第97話
突如現れたその人物を前に、何とか体を起こそうとするも、まだ自由の利かない手足では断念せざるを得なかった。
「そのままでいい」
入室してきたその人、即ち帝国における事実上の最高権力者である院長は淡々と落ち着いた声で告げる。たったその一言でさえ、威厳に満ちているようだった。院長といい、塔長といい、唐突にこんな小娘の病室に足を運ぶような身分ではないというのに。
上手く動かない手で敬礼を取るわけにもいかず、軽く視線を伏せて神妙にしてみる。だが、院長はそんなことは微塵も気にしていないようだった。
「経過は?」
院長は隣に立つ塔長に尋ねていた。二人揃うと一層洗練された雰囲気と鋭さが際立つようだ。
「今のところ問題はない。全治まで一か月くらいだと思う」
「一か月? 長いくらいだな」
院長は怪訝そうに言う。確かに「白」の技術を持ってすれば、大抵の傷は2週間程度で治ってしまうことが多い。それと比べれば一か月という期間は長い気がした。
「仕方ないだろう。生傷のまま、何日放置されたと思っている。それに……一条に訊こうと思っていたんだが、自決する薬物以外に何か飲んだか?」
塔長に問われ、思い当たるところがあるとすれば、シアンに飲まされたあの錠剤くらいだろうか。
「誘拐犯に、よくわからない錠剤は飲まされました」
「……じゃあ、『影』のオリジナルなのかもな。血液検査で色々と異常があったんだよ。治癒力が極端に下がっていて、痛覚を過敏にするような成分が含まれていた。……水野千翔のあの注射が、あと数分でも遅れていたらどうなっていたか分からない」
厄介な薬物を飲まされたものだ。軽く溜息をつき、腕に巻かれた包帯をなぞる。
「その薬物の影響もあって、一条の回復はいつもよりずっと遅いだろう。不便だろうが、どうしようもないんだ」
塔長は気の毒そうに私を見ていたが、今更それを嘆くつもりもなかった。死を覚悟していたのだ。回復に一か月かかると言われたところで、特別驚きもしない。それに、あれだけ緊張状態を強いられてきたのだから、一か月くらいゆっくり休むのも悪くない。
「――悪かったな」
ふと、院長が私を見つめてぽつりと呟いた。あまりにも予想外のその言葉に、頭がついていかない。
「自決命令の最終決定権は、俺にあったからな……。救える命を見捨てるところだった」
院長はそのまま視線を柊に移し、謝罪する。
「お前にも、酷なことをした。自決命令を下すのは辛かっただろう」
普段冷淡な印象しかない院長の言葉には、確かに慈しみがあった。流石、帝国の主は違う。ただ冷酷なだけでは人は操れない。彼からは、学ぶところが沢山ありそうだった。
「忘れるなよ、一条。君は帝国の未来を担う者だ。君は帝国軍に不可欠な人間だ。決して悲観するな。自決命令を出したのは、我々にとっても苦渋の決断だったのだから」
院長にそんな言葉をかけてもらえるとは思ってもみなかった。仮に求められているのが私の能力だけだったとしても、帝国に必要とされているのならばありがたい。帝国に帰ってきて、良かったと改めて思う。
「……身に余るお言葉、恐縮です」
そう呟いて見上げた院長の表情は、柔らかかった。公の場では絶対に見られないような代物だ。
「それにしても、主犯のシアンとかいうやつ……相当強いんだなあ。一条を捕らえ、合崎を負傷させるなんて」
塔長は私の電子カルテが表示された半透明のディスプレイをしまいながら、溜息を零す。「白」にとっては確かにシアンは悩ましい存在だろう。
「ただ強いだけではありません。心理作戦も巧みで、絶対的な支配力があって……何より猟奇的で」
思い出すだけでぞっとする。シアンの無駄に端整な顔立ちに浮かんだ嘲笑が、頭の中から消えてくれない。
「そう、ちょうど合崎と柊と院長を足してそこに猟奇性を加えたような人物でして……」
「うわあ……それは化け物だな」
塔長はあからさまに引いたようだった。すぐ隣には例えに引き出された自分の夫がいるというのに、気にする様子はない。
「……まあ、何はともあれ思ったより元気そうで安心したよ、一条。ゆっくり治すといい」
塔長は微笑みと共にそう告げると、ベッドサイドの椅子から立ち上がり、軽く伸びをした。一つにまとめた長い黒髪が揺れる。
「美空、後で一条と合崎のカルテを幹部会に送っておいてくれ」
「はいはい、やっときますよー。院長様」
院長は私と柊を一瞥すると、小さく微笑んで私たちに背を向け病室を出ていった。忙しい身の上なのに、無理して様子を見に来てくれたのかもしれない。
それにしても、院長が塔長のことを名前で呼ぶのは不思議な感覚だ。夫婦だから当然なのかもしれないが、どうしても意外に思えてしまう。
「塔長のお名前……美空さんっていうんですね」
以前、「白」の幹部会のリストを確認したことがあるので、知識としては知っていたが意識したのはこれが初めてだ。
「そうだな。……まあ、あまり呼ばれないけど」
「でも素敵な響きですね」
美空。そう呼ばれて育ったであろう彼女の少女時代を思うと、何だか親しみを覚えた。
「それに、合崎の名前とも少し似ています」
「空」の付く名前が無条件に親しいものに思えるのは、間違いなく合崎のせいだろう。自分でも意識しないうちに、その感覚が身についている。
すると、塔長は私の言葉をどこかおかしそうにくすくすと笑った。綺麗な黒髪の束が、白衣の肩から滑り落ちる。
「そりゃそうだ。合崎の名は、私がつけたんだからな」
「――――……え?」
すぐには、その言葉の意味を飲み込めなかった。塔長が合崎の名付け親だというのか。
思わず柊を見つめ、視線で訴える。彼は困ったような表情を見せたが、観念したのか溜息交じりに教えてくれた。
「……空は塔長が見つけたんだよ。合崎っていうのも、塔長の旧姓だ」
ここに来て驚愕の事実だ。合崎と塔長にそんな繋がりがあったなんて。
塔長は私のベッドに軽く腰かけると、半身だけこちらを振り向いて語り始めた。
「まあ、それも全部、私が病棟の医師として勤務していた頃の話だがな。あの頃、割と大規模なテロが頻発していて……私も現場に駆り出されることが少なくなかった。合崎を見つけたときも、私は現場で負傷者の治療に当たっていたんだ」
まだ、塔長という身分を得る以前の話なのだろう。彼女にも、テロ現場に派遣されるほど身軽に動けた時代があったとは思わなかった。
「……そこで、見つけちゃったんだよなあ、がれきの下敷きになった小さな少年を。可哀想に思ってすぐさま救命したが……。今思えば、それは私の人生最大の過ちだったのかもしれないな」
「……どうしてですか? 命を、救ってくれたのでしょう」
塔長はどこか自嘲気味な笑みを見せた。ああ、彼女もこういう風に笑う人なのだな、と、どこか仲間意識のような感覚を覚える。
「医師としては、当然の務めを果たしたんだろうが……。でも、私があのとき命を救わなければ、あいつはこんなにも苦しむことはなかったんだ」
その切実な言葉に、思わず息を呑む。塔長の深い黒色の瞳が悲し気に揺れた。
「見つけない方が、良かったんだろう。私に見つけられてしまったから、あいつはこんなにも重い運命を背負う羽目になった。……死ぬよりもずっと苦しい一か月間に耐えて、屈折し歪んでいく想いを嘆いて自嘲して……。今でも幻覚を見る度、殺してくれと叫ぶあいつに、実は私が命を救いました、だなんて言ったらどうなると思う? ……私は、あいつにこれ以上負の感情を背負ってほしくない」
塔長は長い睫毛を伏せて、小さく溜息をついた。病室を静寂が支配する。
塔長は優しい人だ。表面には出さないだけで、きっとたくさんの人を大切に想っている。私たちの予想以上に思いやり深い人なのだろう。
思わず、ふっと笑みが零れた。塔長の視線が私に注がれる。
「ありがとうございます、塔長」
自然と口から言葉が紡ぎだされる。
「私を、空兄様に会わせてくれて」
塔長は意外そうに私をじっと見つめた。だが、自分でも不思議なくらい、感謝の気持ちで一杯になる。
「きっと……空兄様だってわかってくれます。いつかあなたに感謝する日が来ます。だから、大丈夫です。塔長が負い目なんて感じる必要はありません」
数秒間の沈黙。その後に、塔長はひどく優し気な笑みを見せた。
「……そうか。あいつが聞いたら喜びそうだな。……合崎のこと、頼むぞ。私が恨まれないように、あいつを幸せにしてやってくれ」
私に出来ることならば何でもしよう。彼に「幸せだ」と思ってもらえるほどの力が私にあるとは思えないが、せめて生きる手助けができたのなら、それは私にとっても幸いなのだから。




