第95話
蘇る記憶は切り替わり、今度は「白」の内部が映し出された。柊という教育係がついて間もない頃、「実験」の一か月からまだほんの数日しかたっていない時期だ。私は完全に回復したとは言い難い体で、二つに結った亜麻色の髪を揺らして歩く。広い廊下には、白衣の研究者たちが時折通りかかる程度で、無機質な電子音が静かに響いていた。
そんな中、私の前の方から愁いを帯びた表情の少年が歩いてくる。それは他でもない、まだ幼い合崎の姿だった。この時の私は、「実験」が終わって以来、合崎と一度も言葉を交わしたことがなかった。ただ、憎しみのような激しい感情の滲んだ視線を向けられたときに、私はもう彼に嫌われてしまったのだと悟ったのだ。そのまま、こちらから話しかけられずにいる日々が続いていた。
その現実を受け入れたつもりでいたが、幼い私はそれでもまだ救いを求めていた。もう一度、合崎と笑い合える日が来るのではないかと、これは一時的なすれ違いに過ぎないのではないかと期待していたのだ。
だが、合崎はそんな私の期待に気づくこともなく、無言で私の横を通り過ぎようとする。その瞬間、彼の左手が赤く染まっているのを見てしまった。
「っ空兄様、手……」
思わず、反射的に声をかけてしまう。合崎はそんな私に構わず立ち去ろうとするが、私は深い考えもなしに彼を追いかけ、その手を掴んだ。
「それ、どうしたの……? 訓練で怪我したの……?」
精神状態はともかくとして、身体的な面では私よりずっと回復の早かった合崎は、一足早く「次期軍師」としての訓練を開始していた。学院に入学する前準備として行われていたものだが、この頃から合崎の腕は評判だったことをよく覚えている。
「……だったらなんだ」
感情を感じさせない声で、合崎は告げる。私は軽く怯みながらも、彼の手を離すことなく続けた。
「そのままじゃ駄目だよ。今、包帯を――」
「離せよ」
合崎は本当に嫌そうに、私の手を振りほどいた。ずきり、と胸が痛む。それでも私は、彼の傷を放ってはおけなかった。これ以上、彼に痛みを我慢してほしくなかったのだ。
「でも、空兄様――」
その瞬間、合崎が殺意さえも感じさせるような目で私を睨むと、そのまま勢いよく私を壁へ追い込んだ。彼の冷たい手が、迷いもなく幼い私の首元に伸びる。あまりの衝撃に、ただ目を見開くことしか出来ない。何も言えなかった。彼が、何をしようとしているのか全く理解できなかった。
「いつまでその名前で呼ぶ気だ? まだ、『兄』を演じろっていうのか?」
冷え切った鋭い言葉が降り注ぐ。私はそれでも救いを求めていた。
「空兄様は私の兄様だもん……。これから先も、ずっと」
懸命な私のその言葉を、合崎はくすくすと嘲笑った。そんな笑い方をする「空兄様」を私は知らない。一か月ぶりに見た彼の笑顔に、もう昔の優しさは無かった。
「……わからないなら、教えてやるよ」
その言葉と共に、首に添えられた合崎の手に力がこもる。その唐突な行動に、一瞬、何をされているのか分からなかった。
「――――その声も、手も、温度も鼓動も何もかも全部……消えてしまえばよかったんだ。跡形もなく、最初から何も無かったように、無くなってしまえばいい」
そんな残酷な言葉を紡ぎながら、彼は笑っていた。私は「空兄様」のどんな笑顔でも大好きだったのに、初めて恐怖の念を抱いた。
違う、違う。私の見たかった笑顔はこれじゃない。そうしている間にも首元には力が籠められ、耳鳴りと圧迫感に思わず涙目になる。けれども合崎は、そんな私を見ても尚、手を止めることは無かった。
「『空兄様』はもう死んだ。こんなに弱い君もいっそ、死んでしまえばいいんだ」
あまりの苦しさに、何とか合崎の手を外そうともがくも、到底敵わなかった。分からない、判らなかった。彼が何を言っているのか、これが何を意味しているのか。
「っ――憐っ!? 空!?」
柊の酷く慌てた声が響く。合崎はその声を聞くなり軽く溜息をつき、冷え切った目で私を見下ろした。
眩む視界の中、柊は咄嗟に合崎の手を振りほどき、私を抱きしめる。柊の腕の中にいても、殺意に満ちた合崎の目が私を見つめているのが分かった。
「憐に……憐に何をしているんだ!? 空!」
柊がこれほど感情的になるのを見たのは、これが最初で最後かもしれない。まだ出会って間もないというのに、柊は私のことを必死に守ろうとしてくれていた。
「――……どうだっていいだろ」
ぽつりとそう呟いて、合崎が私の隣を通り過ぎていく。その後ろ姿がこちらを振り返ることは一度も無かった。
「あいつ……」
柊はどこか悔し気に合崎の後姿を見届けると、一変してひどく心配そうに私の顔を覗き込んだ。合崎に絞められていた首元をそっと撫でてくれる。
「……苦しかっただろう、憐。すぐに来られなくてごめん」
懺悔するように首を垂れる柊にも、私はもう何も言えなかった。
彼が、大好きな空兄様が、私を殺そうとした。柊が来てくれなかったら、どうなっていたかわからない。あのまま死んでいてもおかしくなかった。それほどに、合崎の目は本気だったのだ。
絶望と、黒い感情が思い出を塗りつぶしていく。もういない。いなくなってしまった。私の大好きな空兄様は、あの「実験」の日々の中で死んでしまった。
思わず、自嘲気味に笑ってしまう。私は、何を期待していたのだろう。「空兄様」なんてもう、どこにもいやしないのに。
「空兄様」の手で首を絞められたあの瞬間、「憐」は確かに死んだのだろう。彼の望み通り、無様に死んでしまった。
もういい、もういいんだ。想いなんてものは、もういらない。彼がいなくたって、私は一人で歩いて行ける。一人ぼっちで、生きていかなければならないのだ。
「――私は、平気だ」
敢えて無愛想な口調で、柊から離れる。ひどく沈んだ声音は「一条」の自我の目覚めを表していた。柊は動揺を隠しきれていないようだった。
「憐……?」
戸惑うようにもう一度こちらへ伸ばされた柊の手を、私は拒絶した。
「……もう、庇ってくれなくていい」
いっそあのまま殺されてしまえば、こんな黒い感情は知らずに済んだのに。私なんてもう、誰にも愛されていないのだから。死んでしまっても、何も問題はないのだ。
私は俯いたまま、柊に背を向け歩き出す。
本当は最初から、誰にも愛されてなどいなかったのだろう。そんなことに今更気が付くなんて、やっぱり私は救いようのない馬鹿だ。
再び自嘲気味な笑みが零れ落ちる。胸に抱えた黒い感情に、命までもが蝕まれそうだった。息が詰まって、苦しくて仕方がない。
あれ、涙ってどうやって流すんだっけな。




