三倉の母
8月に入り、町のあちこちで、祭りの準備が始まりつつある。あくまで主役は星、との建前だが商売人達は便乗する気満々で、年に一度の繁忙期に向けて大忙しで支度している。
あかりは慌ただしい様子を見ているだけで楽しい気分になっていた。何か面白いことが始まるんだという期待が胸の内で踊っている。
「おーあかりちゃん! ちょっと新商品食べてかないか?」
漬物屋の村木が鼻の下を伸ばしながらあかりに声をかける。浅漬けで女子高生が釣れるはずなかろうに、
「前に言ってたオクラとミョウガの? 食べてみたいわ」
と思いきやあかりはかかった。三倉に来てからというもの食事量がぐんと増えてしまった。屋敷で口にしていたのは高級品ばかりであったが、マナーを気にしたり祖父と会話しなくてはいけないせいで食欲を減退させていたのだろう。
三倉では肩肘張らなくていい。美味しいものを素直に美味しいと言っていい。
心のままに食っているから、乙女的に気になる部分も出てくるが――胸から太ればいいのにとあかりはいつも思っている――これは野菜でカロリーなぞ無いに等しいからノーカウントだ。
「いただきます」
和えてあるのだから一口でいってこそだろう。
あかりは二種類の野菜を同時に口へ運んだ。すっとした清涼感が鼻から抜けていく。大ぶりのオクラにはきちんと味が染みていてご飯が恋しくなる。そこへシャキシャキとしたミョウガの歯ごたえがアクセントとなり後味を軽くさせる。相乗効果で次へ次へと箸を進ませる一品になっていた。
「……いるかい?」
あかりの表情から心情を読み取ったのか、村木は茶碗に白飯をよそって出した。
「…………さっきお昼食べたのだけど」
「いらない?」
「ちょうだい!」
お言葉に甘えるのがあかりの得意技だった。
白飯の上に漬物を乗せて食えばおかずなんていらない。日本人のDNAに染みついた『こういうのでいいんだよ』感が魂を揺さぶる。
はふりながら飯を貪るあかりを村木は幸せそうに見ている。
あかりの身分が並じゃないことをとっくに住民は気がついていた。そんな相手が田舎のお土産やお菓子を嬉しそうに食べている。本物を知る舌をうならせたとなれば、彼らの自信にも繋がる。
だからあかりは、出先でよく物を恵まれる。
「美味しいかい?」
こくこく頷きながら白米を掻っ込む姿に屋敷での面影はない。
「ごちそうさま、村木さん。夏にぴったりの爽やかな漬物だったわ」
「じゃあ作る量増やしてみようかな。どう、ついでに買っていく?」
「そうね。おそばに添えても、豆腐に乗せても美味しそうだし」
あかりは財布を取り出し、千円札を見て少し、考え込んでから。
「たくあんも1パックいただける? ひろくんが好きなのよ」
紘人は余り食事に興味を示さない。生きるため最低現のエネルギーを摂取する行為と割り切っているのだろうか、時間をかけたがらず楽しんでいる様子もない。あんなに美味しいそばだって表情も変えずに啜っている。
一緒に暮らす中で知った、唯一好物とおぼしき物が、たくあんなのだった。必ず食卓に並びいつもぽりぽりと囓っている。
「……ありがとね、一つずつでいい?」
さっきまであれほどにこやかだった村木の顔に影が差す。以前紘人が語っていたことを思い出す。村の人間にはすでに嫌われているのだと自分を分析していた。
本当、なのかもしれない。
何があったんだろう。
自分に対してはすごく優しくしてくれるのに、紘人と二人で歩いているときは声もかけてくれない。
蛍火を続けていけないことと関係があるのだろうか? 理由は怖くて聞けないままだった。でも、イベントに参加するみたいだし、少しは前向きになったのかもしれない。いずれきちんと聞いてみようとあかりは決意する。
わがままではあるのだけれど、叶うなら、ずっとあそこで変わらないまま在ってほしいと思う。
漬物を手提げ袋に入れてもらい村木屋を後にする。
さて、ご飯を一膳いただいてしまったからには、甘味で〆なければならない。あかりは『ばぁーや』に足を向ける。女の子の身体はスイーツで出来ているのだ。屋敷に居た頃とは運動量が違うのだから、カロリーを欲するのも自然な反応なのだ。
今日は何を食べようかと思案しながら暖簾をくぐると、見慣れた後ろ姿を発見し声をかける。
「おかあっ」
言い切る寸前で止まった、と信じたい。
自らの間違いを察しギリギリで踏みこたえたはずだ。ただ相手に気づかれていませんようにと願いながら様子を窺う。
だめっぽい。
「あら、あかりちゃん。おやつの時間?」
ゆきは振り返り、あかりに向けて微笑んだ。羞恥心で頬が染まる。いや、まだ諦めるには早い。単にあかりの声だから反応しただけかもしれないし、いざとなったらおばあさんと言ったことにしてばぁーやに声をかけた体にしてしまおう。
「……うん。ゆきさんはお祭りの打ち合わせ?」
仕方の無いことだとあかりは内心言い訳をする。
紘人が日常的におかあさんと呼んでいるから呼び間違えたんだ。ゆきと過ごす時間は心から安らげるし、まるで理想の母親像を体現している存在なのだ。あかりにとって。
あかりは母のぬくもりを知らない。
彼女の実の母親は、男に狂って死んだ。
弱い人だったと思う。あかりの記憶の中での母はいつも涙を流していた。
自分のことで手一杯で、我が子を顧みる余裕がなかったのだと今のあかりは理解している。
「あなたたちが手伝ってくれるって言うから、すこし、張り切ってみようかと思ったの。ありがとうね、あかりちゃん」
「ふぇふぇふぇ」
ゆきもばぁーやも本当に優しい笑みを浮かべるのだ。これまで周囲にいた人間は、媚びへつらうような笑みばかりをあかりに見せた。
この人たちが、町が、大好きだとあかりはしみじみ噛みしめる。
「そんな、私こそ、ありがとうって言いたいよ。わがまま聞いてくれて、一緒に暮らしてくれて……」
「いいえ、あなた達が来てくれて、とっても助かってるのよ。紘人さんと二人だったら、参加しようともしなかったから」
だからこっちがありがとうなの。と言われてあかりは我慢できなくなった。ゆきの胸に顔を埋め甘える。涙ぐんだのを見られないためにもそうする。あかりの方がかなり身長が高いせいで不格好な抱擁になる。
「わっ、どうしたの急に」
驚かせてしまったようだがしっかりと受け止めてくれた。
「ゆきさぁん、拾ってくれて、ありがとね」
決めた。ゆきは三倉の母であると。第二の故郷として制定したこの町に住むもう一つの家族。その母親がこの人だ。
だから、あかりの中ではゆきはおかあさんで間違いなくなった。
「ふふ、紘人さんにも感謝しなきゃね。わたしとあなたを出会わせてくれたんだから。あの人、誰かに声をかけたりとかすごく苦手なのよ」
紘人があかりを泊めてほしいと頼んだときに、とても驚いたのだとゆきは語る。随分長い間、彼は他人との交流を遮断して仕事ばかりの日々だったという。
どうしてあんなに、人生がつまらなそうなんだろう?
あかりが紘人に興味を持った第一の切っ掛けがその疑問だった。
あれほど素晴らしい星空を観測しているのにちっとも面白くなさそうで――まあ、あの日の自分も人のことは言えないけれどそれは置いといて――、いつも顔を顰めていて、あかりを助けてくれるときも、実に面倒くさそうで。
まるで感情の上振れをなくしてしまったかのような、疲れ切った生き物。
どんな経験すればああなるのか。そしてそれが何故ペンション経営などという人と関わる仕事をしているのか、あかりにはわからない。
「ゆきさん……ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いいかしら?」
あかりは改まって、二人分の本わさびアイスを購入しゆきをベンチに誘った。
長話をするのにアイスは失敗だったとすぐに気づく。溶ける前に急いで舐めきってから、お茶を飲み、一息ついて語りかける。
「……蛍火を続けていけない理由は、ひろくんにあるの?」
紘人に聞くよりも誤魔化しのない答えが返ってくるだろうと考え、あかりはゆきに話を持ちかけた。
「どうかしら。わたしが昔みたいにつきっきりで働けない、っていう意味なら、わたしのせいになるのかも」
「ゆきさんが決めたの? もう続けていけないって」
「……そういうわけじゃないけどね」
「寂しくない? 蛍火を閉めちゃうのって」
「とっても寂しいよ。でも、仕方のないことだから。全部が上手くいってれば、今も笑って続けられていたと思うよ」
やはり何かがあったんだ。紘人の心を折る出来事が。
歴史は振り返ることはできても、改変はできない。
自分が蛍火を好きになる前に終わりは決定づけられていた。
己の不在が、心を苛む。
紘人と蛍火の物語を覗き込んだとき、あかりは最終章に出てきたぽっと出の脇役が関の山。矢印は定まり、結末が手招く中で、彼女が関与できる余地はきっとないのだ。
それでもあかりは、知りたいと願う。
「どうして続けていけないのか、教えてほしいの。だめ、かしら」
喉がからからに乾く。領域に踏み込まれるのは嫌だと以前彼に牽制されている。だとしても、あかりは、自分の心の置き場所を知りたいのだった。
「紘人さんが伝えていないなら、言えない」
門が閉じられる。
明確に、進入禁止の線で区切られた。
部外者が興味本位で首を突っ込んでいい事柄じゃないのはすでに察していた。食い下がるべきではない。あかりはわかっている、ここで駄々をこねれば、自分の居場所が危うくなると。
「ごめんね。仮にあなたが知っちゃったとしても、もうどうしようもないことなの」
「覆しようのない、ってこと?」
「そうね。紘人さんは実直な人だから」
ゆきが伏し目がちに呟いた。
これまでを思い返すような間が空いた、のちに。
「でもね、わたしは……あの人が乗り越えてくれたらなって思うから。あかりちゃんを応援しちゃおうかな」
ゆきは、蛍火を続けていきたいのかもしれない。重くなった空気を払拭するようなチャーミングな表情を浮かべる。
「なら理由を教えてくれてもいいのに」
「それを紘人さんから聞き出すことが、第一歩なの。それが出来ないうちは、先には進めないわよ」
たどり着けたなら、あかりは部外者ではなくなる。
すなわち、彼の心の中に居場所を作ることだ。
どうすればいいか。
ただの客人では駄目なのだ、と、乙女の本能が囁く。
「はぁ…………」
自分でも、感情の動きを掴みかねているというのに。
心の中に地図記号でもあればいいのに、とあかりは思う。




