第88話
「合崎っ! 合崎っ!!」
私は何とかシアンの手から抜け出そうと足掻きながら、ひたすら彼の名を叫んだ。涙が次々に零れ落ちていく。
ふと、床に横たわった黒い影が、僅かに動いたのが見えた。はっきりとは分からないが、視線を感じる。私を見ているのだろうか。
「そんな体で叫んじゃ駄目だよ、憐ちゃん。傷に障るよ?」
傷つけた張本人がよく言えるものだ。合崎を傷つけられた怒りも相まって、シアンに対する嫌悪感は膨れ上がっていた。
けれどもシアンはそんな私のことを気にも止めず、くすくすと笑いながら再び合崎に銃を向ける。
「さて、憐ちゃん、『お兄さん』とお別れしようか」
合崎は何とか上体を起こそうと試みているようだったが、彼の手元に銃はない。どうやら倒れた拍子に手放してしまったらしい。
ちょっと待てよ、これで終わるのか?
十年以上も一緒に生きてきたのに、こんなところで全部お終いか?
合崎は何度も私を助けてくれたのに、私は彼を見殺しにするのか?
嫌だ、嫌だよ、空兄様がいなくなってしまうなんて。そんなこと、絶対に――。
瞬間、シアンが引き金に指をかけるのが分かる。その一瞬だけ、視界が明瞭になった。
――こんなこと、絶対に許されない。私にだって、大切な人を守れるはずだ。
「っ……!」
私は渾身の力を込めて、銃を持つシアンの右腕にしがみ付いた。その表示に暴発した銃弾が、白い床にめり込む。シアンが僅かに意外そうな表情をした。
「……驚いたな。まだ、そんな力が残っていたとはね」
シアンはさも面白そうに笑ってこちらを一瞥すると、そのまま私を床へ突き飛ばした。全身を強打し、口の中一杯に血の味が広がる。当然、起き上がることなど、もうできなかった。
不幸中の幸いとでもいうべきなのは、シアンの持つ銃が私に向けられていることだろうか。ああ、これで大丈夫だ。合崎ならば、シアンが私を殺すくらいの時間があれば十分に逃げられるはずだ。傷を負っているせいで普段より行動が鈍くなっていたとしても、私が時間を稼げばいいのだ。シアンのことだから、手短に私を殺したりしないだろう。出来るだけ苦しむ方法を選ぶはずだ。
痛みの衝撃で、視界は少しだけ明瞭になった。だが私にはもう、上体を起こすこともできない。冷たい床に頬をつけて、睨むようにシアンを見上げた。
こうしてみてみると、シアンの体にも所々血が滲んでいるようだった。かすり傷程度なのだろうが、合崎の狙撃の腕はなかなかのものだ。主に利き手と頭部だけを狙っていたらしく、銃の扱いの正確さが窺えた。
「そんなに合崎くんが大切とはね……。見せつけられちゃったなあ」
くすくすと笑っているものの、その色素の薄い瞳は酷く冷たい。そうだ、そのまま私に興味を示してくれればいい。合崎に隙を与えてくれ。
「大好きな『お兄さん』と一緒に歩める未来が確約されているなんて、さぞかし幸せな毎日だったんだろうね」
笑みの含まれたシアンの声に、「白」での日々を思い出す。
あんな閉鎖された帝国に、幸せなんてあるわけない。幸せなんて言うものには、「白」が一番遠い存在だと思っていた。劣等感と好奇の目に晒されていく未来が続いていくことを疑わなかった。
でも、と私は小さく微笑む。
千翔がいて、柊がいて、合崎がいて。この十五年間を幸せだと言い切れるかは分からないけれど、楽しかったとは言えるのかもしれない。
空兄様、あなたはどうでしたか。空兄様もきっと幸せだとは断言できないのだろうけれど、私がいた日々を温かい感情と共に思い出してくれたのなら、私にはもう、それで十分な気がするの。
シアンの指が、引き金にかけられる。覚悟を決める時が来た。
「残念だね、憐ちゃん。それも今日で全部終わりだ。そんなに早く死にたいんだったら、今、殺してあげるよ」
嘲笑うように響くシアンの声。満身創痍のこの身体。薄汚れた白い制服。
空兄様の手を、離してしまったこの右手。
シアンの言う通り、もう全部、全部終わりなのだ。心残りなんて考えるな。潔く死ね。怯えてはいけないのだから。最期くらい、凛としてみせろ。
私は静かに目を瞑る。合崎の方を見る勇気はなかった。目が合えばきっと叫んでしまう。もうずっと、隠してきたこの想いを。だから最後まで秘密にして、私の記憶に閉じ込めて、そのまま消えてしまえばいい。
「――じゃあね、憐ちゃん。遊んでくれてありがとう」
空兄様を守ると決めてから、ほんの十数秒の出来事だった。本当に、終わるのは一瞬だ。
――またいつか、会えるかな。
「「憐っ……!!!」」
銃声の直前に聞こえた、大好きな人たちの声。
飛び散る生温かい温度。目を開けなくとも、それが何色をしているのか私には分かってしまった。




