第87話
シアンに、口付けられている。それも深く、苦しいほどに。ただでさえ霞んだ意識が、途切れてしまいそうだ。思考が上手く働かない。
だが、数秒後、私はようやく理解する。この状況をどう処理すべきか考えているうちに、口移しで渡された錠剤のようなものを飲み込んでしまった。これが毒薬じゃないとは言わせない。死にかけている人間をも躊躇わずに傷つけるこいつは、本当に猟奇的な道化師だ。
やがて、シアンが唇を離すと、私はありったけの憎悪を込めて彼を睨み上げた。
「シアン、お前っ……」
その言葉を遮るように、シアンが頬に触れてくる。しかも、彼に蹴られて床に倒れた際に出来た傷を、再び開くように爪の先に力を入れてくるのだから質が悪い。
そんな風に人を傷つけながら、彼はさも楽しそうに笑っていた。それどころか、いつもより心持ち上機嫌にも見える。
「――愛しているよ、憐ちゃん。アザレアとは、また違う意味でね。……毎日、毎日、少しずつ、君を壊していけたならどんなにいいだろう」
この世界の一体どこに、こんな猟奇的な告白があるというのか。背筋が凍り付きそうだ。錯乱状態の合崎の比ではなかった。心の底から恐怖を感じる。
「……って、あれ? 合崎くん、いたんだ。嫌だなあ、今の見られちゃってたんだ」
「どうしようね、憐ちゃん?」とわざとらしく聞いてくるシアンの言葉を全力で無視しながら、頭の中でぐるぐると考える。
そうだ、今の光景を合崎にも見られていたのだ。あまりの衝撃に、合崎の表情を窺う余裕もなかった。こんなところを見られてしまうなんて、非常に気まずい。だが、この気まずささえもシアンは計算済みのような気がしてならない。やはり、シアンは恐ろしいまでに人を傷つけるのが上手いようだ。
私は恐る恐る、合崎の方へ視線を送った。だが、ぼやけた視界では離れた場所にいる合崎の表情まではよく見えない。
「……あい、ざき……」
代わりに零れた声すらも、弱々しかった。合崎にはきっと届いていないだろう。
「君は確か、憐ちゃんの『お兄さん』なんだっけ? この際だから、お願いしようかな。妹さんを僕に下さい、『お兄さん』?」
茶化すように笑うシアンに対して、合崎は沈黙を守り続けていた。合崎は至って冷静なようだ。それはそれで若干傷つくような気もするが、取り乱すよりは余程マシだろう。
「多分、公平な目で見ても、憐ちゃんを幸せにできるのは少なくとも君ではないと思うんだよね」
僅かに空気が張り詰める。見えていなくても、合崎の視線が刺さるように痛かった。軽蔑されているような、ゴミでも見るような目で見られているような気がしてならない。
「君は憐ちゃんを助けに来たつもりかもしれないけど」
笑みを含んだシアンの冷たい声が、頭上で響く。
「帝国に戻ったって、憐ちゃんは僕の代わりに、合崎くんに捕らえられるだけじゃないのかな?」
シアンは嘲笑うようにそう言い放った。彼は本当に、人の心を揺さぶるのが上手だ。会って間もないというのに、私たちが見て見ぬふりをしてきた痛いところを的確に抉ってくる。
どうにか反論しようと口を開きかけるも、とても私が何か言えるような状況ではないことに気づき、再び口を噤んだ。視線のやり場にさえ困り、綺麗に磨かれた白い床へ落とすことしか出来ない。
不意に、どこか自嘲気味な笑い声が聞こえてきた。シアンの声ではない。錯乱状態のときによく似た、合崎の声だった。
「――ああ、そうだよ」
その瞬間、銃声が響き渡る。発砲したのは合崎だった。シアンは私を捕らえたまま、いつの間にか楽々と避けている。
「うわ、撃っちゃうんだ。憐ちゃんに当たってもおかしくないってのに……言うほど、この子の命、惜しくないみたいだね」
そう笑ってシアンも応戦する。左手で私を引き寄せたまま、右手には銀色の銃を構えていた。はっきりとは見えないが、シアンには銃の心得もあるらしい。少なくとも、合崎と一対一でまともに戦える人間に出会ったのはこれが初めてだ。
銃撃戦が白熱していく一方で、私の意識は急速に混濁し始めていた。手先が痺れ、針で刺すような痛みを訴えている。先ほどシアンに飲まされた薬は、一体どんな類の薬品だったのだろう。得体の知れない不気味さが、一層恐怖を駆り立てた。
「そんなに睨まないでよ、合崎くん。怖いなあ」
銃声の合間に、シアンの笑い声が吸い込まれていく。発砲音から判断するに、合崎は二つの銃を使用しているようだった。
「でも、次期軍師の名も伊達じゃないようだね。案外侮れないな」
そう言いながらも、合崎相手に余裕を見せるシアンの方が恐ろしい。悔しいが、認めざるを得ないようだ。シアンはかなり強い。合崎と同レベル、もしくはそれ以上だ。軍人養成学校に通う身としては、その強さに畏敬の念すら抱く。それと同時に、ある願望が芽生えてしまう。
こいつを、自分の手で倒してみたい。
軍人候補生の血が騒ぐ。こいつを倒せたなら、本当の意味で私も、次期軍師として、合崎の隣に立つ者として認めてもらえるのではないだろうか。死の間際になってから、こんなにも明確な目標が出来るなんて皮肉にも程がある。
せめて、私にもう少し体力が残っていたら。私はやりきれない悔しさに苛まれた。シアンに飲まされた薬の影響か、どんどん力が抜けていくのが分かる。息をする度、肺が悲鳴を上げていた。体はもう、情動とは無関係に小刻みに震えたままだ。脈も異常なほど速まっている。
そんな体の状態に耐えきれず、その場に崩れそうになる私を、シアンの手が強く引き寄せる、視界に映る全ての物が滲んで見えた。複雑な思考が奪われていく。上手く息が出来ない。
「……随分苦しそうだね、憐ちゃん」
シアンは私の耳元で笑った。反発する意欲も気力もない。ただただ不規則になっていく呼吸と脈に、必死に耐えることしか出来なかった。
目の前では、黒い制服姿の合崎が休む間もなくシアンに攻撃を仕掛けている。その目は一体何を見据えているのだろう。シアンの命か、それとも――。
その瞬間、カラカラと固いものが床に落ちる音がしたかと思えば、滲んだ視界の中から合崎の影が消えていった。どさりと鈍い音がして、それを聞いたシアンがくすりと笑う。
「っ……」
霞み切った視界でも、分かってしまった。床に倒れ込むその黒い影が、辺りに飛び散った鮮やかな赤が、一体何を意味するのか。
「あい、ざき……?」
全ての音が遠ざかり、全身の血が凍り付いていくような感覚だ。嘘だ、信じたくない。嫌だ、嫌だよ、合崎。
「嫌……っ! 合崎っ!!」
形振り構わず、私はひたすら彼の名を叫んだ。今の私には、掠れた声を歪ませて、何も考えずに彼の名前を呼ぶことしか出来なかった。
「合崎っ……!!」
ぼろぼろと零れ落ちた涙が、磨き上げられた床に吸い込まれていく。
どうか、嘘だと言ってくれ。誰でもいいから、早く。




