第91話
「……っ」
痛みに耐えるような合崎の声に一層不安が募る。目の前でこんなにも苦しんでいるのに、私は何もできないのか。合崎はこんなに苦しんでいてもなお、私から手を離そうとはしないのに。
「合崎……私は大丈夫だから、座れよ」
合崎はただ苦しそうに呼吸を繰り返していた。傷が深いのだろうか。
「合崎……頼むから、もう――」
言葉の途中で、不意に合崎の手に口を塞がれ、壁に押し付けられた。そのまま彼は私の耳元に顔を寄せて囁く。
「今から十秒間、息を止めろ」
それは有無を言わせぬ口調だった。訳も分からぬまま、言われた通り呼吸を止める。やがて、回廊には呼吸の音さえ響かない静寂が訪れた。そんな中で、合崎が何かから庇うようにぎゅっと私を抱きしめる。
すぐに、私はその合崎の不可解な行動の意味を理解することになった。
合崎の背後、先ほどまで私たちがいたであろう空間に、何かがいる。見えなくても、気配で分かった。これが合崎の言っていた巡回型の警備用人工知能だろうか。
そう思うと、急に緊張してしまう。この状態で撃たれようものなら、私も合崎もここで終わりだ。十秒が途方もなく長く感じられる。呼吸の音で気付かれるくらいならば、少しでも物音を立てれば撃たれてしまうのだろう。
ぎゅっと目を瞑って、心の中で必死に祈った。頼むから、気づかないで。このままここからいなくなって。まだ死ねないんだ。合崎が、無事に帝国へ戻る姿を見届けるまでは。
まるで何時間も経ったような感覚だ。息が苦しい。普段ならば十秒程度息を止めるなんて造作もないことのはずなのだが、体が弱っているとどうにも辛い。今にも意識が薄れそうだ。
そう思っているうちに、私の口を押えていた合崎の手が離れた。
「もう大丈夫だ」
その言葉にほっと息を吐いて、少しだけ安心した。良かった。合崎のおかげで何とか乗り切れた。
「ありがとう」
眩む意識の中、合崎がいるであろう方向を見上げて呟いた。数秒の沈黙が訪れる。
「……礼を言うには、まだ早い」
言葉の合間に聞こえてくる苦し気な息の音が痛々しい。そのたびに罪悪感が胸を締め付ける。
「あの……合崎……」
私に残されている時間は殆どない。私は謝らなければならないのに。彼がこんなにも傷ついてまで守ってくれているこの命を、私は自ら絶ったのだと言わなければならないのに。
「――どうした?」
「空兄様」に限りなく近い、優しい声。言えない。「空兄様」を傷つけたくない。
私は、自分勝手な人間だ。自分の行動が、大切な人の心に傷をつける可能性など、考えてもみなかった。
その瞬間、ぐらりと脳内が揺れるような気持ち悪さが襲う。抗う術もなく、ふらりと私の体は傾いた。
「っ……憐!?」
合崎の手に受け止められた感覚がある。だが、それももう確かなものではなかった。全ての感覚が薄れていく。
ただ一つ、痛覚だけを除いて。
「っ……!!」
なぜだろう。鎮痛剤を飲んだのに、痛覚ばかりが明瞭になっていく。今までに受けた全身の傷が、耐えがたいほどに痛んだ。思わず合崎にしがみ付く。
「憐……? どうしたんだ……?」
不安げな合崎の声に答えられない。涙が滲んだ。どうして、今更になってこんなにも苦しいのだろう。停止しそうな思考の中で必死に考えを巡らせる。
まさか、怜の身に何かあったのでは。
そう考えると辻褄が合う。彼女が引き受けてくれていた分の私の痛みが、私に戻ってきたのだとしたら。
「怜――……」
いなくなっちゃ、駄目だ。目頭が熱くなる。私は必死に合崎に訴えた。
「どうしよう……空兄様。怜が……怜が……」
記憶の中で鮮やかによみがえる彼女の笑顔。痛みの数だけ、彼女がくれた優しさに気づく。
失いたくない。たった一人の、私の片割れ。
合崎は、混乱する私を静かに抱きしめた。その優しさすらも、今の私には痛い。
「大丈夫」
落ち着いた声が、耳元で響く。大好きな「空兄様」の声だ。
「あの子の終末は……まだずっと先だよ」
私をなだめるような口調で、彼は告げた。
そうか、あの一瞬で合崎は怜の終末を確認していたのか。彼が言うのなら、間違いはないのだろう。怜の命の保証がされただけでも、気が楽になった。
不意に、合崎に再び抱き上げられる。そうしてそのまま彼は歩き出しているようだった。こればかりは見過ごせない。もうこれ以上、彼を苦しませるわけにはいかない。
「無茶だ……合崎。私は、大丈夫だから……」
痛む胸を押さえながら、合崎を説得する。普段くらいの体力があれば、上手いこと床に降りられそうだが、今の私にはそれが出来ない。言葉で頼むことしかないのだ。
「頼むから……もう、降ろして……。無茶だよ」
合崎の呼吸はかなり乱れていた。相当苦しいだろうに、それでも彼は足を休めない。先ほどよりの少しだけふらつきながら、暗闇を進んでいく。
「合崎っ……!」
私は思わず、彼の制服を掴んで訴えた。もう充分だ。嫌われてもいい。真実を話さなければ。
「合崎……聞いてくれ」
そう言った瞬間、合崎が大きく揺らいだ。どうやら床に崩れ落ちてしまったらしい。それにも関わらず、合崎は私を片手で支え、もう片方の手をどこかについて自分の体を支えているようだった。
「っ……」
合崎の悲痛な声。嫌な予感しかしない。涙が溢れそうになるのを堪えて、ただただ彼の名前を呼んだ。
「合崎……合崎っ。どこが痛むんだ? しっかりしろ!」
全部、全部私のせいだ。私が怖がって言い出せなかったから、彼にこんな傷を負わせてしまった。分かっていたはずじゃないか。私では彼を導けない、救うことなどできないのだと。
それでもなお、立ち上がろうと合崎は試みているようだった。もう嫌だ、やめてくれ。頼むからもう――。
「――もう、傷ついちゃ嫌だよ。空兄様っ!」
私は自然と合崎に抱きついていた。気が付いた時にはそうしていた。昔の習慣というものは恐ろしい。
「――……駄目だ、早く、帰らないと」
合崎は私を引き寄せながら、苦し気な声で告げる。
「早くしないと……憐は死んでしまうだろ」
その一言で、脳内が真っ白になる。どうして、そんなことを言うのだ。まるでずっと、気づいていたみたいじゃないか。
気づいて、いたのか。
指先が小刻みに揺れる。彼に自決を悟られていた衝撃と寒気に、私はただただ震えることしか出来なかった。




