから忘れられないのだ。何年経っても、眩さに焦がれている。
『二人は結婚して、蛍火を夫婦で回していくことになったの。それから……』
あかりはそこでようやく、ゆきの顔色が悪いことに気づいた。自分の好奇心ばかり押しつけていたことを悟る。
『ごめんゆきさん。つらかったら、話さなくていいからね』
『ううん、大丈夫。……えっとね、それから、本当に色んな不幸が重なって、はるちゃんは心を壊しちゃった。紘人さんも同じ辛さを背負っていたから、助けることができなかったんだと思う』
『……うん』
『きっとみんな限界だった。だから誰かが悪いなんてことは絶対ないの。でもね、紘人さんはそうは思えなかった。写真撮影中の事故で亡くなったはるちゃんを、自分の至らなさで殺したんだって』
事故。
不幸の連鎖だというゆきと、自らが命を奪ったという紘人。
『紘人さんはずっと、後悔していた。どうしてあのとき、休ませてあげなかったのか。支えてあげられなかったのか。今でも、そうだと思う』
赦してくれる人がいないから、彼は止めどなく膨らむ罪悪感に押しつぶされようとしている。
『はるちゃんもきっと、死にたい訳じゃなかった。誰よりも辛かったはずだけど、それでもあの子には、紘人さんがいたから……』
ゆきはくしゃくしゃの顔で、あかりに微笑みかける。
『きっと彼といられれば、幸せになれたと思う。紘人さんに、それが伝わればいいんだけどね』
『そうだね』
『まだ紘人さんは若いんだから、いつまでも囚われてないで自由にすればいいのに。義理の母と一緒に暮らしたりしなくてもさ』
『それがひろくんなんだよ。実直で、義理堅くて、融通がきかないところが……』
『そうね、参っちゃうね』
『あのね、ゆきさん。私……』
あかりは、ゆきに決意を伝える。
ゆきは少しだけ躊躇ったのちに、深く頷いて。
『あかりちゃん、ごめんね』
そこで夢は終わり、ままならない現実がまたやってくる。
夏だというのにまだ陽の昇らない時間から、ペンションの業務は始まる。閉じようとするまぶたを擦りながら、宿泊客をもてなすために起床する。
居場所が残れば。
彼が自分を閉じた後も、形を変えてここは続いていくんだってわかれば、考え直してくれるんじゃないかって淡い夢想を抱いている。
鬱陶しいくらい伸びたロングヘアを後頭部で束ねる。
「…………うん、がんばろう」
自分で選んだ道だから、思いっきりのめり込める。流されてばかりの人生はもう終わりにするのだ。
◇◇◇
勿体ない。これほど開放的な空間を眠らせておくだなんて。
蛍火には“開かずの間”がいくつか存在していた。春乃の元々の部屋だってそうだし(あかりが押しかけなければ紘人はあそこで寝たりしなかった。)他にもあかりには用途のわからない部屋があり、そこは大抵施錠されていたから立ち入るな、と理解していた。
だが裏庭の片付けをしているときにあかりは偶然そこを見つけてしまったのだ。
『ガラスの……ドーム?』
お客が宿泊する本棟の二階、正面入り口から隠れるようにして屋根の一部がガラス張りで丸形のテントみたいになっている部分がある。外側から類推するに、あのドームの下には人が寝転べる程度の空間があって、星を眺めるのに最適なスポットなのではないかと考えた。
館内に入り該当箇所が施錠されているのを確認すると、急ぎ彼女は、ゆきに尋ねる。
『ねえ、あのガラスドームってなんのための部屋なの?』
見つかっちゃったか、とゆきはいたずらっぽい笑みを浮かべて。
『あれはねえ、星空が屋内からもよく見えるように作った部屋なのよ』
なんて素敵な場所なんでしょう。お客様に解放したら人気が出るに違いないのに。
『私が掃除したらまた使えるようになるかしら?』
『うーん……』
ゆきは未だ眠りの底にいる男の機嫌を伺うように、離れを見つめた。
『だめ、ってことはないのかあ。たぶんね、入られたくない部屋だと思うけど』
そんなの知らない。もう遠慮してやらない。
『ゆきさん、鍵を貸してくれる? 悪いようにはしないから』
そうして勢いだけで、ここに立ち入ったのだ。
ガラスは長年拭かれることがなかったのか埃をためていて差し込む陽光が鈍って見える。脇に置かれた小型の望遠鏡も等しく汚れていて、中々骨が折れそうだ。
ささらを呼べば、魔法みたいにあっという間に綺麗にしてくれるのだろう。
でもそれでは意味がないのだ。自分で継ぐと決めたのだから。
あかりはマスクを装着する。綺麗にさえできれば使用に耐えそうだ。例えば隣に愛する人がいて、二人寝転がりながら夜空の星を探す時間。絶妙な狭さが距離を縮める。見つけたって同時に指を掲げて、つい触れあってしまう展開…………イイ。
「さあて、いくわよ」
濡れ布巾を片手に、力を込めて内側の汚れを拭っていく。すぐに布巾は真っ黒になるから、頻繁にバケツに溜めた水でゆすいで拭き直して。ガラス部分だけでなく、床にも埃はびっしりで何年も立ち入りさえしていないのがよくわかる。
「ふぅ……んんっ」
マスクをしていて息苦しいし、真夏の日光を浴びながらの作業なので汗が噴き出てくる。けれど苦しいだけじゃない、これが労働なのだという満足感も同時に抱えていた。
自分が今まで、いかに整備された道を歩いてきたのかをあかりは三倉に来てようやく実感しつつあった。
専属のお世話係が身の回りのことは全部やってくれた。
部屋はあかりが不在の時間に整えられていたし、食卓につけば料理が勝手に運ばれてくる。それが当然だと思っていた。
だが違う。蛍火でお客様をもてなす側になって気づいた。居心地のいい空間も美味しい料理も全部、誰かが一生懸命仕事をこなした結果なのだと。
「当たり前じゃない。恵まれてたんだ」
屋敷にいた頃、頭の中心にずっと居座っていたもやがようやく晴れたような気がした。
恵まれていたから、こうして自由に旅に出ることもできた。世の中には多分、毎日を生きることで精一杯の人が多くいるはずなのだ。
「……感謝、しなきゃな」
「でかい独り言だね」
「ひうっ」
予期していない背後からの声にあかりはひどく驚いた。
慌てて振り返ると険しい表情の紘人が部屋のあちこちを観察していた。気づけば掃除開始から一時間ほど経っており、ビフォーアフターを比べれば見違えるほど綺麗になっている。
「……怒ってる?」
ここで怯えるくらいなら踏み入らなければよかったのに。
「別に。こんな素敵な場所をどうして放っておいたの、とか言われたら不快だけれど。綺麗にしてくれたのなら文句はないよ」
危ない。清掃完了したら紘人を呼んでまさに似たようなことを言おうとしていた。
「あ、やっぱり思い出の場所だったりする? お客様が使えたら、とっても素敵だなって思ってたのだけど」
「うん。よく春乃とここで星を眺めた。従業員が二人揃って星見の丘に行くのも具合が悪いだろ」
「そ、なんだ」
まさしく、さっきあかりが妄想していたシチュエーションなどを繰り広げていたに違いない。
「懐かしいな。彼女はカメラを構えていないとポンコツだったから、よくここで寝落ちしていた」
「星を見ながら?」
「そう。俺は真面目に観測していたんだけどね。少し目を離すと、意識を手放している」
今となれば、困った奴だよと吐き捨てているものの、眠りについた春乃を微笑みながら眺める紘人の姿が想像できてしまう。
幸せな思い出をなぞっている時だけ、彼の表情は柔らかくなる。
ずるいな、これほど愛してもらえて。
もっと生きたかったはずなのに不慮の事故にあったのだから、ずるいなどと言うべきではないのかもしれないけれど。この先あかりがどれほど紘人に尽くそうと、彼の中に刻まれた彼女の記憶一つに勝てない。
彼の中で春乃は、老いることも失望されることもない。永遠に一番の特等席を独占し続ける。
「過ごした時間が長かった場所だから、春乃が死んだ後ここに来ることもなかった。綺麗にしてくれて悪いが、お客に解放するのも乗り気にはなれない」
「……私、は? ここを掃除したり、星を眺めたりしていていい?」
「………………………………まあ、好きにすれば」
「嫌そうね」
「好きにしろって言った。そもそも、止めたって聞かないでしょ君は」
諦めましたよ俺は、とでも言いたげな口調で。
「本当に嫌ならやめておくわよ、そのくらいの分別はあるから」
「良いってもう。悔いが残らないようにすればいい」
「なら今夜、ここで一緒に星を」
「それはお断りだ」
捨て台詞を置いて部屋を後にした紘人の背中にべっと舌を出してから、あかりは掃除を再開した。
完璧な状態にしておけば、彼が深夜覗きに来るかもしれない。
そこを急襲してやる。狭いから逃がさない。覚悟しておけと意思を込めて、布巾の水をぎゅっと絞った。




