第89話
銃声は響いたはずなのに、なぜだろう。おかしいな。
どうして私、痛くないの?
「っ……」
一瞬、知らぬ間に私が呻いているのかと思ったが、違う。痛みどころか、衝撃すらもなく、ただ、覆いかぶさるように誰かに抱きしめられている感覚があった。私を守るように頭の上に乗せられたこの手を、私はよく知っている。
嫌な予感ばかりだが、恐る恐る目を開けてみる。一番初めに視界に飛び込んできたのは、私を庇うように覆い被さった合崎の姿。
その光景に、思わず言葉を失ってしまう。まさか、彼が私の代わりに銃弾を受けたとでもいうのか。
だが、それにしては合崎は平静だった。いくら彼でも、撃たれて表情を歪ませないということは無いだろう。それに合崎は、信じられないものを見るような目で、私たちのすぐ傍の床を見つめているようだった。
ゆっくりと、彼の視線を追う。すぐに、赤色が視界に飛びこんできた。
白い床に浮かんだ、小さな赤い水溜まりの中に蹲る一人の少女。青色のワンピースには大きな染みが広がり、その綺麗な亜麻色の髪にも赤が纏わりついていた。
私にそっくりなその少女は、痛みに耐えるように肩を震わせていた。脇腹の辺りを両手で押さえているが、その白い指の間からじわりと赤黒い血液が零れ落ちている。
白い部屋に永遠のような沈黙が訪れていた。
「――……アザ……レア?」
疑うようにシアンがぽつりと呟く。笑みの含まれていない、茫然とした声だ。カシャン、と銃の落ちる音がする。
アザレアは苦しそうに肩で息をしていた。鮮やかな青色だったワンピースが、見る見るうちにどす黒い染みで覆われていく。
どうして。どうして、アザレアが撃たれているのだ。分からない、判らない、全く理解できない。したくもない。
「早く……逃げて、憐……」
か細い声で、アザレアは呼吸の合間に言葉を紡ぐ。そのたびに、彼女の指の間からは赤が溢れ出していた。
「お兄さんと……早く……」
「なに……を。そんな傷で、放っておくわけには……」
「いいの」
アザレアは、儚げに笑ってみせた。
「痛いのは……慣れっこなんだ」
こんな時でも、アザレアの目は澄み切っていて、私に負の感情を一切寄越さない。どうしてそんなことが出来るのだろうか。私はアザレアを、あんなにも傷つけたのに。
「なぜ……どうして庇ったんだっ! 私は、お前の敵だぞ?」
彼女の前で、こんな俗世じみた言葉は空しく響くだけだった。アザレアはそれでもなお、どこか嬉しそうに微笑む。
「憐と……憐の大切な人を守れたのなら……私の、命も……価値がないなんてことはないよね?」
――お前らの命には、何の価値もない。
それは、アザレアに嫌われるためだけに、適当に選んだ言葉だった。私のあのレベルの低い罵詈雑言を、彼女はいちいち受け止めていたのか。
ああ、本当に自分が嫌になる。こんな形で、報いが返ってくるなんて。
「――……さあ、早く行って。シアンは、私が引き留める、から」
「なん……で……。笑えないよ……」
アザレアはふっと大人びた表情を見せた。
「当たり前だよ……。この想いは、冗談じゃないもの」
アザレアは再び儚い笑みを見せ、血にまみれたその白い手を私の方へと伸ばした。
「私……きっとずっと憐の痛みを感じていたの。……だから、信じていられたんだよ。あなたが、生きてるってこと」
私の方へ伸ばされた手が、僅かに痙攣している。彼女の大人びた表情をその白い手を見て、ドクンと心臓が脈打った気がした。まるで、フラッシュバックの前兆のような緊張が走る。
「――……今まで、大変だったね、憐。お兄さんに、幸せに、してもらうんだよ……?」
恐らくこの世で最も美しい笑みを浮かべ、少女は力なく腕を床に落とした。シアンが慌てて彼女を抱き起こす。彼がアザレアにかける言葉すら、遠く聞こえる。
次の瞬間、フラッシュバックのような現象と同時に、私の記憶の鎖が解けていった。
明るい笑顔を見せる幼い少女、あどけない声、亜麻色の瞳、優雅に微笑む車椅子の女性、白い手、帝国軍の制服、勲章、頬に落とされる優しい口付け、ほのかに香るレモンティー、悲鳴、飛び散るガラス片、乱反射する照明、舞い散る赤、煙、離れてしまった小さな手、焼け付くような痛み。
その全てが、一気に私の脳内へ流れ込んできた。ちかちかと視界が眩む。
「怜……」
ぽつりと零れるように落ちた名前。どうやら彼女には届いていないらしい。冷たい床に倒れ込んだ「アザレア」は私を抱きかかえる合崎に視線を送っていた。
「早く……憐を……連れて行って……お兄さん。憐を……よろしく、お願いします」
合崎は僅かな沈黙の後、意を決したように私を抱き上げた。手負いの状態のせいか、いつもより足取りがふらついているが、私を抱き上げるだけの体力はあったようだ。
合崎の腕の中から見下ろす彼女の姿は、今にも消えてしまいそうなほどに儚く、ふっと涙が伝った。
「嫌……一緒にいるって……言ったのに!」
彼女はシアンに抱き起されたまま、顔を上げ、私を見つめている。頼むから、そんな優しい表情で見ないでくれ。この手で、私があなたを傷つけたのに。
「嫌……嫌だよ、怜!」
どうして今更思い出すのだろう。何年も前に分かれた双子の姉のことなんて。
「怜っ……!!」
合崎は、足を止めることもなく出口を目指していた。どんどんと遠ざかる彼女の姿に、涙ばかりが零れ落ちていく。
これが、再会の結末か?
嘲笑いたいくらいのバッドエンドだ。でも、どうして笑えないのだろう。
白い部屋、飛び散った赤の中で眠る少女。
ああ、そうか、やっぱりこれも、作り話なんかじゃない。
紛れもない、現実だからなんだ。




