他の何よりも
異質な部屋だった。足を踏み入れたときあかりは、不気味さを孕んだ内装に一瞬、自分の居場所を見失う。
部屋中に額縁が掛けられている。壁の隙間をほとんど覆い尽くすように配置され、息苦しささえ感じる光景。
電気を点けてみればわかる、額縁の写真の半数は『星の描いた地図』を撮影したあの丘からの夜空だった。
写真の出来映えは、カメラ屋の娘であるあかりが見ても素晴らしいと言える。だが、紘人自身が空を撮っていた場面など数えるほどしか見ていない。これは、写真を生業とした人の作品群であり、つまりは――――
「すごいだろ、これら全部、春乃の作品なんだ」
その名前は、三倉の人々との会話で何度か耳にしていた。紘人に関連する名前なのは間違いないのに、詳細を尋ねると誰もが口を噤んだ。
「春乃、さん……?」
「そう、支倉春乃。俺の最愛の人であり、この部屋の本来の住人だ」
気づく。支倉とは、ゆきの名字と同じだ。そして紘人は、八島と名乗っていた。
「春乃はこの町で生まれ育ち、この町の星を愛していた。星が描いた地図も、彼女の作品なんだよ」
紘人は机の上に飾られていた、地図の写真を収めた額縁を撫でる。この町に来てから何度も目にしたその一枚の両隣に、あかりは視線を奪われた。
片側は空のままの写真立て。わざわざ目につく特別な場所に置いてあるのに、中身は用意されていない。
そしてもう片側。開け放たれた化粧箱があり、そこに、一対の指輪が嵌まっていた。対、と表現して良いのだろうか? 使っている宝石は違う種類で、青と金の輝きをそれぞれ放っている。ただ、最愛の人の部屋に置いてあると言うことは。
「……結婚、してたんだね」
声が震えそうになる。駄目だ、堪えろ。覚悟の上でここまで来たんだから。うっすらと感じ取っていただろ、忘れ得ぬ女がいることくらい。その上で、寄り添えなければ、あかりに勝機はないのだ。
「まあね。もう3年も前に亡くなってしまったけれど」
ようやく彼が、踏み入らせないとした領域を開示してくれているのだ。これがチャンスでなくてなんなのか。あかりは自分を奮い立たせようと鼓舞する。
「今でも、春乃さんのこと、愛しているの?」
「愛していた、今でも、そうだ。俺にはすべてを捧げた人がいるから、君の気持ちには応えられないよ」
今度こそ、きちんと言葉にされてしまう。ゆきが語った意味をあかりは理解する。紘人の実直すぎる想いを覆すのは簡単じゃない。
「だから君も、こんな過去に囚われた男じゃなくて、未来を見ていてほしい」
「……さみしくないの?」
「そうみえる?」
寄り添う隙など用意されていない。彼はいつまでも春乃に囚われていた。彼自身も望んでのことだった。
「……ごめん」
ただ好きになってもらうだけなら、どうにかできたかもしれない。時間をかけて気持ちを育んで、年の差や障害を乗り越えて結ばれる未来もあったかもしれない。だが紘人の真ん中には、もう一番があったのだ。その場所は他者が絶対に犯すことが出来ない聖域。
競争にもならない。この恋に未来はない。だから自分などに構うなと紘人は言う。
「ここを続けていけないのも、それが理由なの?」
「そうだね。春乃が亡くなってからも、おかあさんに支えられてなんとかやってきた。塞ぎ込んで閉じこもるよりは楽になれたと思う。けど、もう疲れてしまったんだ」
「蛍火を閉じて、その先は……?」
「…………」
饒舌に語っていた紘人の舌が、絡まる。あかりには予感があった。目の前にいる人の存在が、どんどん希薄になっていくのを感じていた。彼が秘していた闇、その中枢をようやくあかりは捉えた。
「……俺は、俺を閉じたい。春乃がいない、この色のない世界でこれ以上、生きていたくないんだ」
「だめっ!!」
反射だけでその言葉を口にしていた。離してなるものかと紘人の身体にしがみついた。だめ、だめと駄々をこねる子供のように繰り返す。
「死ぬなんて駄目だから! 絶対許さないからっ」
「君に許してもらう必要はないな。もう決まっていることだからさ」
事務的に、業務連絡でもするみたいに。紘人の言葉は淡々としている。
「これを君に話したのは、理解してくれると思ったからだ。これで後腐れなく、ここを離れられるだろう」
全くこちらの心をわかっていない。いなくなるなどと言われたら、未練が残るに決まってる。
「どうして……」
あかりはぐちゃぐちゃの内心で、逡巡する。どうしてこんな人でなしを好きになってしまったのだろう。この恋を追いかければ、酷い結末が待っている。なのに縋ってしまうのは、どうして。
「どうして、残された人の気持ちがわかるのに、死ぬことを選べるの? あなたにまで先立たれたゆきさんの気持ちは考えないの? 私は、私の……あなたのことを好きな私の気持ちは、考えてくれないの!?」
理屈で感情を飲み下したいのに、上手くいかない。ただ、胸のうちで想いが燃えさかっていて、制御が利かないのだった。
「その先のことは、どうしようもないよ。俺という観測者は生を閉じるから」
「逃げないでよ!」
「逃げるんじゃない。保存するんだ。春乃を愛し、その愛に殉じることで、俺は俺を保存する」
それはまるで、写真に切り取るみたいな行為だ。一瞬を、その時の光景を撮影することで、彼は時を止めようとしている。
「保存って……一体何を言ってるの? あなたが後を追ったって、春乃さんは喜んでくれないわ」
「君に何がわかる、俺と春乃のことを何も知らないのに。彼女はね、星になったんだよ。デネブからアルビレオの間にいるはずなんだ。そこで俺を待っててくれている」
彼は死に希望を抱いている。彼女と同じ地点にいくことが唯一の方法だと。
「もう三年も過ごして、わかったんだよ。春乃の居ない時間は空虚で、楽しいことなんか一つもなくて、退屈だった。それでも生きろって言うのか、君は」
「当たり前でしょ。好きな人には少しでも、長く生きていてもらいたいに決まってるんだから。春乃さんもそう言う、きっと」
紘人の鉄面皮に皺が生じる。踏み込まれることに確かな不快感を抱いているようだった。本人のことを知らぬ相手に勝手に代弁されてしまえば、言い返さずにはいられない。
「春乃はそんな風には思っていないさ。綺麗な最期じゃなかったからね」
「無念のうちに亡くなったなら、なおさら。あなたには――――」
「春乃は俺が殺したんだよ。だから、なるたけ早く会いに行って、謝らないといけないんだ」
先ほどまであかりは、紘人に根ざす心の闇を理解したと思っていた。しかし今は、この男が何を言っているのかすらわからない。
最愛の人を、殺した。
「な、ん……て」
まさか直接、ではあるまい。そんなことをすれば紘人は今ここに居ないし、ゆきとの関係だって上手くいくはずもない。あかりが真意を探れずにいる合間にも、紘人の目はどんどんくすんでいく。何度も見た、後悔と自己嫌悪に塗れたあの目だ。
「彼女のもっとも辛いときに、俺は背負ってあげられなかった。支えてあげなくちゃいけなかったのに。春乃さえ隣にいてくれれば、それでよかったはずなのに……」
呪われていた。愛ゆえの呪縛に彼は陥っているのだ。何が起きたのかはあかりにはわからない。けれど救えなかったという事実だけが胸の中で彼を苛み続けている。自らに全ての罪を押しつけ、裁かれるのを待っている。
「わけがわからない。あなたが、愛する人を殺したりするはずないっ!」
何が何でも彼を肯定してあげなくては。自分だけは味方でいてあげなくてはと、あかりは懸命に言葉を探す。さもなくば、僅か目を離した瞬間にでも彼は、闇に呑まれて溶けていきそうだった。
「わかってもらえなくていいよ。ただ、事実だけがある。俺は最愛の人すら守れずに殺したんだ。君もこんな出来損ないに構っていないで、さっさと次行けよ」
「私の好きな人を悪く言うのはやめて!!」
春乃の部屋に叫びが轟く。自己嫌悪しないで。自分を追い詰めないで。生きて。そんな意味を込めたかったのかもしれない。
「春乃さんはきっと幸せだった。あなたが殺したなんて間違いよ、だからそんなに背負い込まないでいい!」
「……さっきから、知った風な口を利くね。幸せに暮らせていたら、命を落としたりしていなかったと言ってる」
「わかる。わかるのよ、私には」
あかりには何故か確信があった。春乃のことなど本当に何も知らない。でも、一つだけ共通点があったから。
「だから、勝手なこと抜かすなって」
流石に腹に据えかねたのか、紘人の握った拳が震えている。
「だって、あなたにこんなに愛してもらえてたのよ! 絶対、幸せだったに決まってる!」
同じ男を愛した、という一点のみで二人は繋がっていた。願望だ。まだ経験のない少女の淡い恋心が見せる夢だ。最愛の人に愛してもらって、幸せじゃないなんてありえないとあかりは言うのだ。いくら探しても不格好な言葉しか出てきてくれない。でも紘人に、彼自身の価値を少しでも見い出して欲しくて。
「……なら君は、俺が君を受け入れたらすべてを捨てるのかよ。愛されるだけで幸せなんだろ?」
先程答えあぐねた問い。どうせ出来やしないんだから落ち着けよという紘人の意図が透けて見えるようだ。ただ彼は読み違えた。ここにいるのは、さっきまでの冷静さを保ったあかりではない。
「捨てる。これまでの人生も輝かしい未来も全部、捨てるわ」
「口ではなんとでも」
まさか肯定されると思っていなかったのだろう。恋する乙女を甘く見た紘人の負けだ。
「捨てるから。死んじゃあ、いやだよ」
二人にはそれほど身長差がない。ちょっと背伸びをすれば届いてしまう。
反論もイヤミも軽口も、すべてを封じ込めてしまった。
あかりの唇が、紘人のそれを覆い塞ぐ。
重ね合わせただけの拙い繋がりは、長くは続かない。分かたれた後、あかりは、限界を迎えたのか、
「やだから」
と言い残し、逃げるように春乃の部屋を後にした。
◇◇◇
一人残された紘人は、春乃の部屋にいるのに、自分の居場所を見失った気がしていた。閉じ込めていた息をそっと逃がす。
「ったく、やりたい放題しやがって」
愚痴をようやく吐き出せた。まったく、ペースを乱されっぱなしだ、彼女と出会ってから。
触れあっていた部分が熱い。人と密着するなどいつ以来だろう。柔らかさも、匂いも、熱も。もう触れることなどないと思っていた。春乃以外の女性と口づけするなど、ありえないと。
また、謝らなくちゃいけない出来事が増えた。きっと赦してもらえると信じたい。だって、俺の意思なんか関係なしに、相手が、無理矢理してきたのだから。
濡れた唇を二の腕で拭う。拭っても、拭っても、熱を孕んでいる。
「気持ちわりい……」
自分が弱いからこうなる。心のどこかで赦してもらいたがっている。人恋しさを他人の温もりで埋めてなるものか。
キスぐらいで、乱されている。そんな自分が、大嫌いだ。
◇◇◇
未だ空は漆黒に包まれ、夜明けまでは二時間ほどだろうか。
蛍火の宿泊客を乗せた車が、星見の丘駐車場に停められた。直線距離は大したことないのだが、いかんせん登りがきついからこうして送迎車を出している。
入り口まで出向くと、普段はいない係員が紘人のパスを確認した。年に一度の特別な夜だ。主要な星見スポットは町で管理して、宿泊者様専用エリアへと変貌を遂げる。三倉を観測地に選んでくれた人に感謝を込めて、特等席を用意するのだ。
草の生い茂る丘に、小さな看板が差し込まれている。紘人たちは『蛍火』と書かれている一帯に陣取った。各々がレジャーシートを広げたり、ビール缶のプルタブを開けたり。
「条件は整った。顔を上げなよ、これほどの環境はこの先あるかどうか」
先程から一言も発しないあかりを見やる。やはり、打ちのめされているようだった。無理もない。告白からまだ数時間しか経っていない。気持ちの整理もついていないし、星が綺麗だよと言ったところで楽しむ余裕もないのだろう。
「……あのさ」
紘人は小さなレジャーシートを用意し、あかりに勧める。抵抗なく座ったため、彼も隣に腰を落とす。
「初めて、だった?」
こくりとあかりは頷いたあと、三角座りの膝に顔を埋めてしまった。
「……ごめんな。応えてあげられなくて」
あかりと寄り添って歩いて行くことも、この先の結末を変えることもできない。ただ、無垢な少女の気持ちを踏みにじってしまった実感はある。
「謝らなくていいから、死んだりしないで」
「流れ星に願いをかけて過去に戻れるならいいのにね。でも、そうはならないから」
天頂を指さした。辺りから歓声があがる。北東の方角で、一筋の塵が夜空に尾を引いた。紘人はまるでわかっていたみたいだ、星の生まれるタイミングを。
月あかりなき空を流星が駆けていく。誰かが見つけると、そこへ視線が集まる。ペルセウス座を中心として放たれる光が地上の人々を魅了する。綺麗。よく見える。すごい。誰もが流星群に呑まれていた。
「俺にはもう先がない。だから、せめて君のこれからの人生が上手くいくように、お祈りしておくよ」
星の軌跡に願い事を乗せる。健やかに生きていって欲しい。身勝手な願いなのはわかっているけど、あかりのためには生きられないのだから仕方がない。
「ひろくんがぐちゃぐちゃにしたのよ、私の人生」
「一等星だけ眺めていればいいのに、わざわざ砂粒みたいな暗い星を拾おうとするから深みに嵌まるんだ」
「説教くさい人ね。なんでこんなつまらない男を好きになってしまったのかしら」
「君の趣味が悪いからだろ」
あかりはようやく、頭上を仰いで。闇を切り裂くような流星を見つけては、強く睨みつけて。
「私、諦めないから」
と決意染みた言葉を吐き出した。
「きっと後悔するよ」
自分は、この子の想いを顧みることなく、もう喪った人に寄り添うように死んでいく。その過程であかりが傷ついていく様は紘人とて見たくはない。
「うん、たぶん、すると思う。でも、このままあなたの手を離してしまったら、一生私は、自分の初恋に顔向けできなくなる」
ぎゅっと、手を繋いでくる。紘人が地上に視線を戻すと、そこにはさっきまでとは見違えるくらい大人びたあかりの笑顔があった。
「だから、簡単には死なせてあげないわ。覚悟しなさい」
ちか、ちかと夜の海に光が走る。紘人にとって最期の夏の流星群が北の空に輝いているというのに。
どうしてか、彼は、隣にいる人から目を逸らせない。




