小さな命
「やあ紘人くん、また今年もお世話になるよ」
「ほら見て、この子、もうこんなに大きくなったんだ」
珍しい出来事だった。出迎えのとき、紘人は奥の目立たないところにいる。大抵の客は最前にいるゆきと会話するし、あかりとささらが来てからは、これ幸いと位置をさらに後ろにずらし自分の存在を消すようにしていた。
だが、その日来館した夫婦は真っ先に紘人へ話しかける。
「お待ちしておりました、吉崎さま。お荷物お預かりします」
親しげに振る舞う夫婦に比べ、紘人は事務的に対応しようとしていた。どういう関係なのかあかりには判断しかねる。常連なのは間違いなさそうだが。
「るいくん、紘人お兄ちゃんですよ~。覚えてるかなぁ?」
母親に抱かれた二歳にならないくらいの子供が、紘人を見つめて「なー」という。
目がくりくりでほっぺがもちもちで、撫でてみたくなる愛らしさ。
「かっっっわ」
意図せず声が漏れ出た。
瞬間、あかりの中で『何か』の芽生えを感じる。後に振り返ったとき、彼女はそれを『母性』と名付けた。
「あら、新人さんかしら? 若い女の子が二人も」
「夏の間、お手伝いをしてくれてるんですよ。あかりちゃんとささらちゃん」
ゆきに紹介してもらってあかりはぺこりと頭を下げた。
「よろしくお願いします。お子さん、とってもかわいらしいですね」
「るいくん、褒めてもらえてよかったね」
母親はるいの視界にあかりが映るように正面までやってくる。すると小さな手をめいっぱい伸ばして触れようとしてくる。あかりは母親に目配せして許可を得てから、そっとすべすべの手のひらにタッチした。
「あーい」
るいが邪気の一切ない笑みを見せた。
「はぁあああああああ」
あかりは心を打ち抜かれ、もうメロメロになってしまう。るいの所作一つ一つに陶酔していた。
「こら、そろそろお客様をお部屋に案内しなさい」
紘人の指摘ではっと目が覚める。
「す、すみません。私、こんなところでお待たせして」
「いいのよ、もしよかったら後で抱っこしてあげて」
るいに目を奪われながらも、あかりは先導し夫妻を部屋に案内する。
「ありがとうな、紘人くん。こうしてまた三人で泊まりに来ることができてよかったよ」
「こちらこそ、うちを選んでいただいてありがとうございます。るいくんも元気に過ごせていて安心しました」
「全部あなたのおかげよ」
「当然のことをしたまでですから」
聞き耳を立てながら、何があったのだろうとあかりは推察を巡らせるが、あとで直接聞いた方が早い、と結論づけた。
「今年の星華祭は盛り上がりそうだね。月明かりも無いようだし」
「ええ、雲の心配もなさそうで、いいコンディションだと思います。スタッフも増えたのでお子さんも見ていられますから、ご夫婦で是非楽しんできてください」
数日後に控えた祭りの日まで夫婦は蛍火に滞在するようだ。時間を作ってるいくんと遊ばせてもらおう、とあかりは決意する。
◇◇◇
このところ、紘人は毎日のようにはくちょう座を追いかけている。心、地上にあらずと言った虚ろな面持ちで一等星のデネブをじっと覗き込んでいた。
あかりが話しかけても、反応がもらえないこともあった。
「あのご夫妻、ひろくんにとっても感謝していたけれど、何かあったの?」
「…………ああ、別にたいしたことではないけど」
三度、同じ質問をしてようやく返事をもらえた。わざと無視をしているという風ではなく、本当に聞こえていないんじゃないかと思うほど、彼は空に神経を注いでいた。
「去年も泊まりに来ていてね、星華祭の日、子供が深夜に熱を出しちゃったんだよ。夫妻は祭りで飲酒していたから病院に連れて行くことができなくて。俺が運転して街の救急に駆け込んだってだけ」
「それであなたのことを恩人のように扱っていたのね」
「そう。詳しく聞いてないけれど、何日か入院が必要だったみたいだから、無事でいてくれて何よりだ」
田舎だけあって医療網は発達していない。町医者はいても夜間の救急対応はできないし、街からの車を待つ時間も惜しかったのだろう。
「間に合って、よかったよ」
紘人は安堵の息を漏らす。
やっぱりこの人は根が優しい人なんだ。いつも意地悪ばっかり言うし、誰とも関わりたくないって壁を作っているけれど、本当は情に厚く、困っている人を放っておけないんだ。
そんな紘人のことを思うとき、あかりの胸のうちは少しだけ暖かくなる。
多分もう、間違いない。
目をそらし続けるのも無理がある。それほど大きく育ってしまった。かけがえのない、憧れを抱き続けた感情が今は、あかりの中に確かに存在している。
「優しいね、ひろくん」
「従業員の義務を果たしただけだし」
「そういえば、あの夜も私のこと街まで送ってくれようとしてたよね」
「タクシーを呼べだの金ならあるから部屋をあけろだのわめき散らしていたから、見ていられなくなったんだよ」
「……そんなに酷かったかしら、私」
「冗談だ。ここまで横暴じゃなかったよ」
あかりが抗議の視線を送るも、紘人はひらりと躱してまた空を仰いだ。
「優しさなんかじゃないよ。たぶん、自分を慰めただけだ」
「どういうこと?」
「あの子のことも、君のことも、全部、自己満足でしかないのかもしれないなって」
あかりには見えない回想シーンに突入しているのか、自嘲気味に紘人は笑った。
「自己満足だとしても、るいくんはそれで命を繋げた。私の人生も、希望の光が見えた。それでいいんじゃないかしら」
彼の優しさを肯定してあげたかった。背負った物の重さはわからないけど、少しでも軽くしてあげたいとあかりは思った。
「あなたが救った命が成長してまた会いに来てくれたんだから、もっと喜んでいいと思うの」
「子供が苦手、なんだよ。どう触れて良いのかがわからない」
あんなに可愛いのにとあかりは反論しかけるが、可愛いからこそ、これほど尊い存在に部外者が触れて良いんですか……? という畏れ多い気持ちは確かにあった。
「自分が親になったつもりで、愛情を持って抱いてあげればいいのよ」
「自分の子供だったら、遠慮無く、目一杯の愛情を注いで抱きしめるのだけど」
疑わしい発言だ。子供が大事とか言っておいて、平気で休みの日に朝からゴルフに行くタイプではないのか。
「適材適所で行こう。君はるいくんのお世話がしたい、俺は苦手。なら持ち場は決まりだな」
「将来のために慣れておけばいいのに」
その言葉に、彼は星座からあかりへ視線を戻した。
「もう今更、だよ。誰かと結ばれたり、子供を育てたりは無理かなあ」
紘人もまだまだ若い。親になるのだって遅くなどないのに、諦めているような物言いだ。
「わからないわよ。いつか、大切にしたいパートナーに巡り会うかも」
見たことのない男が目の前に現れた。
とても穏やかな表情を顔に貼りつけた、あかりの知らない人だった。いつも顰めっ面で、つまらなそうで、覇気がない紘人とは全くの別人に思えた。
あかりの直感が察してしまう。
これは、自分に向けられた笑みじゃない。
「そうだね。そういうことも、あるかもね」
かつていたのかもしれない。紘人に、この笑顔を向けてもらえる人物が。そして、今はもう、いないのかもしれない。
その人の不在が、彼から光を根こそぎ奪ってしまったのだとしたら。
ゆきや町民が口にした断片的な情報が、あかりの中で急速にまとまっていく。
「…………そうよ。未来は、わからないんだからね」
確かめなければいけない。どのみち、このまま終わらせる気はさらさらないのだ。
地図じゃないのなら、どう見えているのか。
何故蛍火を閉じてしまうのか。
過去に、何があったのか。
知りたいから、こちらから踏み出す。部外者なのはわかってる、それでも。
もう一度、さっきの笑顔を見たいから。




