第98話
間もなくして塔長も院長の後を追うように病室を出ていき、広い部屋の中には私と柊だけが残された。ベッドの周りを囲むように設置された医療機器の間で、柊はいつになく穏やかな表情を浮かべている。
そんな彼に向って私は小さく溜息を零した。
「合崎のこと、知っていたなら教えてくれたって良かったのに」
「言い出すタイミングが無かっただけだよ。それに、普段憐と二人きりになるチャンス何てそうそうないじゃないか」
確かにそれはそうだ。何か特別なことが無ければ、柊と二人でゆっくり話すことなんてない。だからこそ、今のこの状況は少し嬉しくもある。
「……私を見つけてくれた人は、どこにいるんだ?」
合崎にとっての塔長のような人が、当然私にもいるはずだ。正直興味が湧いた。今もきっと、この帝国のどこかで暮らしているのだろう。可能ならば、会いに行ってもいいかもしれない。
「……さあ? まあ、どこかにはいるんだろうけどね。死んでなければ」
柊はさも興味なさげに言い放つ。彼がここまでぶっきらぼうなのも珍しかった。
「合崎に倣えば、きっと一条という人なのだろう? それで、私に憐という名前を――」
そこまで言いかけて、ふっと気が付いた。先ほどまで見ていた夢を思い出したのだ。
あれは、ただの夢ではない。確かに私の古い記憶だった。怜とともに過ごした、あまりにも幸せな幼い頃の記憶だ。
だが、あの記憶の中で、私は確かに「れん」と呼ばれていなかったか?
どくん、と心臓が強く跳ねた気がした。間違いない、私は「れん」と呼ばれていた。「れい」の名前にしたって、同じ音から始まる二文字である辺り双子の姉妹の名前らしい。
つまり、憐という名前は私の家族から与えられたものなのだろう。保護されたときにつけられた名前ではないのだ。
「……ということは、私を見つけてくれた人は、家族と過ごしているときの私を知っているのか?」
ぽつりと呟いたその声はあまりにも小さくて、柊には届かなかったかもしれない。彼は軽く微笑んで首を傾げていた。
私を見つけてくれたその人は、きっと家族と過ごしているときの私を知っていた。そして私の家族が爆発事故に巻き込まれた際に、私を助け出してくれたのだろう。ますます会いたくなってきた。
だが、同時に考えてしまうことがある。その人は、恐らく一緒にいたであろう怜をどうして救ってくれなかったのだろう。その人が私を助け出したとき、怜は既に誘拐された後だったのだろうか。だとすれば仕方のないことだ。その人に非はない。
でも、もしもそこに何か黒い思惑が働いていたとしたら。私たちが未だ知りえない何かが、そこから始まっていたとしたら。
そう思うと、急に脈が早まった。どうやらまだ、精神状態は完全には回復していないらしく、僅かに乱れた呼吸に胸を押さえる。フラッシュバックが起こりそうな不安定さだった。
「――――憐?」
穏やかに微笑んでいた柊が顔色を変える。柊の手がそっと私の肩に伸ばされた。
ああ、やめて。私の名前を呼ばないで。
思わず、耳を塞ぐように頭を抱えた。今にもフラッシュバックしそうだ。嫌だ、耐えなければ。
「な……なんでもない」
焦点の合わぬ瞳を伏せると、心臓の音が耳の奥で早鐘を打っているのがよく聞こえた。ほんの少し前まで平然と笑っていたのに、精神状態というものはほんの小さな不安でも歪んでいくらしい。
その瞬間、心臓が一際大きく脈打った。それと同時に最後に見た怜の姿が蘇る。
白い床にまき散らされた赤、倒れ込む体、飛び散った温度。
鼻につく鉄の臭い、銃声、微笑み。
添えられた白い手、私の名を呼ぶあの子の声。
ぎゅっと抱き締められた感覚に、不意に我に返る。目元は涙で濡れていた。まだ小刻みに震える肩を、柊が支えてくれている。
「大丈夫、大丈夫だから」
そう言った柊の声は本当に穏やかで、不思議なくらい安心してしまう。まだ息は上がっていたが、その温もりに少しずつ落ち着きを取り戻していった。
まともに息が出来るようになったころ、どっと疲れが押し寄せてくる。思わず柊の肩に頭を預け、そっと目を閉じた。ずっと昔も、誰かにこうしてもらったような気がする。今はもういない家族の誰かに。
「……辛いことがあるのなら、言ってほしいな」
私が大分落ち着いたのを見計らって、柊は告げた。彼に、怜のことを隠し通せるとは思っていない。今は誤魔化せても、後々口を開く羽目になるのは分かっていた。それに、柊は信用できる相手だ。ここで話しておくのも手かもしれない。
「この部屋は……盗聴されていないか?」
「大丈夫だよ。特別病棟の病室だからね。君たちの私室と同じくらい、外部が手出しすることは難しいはずだ」
覚悟を、決めなければ。私は柊にもたれ掛かったまま、軽く深呼吸をする。いざ言葉にするとなると、自分が怜にしてきたことをより意識しなければならなくなるが、今更目を背けることは許されない。
話すならば今しかない。折角、柊が機会を与えてくれたのだ。私は意を決して、口を開いた。
「シアンの……今回の誘拐事件の主犯の傍に、アザレアと呼ばれる少女がいたんだ。そいつは『影』なのに純粋無垢で、人質の手当てをしちゃうような馬鹿で……それでいて、信者から崇拝されるような立場にある人間だった」
「それは……初耳だな。空からも水野さんからも聞いていない」
あの二人のことだ。私に気を使ってくれたのだろう。それにあの二人に語らせるには、怜の話題は少々重すぎる。
「そうだろうな……。なにせ、アザレアは私の双子の姉妹なんだから」
今度は緊張で脈が早まる。思わずぎゅっと目を閉じた。柊は言葉を失っているのか、沈黙を守り続けている。
「僅かだが、思い出したんだ。アザレアの本当の名前は、怜といって……本当に私とそっくりだった。まるで鏡を見ているような心地だったよ。雰囲気はまるで違うが、双子だということを信じるには充分なほど、私たちはよく似ていた」
今も、鮮明に蘇る。無邪気な怜の笑顔、最期に見た大人びた表情。思わず柊にしがみ付くように、彼の背中に回した腕の力を強めた。
「……私が何も忘れられないように、怜は『人の痛みを分かち合う』ことが出来るんだ。怜はずっと、私の痛みを引き受けてくれていた。シアンの仕打ちに耐えられたのも、きっと怜のおかげだろう。もしかすると……怜は、今も……」
考えるだけでぞっとする。私が眠っていた3日間、治療に伴う痛みに怜が耐えていたとしたら。シアンに飲まされた薬物が、痛覚を過敏にするようなものならば尚更酷い。
「怜は……私の代わりに、シアンに撃たれたんだ。私の、目の前で」
再びじわりと涙が滲む。今にも吐きそうなほど、気分が悪かった。思い出したくもないのに、何度も何度もあの光景が蘇る。
「怜が……怜が、死んでしまったら、私は……」
合崎の終末予想がどこかで歪んでいたら? 私が生き延びてしまったことで、怜の命を縮めるような結果になっていたとしたら?
怖かった。ただもう一度、怜に会って話がしたい。いや、本当はもう一度だけなんて嫌だった。どうして私は、怜と共に生きられなかったのだろう。涙が頬を伝っていった。
柊は未だ沈黙を守り続けている。俄かには信じ難い話なのかもしれない。こんな皮肉な巡り合わせが、世の中に存在するなんて私も思ってもみなかったのだから。
不意に、柊は頬を寄せるように更に私を引き寄せた。いつにない距離の近さに、涙を流しながらも少し緊張してしまう。
「――……つらかったね、憐。今は、泣いていいよ」
不安定な私の心に、柊の言葉は優しすぎた。その声に安心して、余計に涙が零れ落ちる。
「話してくれてありがとう。……この話は、もう誰にもしちゃ駄目だ。このことを知っているのは、僕らの他には空と水野さんだけか?」
私は無言で頷いてみせる。
「じゃあ、当分このことは僕ら四人だけの秘密だ。僕から二人には言っておく」
それが最善策だろう。怜が指名手配犯にされるよりは余程マシだ。
「苦しくなったら、いつでも話を聞くよ。憐は何も遠慮することは無いんだ」
その言葉に嘘はなかった。きっと柊なら、たとえ院長と会う約束をしていたとしても、私を優先してくれるだろう。相変わらず、過保護で優しい教育係だ。
「だから今は、治すことに専念するんだ。何も心配いらないから」
そう言って柊はそっと私の頭を撫でる。その仕草一つ一つに妙に緊張してしまうが、純粋に柊の優しさが嬉しかった。涙を拭いながらも、口元が緩んでしまう。
「……ありがとう、柊」
胸の奥に広がる温かい感情の正体は分からないが、今はただ柊にもたれ掛かっていよう。彼の肩に顔をうずめながら、私は軽く目を閉じた。今はただ、この守られた空間で息をしていればいい。いつか、決着のときが来るまでは。




