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スノードームを殺してくれ  作者: 染井由乃
第2章 千を翔ける憐れみ

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第90話

 怜。


 そう、それはずっと、()()()()()双子の姉の名だった。


 私は霞む意識の中でぼんやりと考える。


 私が「家族」と共に過ごしたのは、本当に幼い頃だけで、今のようにすべての出来事を記憶しているわけではないようだった。一秒の欠落もない記憶力と謳われても、流石に物心がつく前は例外らしい。


 ゆったりとした白いワンピースを纏い、車椅子の上で少女のように可憐に微笑む女性。その横で笑顔を見せる帝国軍将校らしき若い男性。第二帝国学院の制服を着た、利発そうな少年。


 そして、隣で笑う白い少女。


 私が知らなかった家族だ。「懐かしさ」という慣れない感情に胸が締め付けられる。怜以外はもう、この世の人ではないのだということが、どれだけ寂しいことなのか、今更になってようやくわかった気がする。


 でも、大丈夫。きっと、私ももうすぐ彼らの仲間入りだ。








「――……憐、憐っ!?」

 

 すぐ傍で、私の名を必死に呼びかける合崎の声が聞こえた。現実に引き戻されるように、少しだけ意識がはっきりとする。悲痛そうな合崎の目が、私を見つめていた。私と目が合えば、僅かにほっとした様子で息をつく。


「……空、兄様」


 言葉が上手く紡ぎだせない。合崎の手は僅かに震えている。


 無茶だ。銃弾を受けた体で、私を運ぼうとするなんて。


「憐、これから……ここを出るぞ。暗くなるが、心配するな。絶対に、連れて帰る」

 

 平静を装っているが、苦し気な呼吸は誤魔化せていない。思わず合崎の制服を掴むも、余りに弱々しいこの力では、触れているという表現の方が近いかもしれない。


「駄目だ、合崎、そんな体で……」


 囁くような声しか、もう出すことは出来なかった。もどかしさに目頭が熱くなる。あとほんの少しで死んでしまう私の体なんて、ここに捨て置いて行ってくれ。負傷している合崎が、苦痛に耐えてまで運ぶ価値が私に残されているとは思えなかった。

 

 でも、それをどう伝えればいいのだろう。傷を負ってまで私を助けてくれようとするこの人に、「実はもう自決する薬を飲んでいるので手遅れです」なんて、言えるわけもない。


「このくらい、覚悟の上で来たんだ……。今更、諦められるかよ」


 そう言って合崎は非常ドアを破るように開け放つ。すっと冷気が漂ってきた。ドアの先は、彼の言う通り真っ暗闇だ。それでも彼は躊躇うこともなく、足を踏み出していく。


 この冷気から察するに、恐らく空調設備が行き届いていないのだろう。空気さえも、安全なものかどうか疑わしかった。もしも、スノードームの外の空気が流入しているのならば、どれだけ長くてもこの場所には一時間しかいられない。そのタイムリミットは、この暗闇の中では絶望的なものに思えた。


 でも、合崎は違う。目で見て進んでいるわけではない。恐らくは侵入するときに確認したのであろう「終末」を頼りに進んでいるのだから。


 1メートル先すらも、私には見えなかった。生まれて初めて見る本当の暗闇に、少しだけ怯んでしまう。目を開いているのに何も見えないだなんて、妙な感覚だ。


 今、私が頼れるのは合崎しかいない。「一人で歩ける」だなんて、強がっても言えないような状況になってしまった。


 回廊とでもいうべき通路は、本当に静まり返っていて、この場所こそが死の世界のようだった。事実、その表現も全く的外れということもないのだろう。信者たちが脱走しようと試みれば、この回廊で息絶えるのが目に見えていた。もっとも、仮にこの回廊を抜けきったとして、帝国で信者を待つのは尋問と処刑台ばかりなのかもしれないが。


 私も、きっとそう大差ない。ここで迷ってしまおうが、帝国に辿り着こうが、待って居るのは死だ。肩が震えているのは寒いからだけではない。一秒ごとに近づく「終末」に、きっと怯えているからだ。私を包むこの温もりを失うのが、どうしようもなく怖いからだ。


 次に訪れる暗闇では、私は一人ぼっちなのだろう。千翔も柊も合崎もいない。何もない、そんな場所へこれから行かなければならないなんて。


 ふっと怖くなって、思わず合崎の方へ顔を寄せた。駆け抜ける合崎の息遣いは、やはり苦しそうだ。私を助けに来なければ、彼はこんなに辛い思いをしなくても済んだのに。


 すると、添えられた合崎の手に力がこもる。小さく笑う彼の声が聞こえた。


「……暗闇が怖いっていうのは、嘘じゃないらしいな」


 こんな時まで余裕ぶって、本当に、どうしようもない奴だ。私がいなくなったら、誰が相手をしてあげるのだろう。


「……別に、平気だ」


 合崎が強がるから、私も強がることしか出来ない。残された時間を思えば、伝えるべき言葉はもっと他にあるはずなのに。


「へえ……。平気なのに、憐が顔を寄せてくるなんて、何か他に意味があるのかって期待しちゃいそうだな」


 昔は、手を繋ぐことも肩を寄せることも当たり前だったのに。ただ自然に寄り添って笑い合っていたのに。いつから変わってしまったのだろう。もう、何年も一緒に本を読んでいない。孤児院にいたころは、毎晩眠る前に二人で一つの絵本を眺めては、遊ぶ約束をして、一緒に眠っていたというのに。


 もう、全部遠い世界の話だ。蘇る鮮明な記憶に、温かな感情と痛みを覚える。


「……いつからだろうな。意味がなければ、触れることもできなくなったのは」

 

 「実験」の日々が無ければ、ずっとあのままでいられたのだろうか。今も私は純粋に「憐」としてここにいられたのだろうか。合崎に会った瞬間、泣いて縋って「会いたかった」と言えるような、素直な少女になれただろうか。


 合崎の足音だけが回廊に響き渡る。乱れる呼吸に少し苦しみながら、私はふっと自嘲気味な笑みを零した。


 答えは、自分でも分かっている。たとえ「実験」の日々が無くたって、あのままという訳にはいかなかっただろう。今ほど関係は冷めなかったにせよ、繋いだ手を離す瞬間はどこかにあったはずだ。私たちの場合、それがあの「実験」の日々だったというだけで。


「……憐から、そんなことを言われるとはな」


 元に戻るには、私たちは知りすぎている。この手を繋いだ大切な人が、これから歩む暗い未来を、背負う闇を、帝国が生み出した濃く深い「影」を、もう見て見ぬ振りをすることは出来ない。手を握る度、その手で奪った命のと血の鮮やかさを思い知ることになる。


 その瞬間、ぐらりと揺れる感覚に緊張が走った。どうやら合崎が体勢を崩したらしい。苦し気な呼吸の音がすぐ傍で響く。


「あ、合崎……? どうした、大丈夫か……!?」


 何も見えない。彼の傷の状況も分からない。それがどうしようもなくもどかしくて、私はただ祈るように合崎に触れることしか出来なかった。

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