第86話
「ひどいなあ、憐ちゃん。勝手にいなくなっちゃうなんて」
茶化すように笑う冷たい声。肩に添えられた手に籠る力。その全てに私は、ただ震えることしか出来ない。
この笑みの含まれた声は、間違いない。シアンだ。ここにきて、彼に捕まってしまうなんて。
私は全力でその腕から抜け出そうと試みながら、閉まりゆく隠し扉の先を見据えた。未だ十数人の信者との攻防を繰り広げる合崎に向かって口を開く。
「っ……合崎っ! 合崎っ!!」
掠れた声を振り絞って、全力で叫ぶ。合理的に考えるのならば、もうすぐ死んでしまう私はここでシアンに殺されたところで合崎に何の影響もないのだが、今はただ怖くて仕方がなかった。
「助けてっ……空兄様っ……!」
その声が銃声の合間に届いたのか、一瞬だけ合崎の視線がこちらへ向けられる。目が、合ったような気がした。
だが、それも束の間に、隠し扉は今にも閉まろうとしている。薄れ行く扉の先の光を掴もうと、私は必死に手を伸ばした。
だが、そんな抵抗も空しく、「ロック完了」と無機質な人工音声が告げる。
「合崎くん、だっけ? 彼もやるよね、憐ちゃんのためにこんなところまで乗り込んでくるなんて」
くすくすと笑うシアンの吐息が耳元にかかる。シアンとの距離の近さを思い知らされ、それだけで身が竦んでしまった。
「は、離せっ……! 私を、あいつのところに帰してくれ……っ!」
「いやあ、妬けちゃうな。憐ちゃんは合崎くんとよっぽど仲がいいんだね」
何度も腕から逃れようとするも、弱り切ったこの体では上手くいかない。もっとも、万全の状態だったとしても、きっと敵わなかっただろう。じわりと絶望が広がっていくのを感じる。
「帝国軍はいつまで経っても動かないし、精鋭部隊も派遣されない。――帝国が、ここを見つけられないなんてことないはずなんだけどね。次期軍師の存在なんて、そんなものなのかって失望してたけど……でも、やっぱり『憐ちゃん』は切り札だったみたいだ」
シアンが更に私を引き寄せて、そっと耳打ちする。
「どうかな? 合崎くんと一緒にここで暮らすのは。――君たちが殺した信者のことは……目を瞑ってあげてもいい。所詮、捨て駒だったんだから」
囁くような冷え切ったその声に、寒気が収まらない。今すぐに、ここから逃げ出したい。油断すれば泣いてしまいそうだ。
「君は、一度帝国に見捨てられた身だよ? 帰ったって居場所があるか分からないじゃないか」
「嫌だ……お前らの仲間になるくらいなら――」
「死んだ方がマシ、って?」
私の言葉を遮るように告げられたその言葉に、心臓が大きく跳ねた。シアンの冷たい手が私の頬に伸び、彼と顔を合わせるように向きを調整される。色素の薄い右の瞳が、じっと私を観察していた。
殺される。
直感的に、そう感じた。言葉も出ない。
「本当に、強情だなあ……。君は、そんなに帝国に思い入れがあるようには思えないんだけど」
ごく自然な仕草でシアンは私の右手を掴む。たったそれだけでも、情けないくらいに肩の震えが大きくなった。立っているのもやっとだ。
「憐ちゃんとは楽しくやっていけそうだったのに、残念だよ」
右手に巻かれた包帯の上に、シアンの手が移動し僅かに力が籠められる。鎮痛剤を飲んでいるのに、信じられないくらいの激痛が走った。せめて叫ばぬように、唇を噛みしめる。
「でも、死ぬ前に、アザレアを泣かせた理由くらいは聞かせてくれるかな?」
アザレア。その名前を聞くだけで、罪悪感に胸が痛んだ。
「――……あいつが……大切な人の痛みを分かち合えると言ったから……。せめて、私の痛みはこれ以上、引き受けてほしくなかったんだ……」
不思議と、アザレアに対する想いは素直に口に出来た。何一つ嘘はない。彼女には、もっと楽に生きてほしい。
ああ、でも、泣くほど彼女を傷つけてしまったのだ。これが、私の犯した最後の罪だろうか。
でも、きっと大丈夫だろう。アザレアにはシアンがいるのだから。シアンがどれだけ残忍な人間だろうと、彼女のことだけは大切にしてくれるはずだ。
不意に訪れた沈黙に、恐る恐るシアンの表情を伺ってみれば、冷たいだけだったシアンの瞳が僅かに揺れる。やがてふっと、彼は笑ってみせた。それは初めて見る表情で、嘲笑でも微笑でもなく、私を憐れむような笑みだった。ほんの少しだけ、この猟奇的な道化師の人間らしい部分を見た気がする。
「それで、今度は君が傷を負って死ぬっていうのか……。健気じゃないか」
シアンは気に入ったとでも言わんばかりに私の顔を覗き込み、やがて耳元で囁いた。
「――憐ちゃんのそういうところ、好きだよ」
こちらの思考に入り込んでくるような、深い響きのある声だった。人の心の惑わせ方を、こいつはきっと知っている。私がもう少し弱っていたら、危なかった。合崎に会えていなかったら、シアンへの恐怖を親しみにすり替えていたかもしれない。
「……まだ、死ぬと決まったわけじゃない」
眩む視界の中、私は精一杯の強がりを見せた。何をどう間違ったって、シアンの腕の中でなんか死ぬものか。睨むようにじっと彼を見つめ返す。
その瞬間、シアンが私の右手を思いきり強く握りながら、自分の方へと引き寄せた。傷口がずれるような感覚がある。焼けるような熱い痛みに、涙が滲んだ。
「っ……」
「死ぬよね? これ、飲んだんでしょ」
シアンは、空いている手をひらひらと振ってみせる。その手には、私が飲み干した薬のフィルムが握られていた。
「勝手に一人で死のうとするなんて、酷いな、憐ちゃん」
敢えて茶化すようなその口調が、やけに不吉に響いた。私は最早、シアンから目を逸らすこともできない。もう、次期軍師としての威厳がどうのと言っている場合ではなかった。恐らく私は今、一人の人間として生命の危機に晒されている。
「――この手で、君の命を終わらせたいんだよ」
笑みを含みながらも、真剣なシアンの声が落ちてくる。シアンに握られた右手からは、脈打つたびに赤が流れ出していた。猟奇性を帯びた目に見据えられ、まるで身動きが取れない。
ああ、私はこのまま殺されるのか。諦めてしまえば、多少は楽になれるだろうか。
その刹那、不意に人工音声が響き渡る。
「ロック解除」
殆ど反射的に、私は隠し扉のあったほうを見据えた。そこから差し込む光と、見慣れた人影に一気に緊張の糸が解ける。霞んだ視界でも分かった。その黒い制服も、たたずまいも、全部、彼のものだ。
間違いなく、彼だ。来てくれたのだ。自然と表情が和らぐ。
「――……空兄様っ――」
彼の名を呼び終わる寸前、唐突にシアンに引き寄せられた。状況がつかめず、余りの衝撃に目を見開くことしか出来ない。ただ、分かることは一つだけ。
私は、今、シアンに深く口付けられていた。




