熱情
夜の帳が降りる。
いよいよ三倉の天空スクリーンに星座が瞬き始める。佳境を迎えた祭りの熱に吸い寄せられるように、ペンションの客達は外へと繰り出してしまった。
吉崎夫妻にも遠慮無く楽しんできてもらえるよう、るいは二人が面倒を見ることになった。
「るいく~ん、あんよが上手でちゅよぉ」
よたよたと歩くるいをあかりが褒め称える。瞳をハートマークにしながら幼児の成長を見守り唇の端からはよだれまで垂らしていた。紘人は遠巻きにその様子を眺めている。あかりは時たま彼の方を振り返り、あなたも来なさいと視線を寄越すが、無視を貫く。
るいはあかりのことを気に入ったらしい。きゃっきゃと笑いながら、周囲をぐるぐる歩いてはたまに転んであかりにもたれかかっていた。
「知らなかったわ。私って、子供好きだったんだ」
「可愛いのは今だけで、そのうち生意気言ったり反抗したり暴れたり。大変なのはここからだよ」
「子供は3歳までに一生分の親孝行を終えるそうよ。幼少期の可愛らしさを思い出せば、この先どれだけ憎らしいことを言われても許せてしまうんですって」
あかりはるいを抱っこして、頭を撫でながらまるで親のように振る舞う。
「……まだ君も子供のくせに」
「残念、あなたの時代と違って、18歳は成人です」
子供扱いが不服なのか、十も離れた男性に食ってかかる。
「もう大人だから、自分の進むべき道も居たい場所も自分で決められるのよ」
「ほう、そいつは何より。ここに来た頃には迷いまくっていたのに」
あかりは上体をゆらゆらさせながら、るいの揺り籠になっていた。遊びすぎて疲れたようだ、次第にるいの瞳は幅を狭め、安心して眠りに落ちていく。
「そうね、最初はそうだった。暗闇の中を手探りで、見つかるかもわからない大切を探しに旅に出たから」
だが今は違うのだと、言外に語りかけてくる。
「あれはやっぱり地図だったのかもしれないわ。星が示してくれた先に、その人はいたのよ」
るいを寝床に優しく着地させ、正面から紘人と向き合った。言わせるべきじゃない。ここで切り捨てなければきっと、予後が悪い。自ら沼に沈んでいこうとしている人を、黙って見過ごすほど紘人は心を喪ってはいなかった。
けれど、まっすぐに自分だけを見つめる瞳が、想いの熱量を伝えてきてしまうから。迂闊に触れれば火傷する。だから紘人は、言葉を遮ることができずに。
「気づいていると思うけど、私、あなたが好き。ひろくんのことが、好きです」
客室に、るいの寝息だけが響く。あかりの両の眼に星が浮かぶ。紘人は吸い寄せられるように見ていた。
強く純粋な想いが持つ眩さに気圧されつつも、それは他を知らぬせいだと紘人は結論づけている。ずっと籠の中に居たから。出会いも自由もなく、令嬢としての立場でしか世界と触れてこなかったから。初めて抱いた感情の、ラベルの貼り方を間違えているのだと。
「…………何か言ってよ」
「……人を見る目がないな」
いつかこの子が過去を振り返ったとき、きっと後悔するはずだ。どうしてあんなくだらない男に、と。
「そうね、自分でもどうかしてるって思うもの」
「なら一時の熱病とでも割り切って、早く忘れてしまった方がいいよ」
「できなかったから、いま、告白してるんじゃない」
応える、なんて選択肢はない。どう躱すのがいいのか。なるべく傷つけたくはないし、望まぬ結婚を控えているあかりの最初で最後の恋愛感情に泥をかけるような真似はできない。
大人の対応が求められている。紘人とて、まさか自分にと驚いているのだ。これまでの人生を思い返すも、異性に特段好かれたりはしてきていない。片田舎の冴えない男に、誰もが羨むような美少女が想いを寄せるなど出来損ないのフィクションではないか。
「なあ、どうして俺なんだ? クラスの男子だっていい、婚約相手の御曹司くんだって、俺なんかより――――」
あかりは、紘人が言い終わる前に、理由を口にする。
「あなただけよ。あなただけが、私を邪険に扱ってくれたの」
「…………あん?」
何を言ってるんだこのお嬢様は。
「誰もが私を特別扱いするの。自慢じゃないけど、学校では人気者だし、出会った人みんな、すぐ私のことを気に入ってくれた」
それは自慢以外の何物でもないのだが。
「うらやましいことだなあ」
「不気味なものよ、実際に相対するとね。話したこともないのに告白されたり、目につく部分すべてを持て囃したり、私に取り入ろうと必死になるの」
沈んだ声音だ、これまで何度も同じことがあってうんざりしてるのだろう。
「きっと私の内面とかはどうでもいいんだと思う。見てくれがよくて、お金持ちで、何でもこなせちゃうステータスが欲しいのよ。私がどんな食べ物が好きとか、飼ってみたい動物とかは誰も興味がないんだ」
「俺も別に興味ないんだけど」
「そういうところ。普通の男性なら、それじゃあ君の好きなもの食べに行こうとか、動物園に行ってみようとか、言うの」
「おべんちゃらが全くないから、俺に惹かれたって?」
「…………へんでしょ。笑ってくれてかまわない」
ゆでだこみたいに顔が染まっている、よほど恥ずかしいのだろう。これまで紘人があかりと距離をとるためにしてきた行動が、全部裏目だったのだ。手を叩いて自分を嘲笑してやりたくなる。
「残念な感性だね……」
かわいそうにと哀れむような口調だった。
「わかってるから、意地悪言わないで……」
あかりは両手で頭を抱えている。これほど理性が否定するなら、おそらく気の迷いだから引き返せと思う。ただ、誰に尋ねても間違っていると断じる選択肢を、わざわざ選んだのだ。理性をねじ伏せるだけの強い気持ちを抱えているのだろう。
ならば、紘人も半端な受け答えは許されない。
「……仮にさ、俺が気持ちに応えたとしても、そこに未来はないよ」
あかりは聡明な女性だ。これから紘人が口にすることだって、とっくにわかっているはずだ。
「婚約で縛られた君だ。反故にしたならタダじゃ済まないはずだ」
「実家のことはもういい、って私が言ったら?」
「未来を捨てられるのか、本当に? 余命幾ばくもないこのペンションと、くだらない男のために用意されたレールを外れるか?」
「いけないのはわかっているけど、ちょっと憧れている自分がいる……」
以前ささらが言っていた、あかりのお姫様願望の強さを忘れていた。
「憧れで実利を捨てちゃいけない。恋心で腹は膨れない」
「感情を殺して富を得たとしても虚しいだけよ、きっと」
「もっと自分を客観視するんだ。自分の人生を最後まで描いてみなさい、ここですべてをなげうつほどの男か、俺は?」
天秤にかけるまでもない。あかりと釣り合うはずがない。そうだ、自分に価値などないのだ。まっすぐに向けられた好意さえ、ありがとうと受け取ることも出来ないのだから。
「ねえ、もういいでしょう? それでも私は……好きに、なっちゃったんだから」
説教くさい理屈など聞き飽きたと、あかりは紘人ににじり寄る。
「困らせてるのはわかってるけど、閉じ込めておけなかったのよ!」
「……ずっとあなたのことばかり考えちゃうの。向き合わなくちゃいけない未来のことより、今、この気持ちが大事だから……伝えないままさよならは、嫌だったの!」
「あまり大きな声を出すなよ。るいが起きてしまうぞ」
静かに、と人差し指を立てるジェスチャー。あかりの魂の告白は、紘人にとって幼子をぐずらせる騒音でしかないのか。どれほど熱情を放とうと、紘人には一向に伝播しない。涙ぐんだあかりを目の前にしても、彼の感情は揺すぶれない。
「それにさ、今までのは全部、仮の話だ。俺が受け入れたときの話だ」
冷ややかな目線があかりにその先を悟らせる。もちろん、そのつもりはないことを。
「……無理だよ、どうにもならない。俺はもう、ずっと、一人でいることを決めているから」
門が閉じられようとしている。他者を断絶する紘人の壁は、侵入者を放っておかない。
僅かな隙だった。錠をかける直前のこと、ねじ込まれた言葉がついに、紘人の心臓を抉った。
「大切な人を亡くしたから……そんな哀しいことを言うの?」
そこまで見当がついていて、それでもなお踏み込んでこようとする。紘人には理解できない。拒絶の意思は何度も示した、だのに食らいついてくる。自分のことを好きだと言いながら、秘しているトラウマをほじくり返そうとするのは身勝手ではないか。
いいだろう、納得がいかないなら答えよう。終わらせることが優しさだ。飼えない動物に餌をあげてはならない。
「まさしく、そうだ。あのはくちょう座は、俺にとって地図じゃなく、墓標そのものだ」
「…………」
「十字架を背負っている。俺が愛した人はずっと、あの星空から俺を見ている。だから誰とも親しくはなれないし、したくもない」
自分から欲しておいて、なんて顔をしやがる。恋の熱など冷め切ってしまった、真っ青なあかりの顔色。
「君がずっと探してた、自分の生きる意味をくれる人に、すでに俺は巡り会ったんだ。素晴らしい幸いを掴み取り、なくした。だからもう、何もかも遅い」
紘人の口調はあくまでも優しい。突き放す厳しさより、嘘偽りなく伝えられて安堵している風であった。
「……すまないな、こんな男で。夏休みが台無しになっちまった」
「ひろ、くん……」
あかりがようやく、言葉を絞り出そうとしたとき、ペンションの扉が開く音がする。吉崎夫妻がるいを気にして早めに戻ってきたのだろうか。
「ごめん、あとでもうちょっと話そうか。お客さん戻ってくるから、これ」
ハンカチを渡して涙を拭うように伝える。だが、あかりは動揺していてとても客前にはだせない。
「……あー、すまん。そしたら、俺が寝起きしている部屋に行っててくれるか? 夫妻を迎えたらすぐに行くから」
こくりと頷いて、あかりは客室を出て行った。泣かせてしまったが、これでいい。希望を持たせるのは酷だ。優しくするのは毒だ。これが最善だったのだ。
後悔はない。ならば、この胸の内に巣くうしこりは一体、何なのか。
紘人は一人、頭上を見上げるが、天井に阻まれて星空は見えなかった。




