第94話
遠い昔の夢を見ていた。ひどく、「懐かしい」光景が広がっている。
幼い私は柔らかな絨毯の上に座り込んでいた。頭上には、「白」では見かけないようなアンティーク調の照明が輝いている。幼い私の前には綺麗にラッピングが施されたチョコレートの箱、そしてすぐ隣には無邪気に笑う怜の姿があった。
私はまだ小さな手でチョコレートの一つに手を伸ばす。既にいくつか食べ終わった後のようで、整然と並べられたチョコレートの列には空席が出来ていた。
「だめだよ、れん。3つまでだよ」
怜が穏やかに制するも、幼い私はその忠告を聞き入れることもなくチョコレートを掴む。
「だって……たべたいんだもん! いいでしょ」
そのままの勢いで、私はチョコレートを口の中へ放り込む。怜は少し驚いたように目を見開いていた。
「だめなんだよ、れん。食べすぎはよくないっていわれてるのに」
少し気弱に聞こえるほど落ち着いた物腰で幼い怜は言う。私はそんな怜をしばし見つめ、再びチョコレートの箱に手を伸ばし、ホワイトチョコレートで細工が施されたものを手に取った。
「れん? もうだめだよ!」
年齢に似合わぬ自制心を持った怜を目に、私はニッと笑ってみせる。そうして指先で摘まんだチョコレートを、躊躇いもなく怜の口の中へ入れた。怜は口を押さえてひどく驚いたように私を見つめる。
「これでれいも、きょーはんだよ! お母さんにはないしょにしようね」
にやりと笑う私を見つめ、やがて怜もくすくすと笑い出す。母の言いつけを守らないというのは、幼い私たちにとってはスリル満点の出来事で、独特の楽しさがあった。
「へえ、憐、『共犯』なんて言葉、どこで覚えたのかな?」
不意に頭に手を乗せられ、私はびくりと肩を揺らして振り返る。そこには、第二帝国学院の制服を着た、利発そうな少年がいた。幼い私は大げさに首を横に振る。
「な、なんでもないよ。きょーはん、なんてしらないよ」
「それで、どうして今日開けたはずのチョコレートの箱に、8つも空きがあるのかな?」
幼い私も怜も少年の言葉を上手く理解できず、同じようなタイミングで首を傾げた。少年はその姿に苦笑いしながら、私たちの口元に手を伸ばす。
「二人とも、口についてる。……約束破って4つ食べたね?」
「ご、ごめんなさい……」
先に口を割ったのは怜だった。どうやら隠し事が出来ない性格らしい。対して私は、そう簡単には折れなかった。
「れーん?」
少年は白状しない私を咎めるように顔を見合わせる。その顔立ちは、はっとするほど整っており、その綺麗な目に見つめられた私はしゅんと肩を落とす。
「ごめんなさい……」
少年はその言葉を聞くと、優し気に笑い私と怜の頭を撫でた。その仕草から、私たちがとても大切にされていることが伝わってくる。
「明日からは、ちゃんと守れるね?」
「まもれるよ」
「……じゃあ、先生たちには内緒にしておいてあげよう」
その言葉に私も怜も表情を明るくした。
「やったあ! お兄ちゃん、だいすき!」
怜は可愛らしくそう告げると、少年は締まりのない顔をして何度も怜の頭を撫でる。私たちは相当溺愛されているようだ。
「リビングで春花さんがお茶を用意してくれているよ。一緒に行こう」
私ははしゃぐようにして、少年の背中に飛びつく。まだ、十代前半に見える少年の背中は、幼い私が抱きつくにはちょうど良い大きさだった。
「リビングまでおんぶしてー!」
幼い私は甘えるように少年の首に腕を回す。すぐに、その腕に少年の手が触れ、軽く握ってくれた。
「しょうがないな、結構疲れるんだよ?」
少年は言葉ではそう言いながらも、その口元には幸せそうな笑みを浮かべている。満更でもない様子だ。
ふと、少年の肩越しに羨ましそうにこちらを見つめる怜と目が合った。私は軽く左側にずれると、少年の顔を覗き込んで笑う。
「れんだけじゃなくて、れいもおんぶしてね!」
「えっ……?」
「ほら、れい、はやくはやく!」
怜は私の呼びかけに応じて、早速こちらへ駆け寄ってきた。そのまま私が開けた少年の背中の右側にしがみ付く。
「しゅっぱつしんこー!」
「ふ、二人とも、ちょっと兄使いが荒くないかな……?」
「はやく、レモンティーのみたいなあ」
何の他意もない怜の純粋な呟きが、少年を黙らせた。観念したような様子で、少年は後ろ手に私たちを支える。
「……ちゃんとつかまってるんだよ」
「はーい!」
時折ふらつきながら、かなりゆったりとしたペースで少年は私たちを背負ったままリビングへと足を踏み入れる。レモンティーと甘い焼き菓子の匂いが立ち込めていた。
「二人とも、あんまり動くと危ないから……」
はしゃぐ私たちとは裏腹に、少年は今にも私たちが落ちやしないかと何度も後ろを確認していた。切実な少年の呟きは、私たちには届かずに床に落ちていく。
「あらあら、二人ともお兄ちゃんにおんぶしてもらったの?」
くすくすと笑いながら、長い亜麻色の髪をゆるく一つにまとめた女性が車椅子に乗ってこちらへ近づいてくる。その優し気で穏やかな雰囲気は、現在の怜の姿とよく似ていた。
「そうだよ!」
「たのしいの!」
私たちは少年の疲労など露知らず、きゃっきゃと笑いながらはしゃいで見せた。そのせいか、少年が僅かにバランスを崩した。
その瞬間、少年の背中からすべり落ちそうになった怜を、横から大きな手が抱き上げた。
「危ない危ない。二人とも、お兄ちゃんはお父さんほど力がないんだから、あまり無理を言っちゃ駄目だぞ」
そう言って軽々と怜を抱き上げた男性は、快活に笑ってみせる。予想外な人物の登場に、私も怜も目を輝かせた。
「お帰り! お父さん!」
父と呼ばれたその人は、見慣れた帝国軍の制服を身に纏っていたが、威圧感のようなものはなく、幼い私たちの目にはただ憧れの姿として映っていた。
少年は、私をそっと床に降ろすと男性を見上げて頬を緩ませる。
「今日はお早いお帰りですね」
「今日の案件は随分簡単に片付いたんだよ」
朗らかな笑みを見せながら、男性は車椅子の女性の方へ近づいていく。
「ちょうどおやつの時間かな? いい香りだね」
「今淹れたばかりなの。皆でお茶にしましょう?」
白いテーブルクロスが敷かれたテーブルの上には、既に四人分のティーカップが並べられていた。男性は怜を席に座らせると、食器棚からもう一つティーカップを取り出し、紅茶を注いでいく。
少年は私を抱き上げ、自分の席の隣に座らせると、私と怜のティーカップに角砂糖を入れてくれていた。面倒見のいい兄のようだ。
「平日の午後にティーパーティーっていうのも、悪くないな」
全員が席についたのを確認して、男性はにっこりと笑う。心から安らいでいる表情だった。
「お父さんとお兄ちゃんが毎日おうちにいたら、いつでもできるのに!」
怜はふっくらと焼かれたマフィンを飲み込みながら、無邪気に言い放った。男性は例の口元についたマフィンの欠片を拭いながら、再び微笑む。
「そうだな。みんなずっと一緒がいいな」
「じゃあ、ずっとおうちにいてくれる?」
「でもなあ、お父さんは帝国を守らなくちゃいけないんだよ」
「そうよ、二人とも。あんまりお父さんを困らせちゃ駄目でしょう」
亜麻色の髪をふわりと揺らして、女性は穏やかに私たちを宥める。一つ一つの所作が優雅な人だった。
「むー」
幼い私は足をぶらぶらとさせながら、不満気に口を噤んだ。そんな私の頭を、少年の手が優しく撫でる。
「……今度のお休みのときには、街までお出かけしようか?」
苦笑いをしながら、男性は不貞腐れる私にそっと提案する。幼い私はすぐにその魅力的な餌にすぐに食いついた。
「する! ぜったいする!」
「じゃあ、決まりだな」
絵にかいたような幸せの中で、私は満面の笑みを浮かべた。どこまでも温かく、懐かしい、私の失われた記憶の一ページだった。




