第85話
真っ白な空間の中に、純白の棺がぽつりと置かれている。人工花も何もない、ただ棺だけがそこに置かれている光景はどこか奇妙に思わざるを得ない。
喪服のような真っ黒なワンピースを纏った少女が、その棺に縋りついておもむろに泣き出した。
「憐姉様……どうして死んじゃったんですか?」
少女の隣で、棺にそっと触れる青年が一人。泣き出しそうなくらい悲痛な表情で、じっと棺を見つめていた。
「――憐……救い出せなくて、ごめん」
ぽつりと涙が棺に落ちた。真っ白な空間は、重苦しい静寂に包まれる。
やがて、その二人の背後から、見慣れた学院の礼服姿の彼が現れる。表情は光の加減のせいか詳しく窺い知ることは出来なかったが、その視線は確かに棺に注がれていることだけは分かった。
彼は、私の棺を見て、何を思っているのだろう。何を言うのだろう。
私には、もう、見えない。聞こえない。彼の隣に立つことも叶わない。
やがて、僅かに彼の口元が動いた。
「 」
あまりの息苦しさに、はっと目を覚ました。気づかない内に眠り込んでいたらしい。しかし、気分は優れないままだった。むしろ眠る前よりも、また少し体が動かなくなったような気がする。感覚も更に鈍っていた。
辺りには銃声が響き渡っていた。どうやら合崎は片手で私を支えつつ、もう片方の手で銃を持ち、信者たちに応戦しているらしかった。絶叫と断末魔が、とても近くから聞こえてくる。
しかし、そんな緊迫した状況でさえ、もう現実のこととは思えなかった。夢の延長線上にいるような気持ちだ。私は、もたれるようにして頭を預けていた合崎の肩から顔を上げて、彼の真剣な横顔を見つめた。
端整なその横顔を眺めながら、考える。彼は、私の棺の前で何を言ってくれるのだろう。どんな表情で、どんな目で棺を見下ろすのだろうか。無論、それを確認する手立ては棺の中にいるであろう私にはありはしないのだが。
憎たらしいほど余裕に満ちたこの顔も、もうじき見えなくなる。どれだけ記憶の中で鮮やかに蘇ろうとも、この目を通して見つめるほうが温かいに決まっていた。少しでも長く、彼の隣にいたい。
せめて最期のその時に、彼に見守られて死にたいと思うのは、私の我儘なのだろうか。
「――憐」
信者たちの攻撃がひと段落すると、合崎が僅かに顔をこちらへ向ける。酷く心配そうな表情だ。彼は私の額に手を当て、困ったように顔を曇らせる。
「目が醒めたんだな。……ひどい熱だぞ、一体どうしたんだ」
確かに、熱は相当高いのだろう。頬が火照っているのを感じる。今更、熱に関しては言い逃れできないが、せめて薬を飲んでしまったことはばれないようにしなければならない。
「……もうすぐ、ここを出られるからな。頑張るんだぞ」
そう言うなり、合崎は私を軽く抱き上げて複雑な廊下を走りだす。揺れる度、ふらふらと視界も眩んだ。彼が最大限に気を使ってくれているのは分かるが、気分は最底辺だった。もう、頭を上げているのも辛い。油断すれば、再び眠ってしまいそうだ。
警鐘と赤色灯の中を、合崎は休むことなく駆け抜けていく。これがきっと、私たちの最後の脱出劇だ。彼には迷惑をかけてばかりの人生だったな、と一人笑ってしまう。
「いたぞっ!!」
行く手から、信者の男性の声が響く。ぼんやりと見える人影はかなりの人数だ。合崎は身構えるように、僅かに後ろに下がって距離を取った。
しかし、背後からも数人分の足音が聞こえてくる。合崎は鋭い視線で間合いを取っていた。どうやら挟み撃ちにされてしまったようだ。しかしながら合崎は焦るでもなく、さも面倒そうに舌打ちをした。本当に、どこまでも余裕のある奴だ。
「侵入者、おとなしくすればこちらから発砲はしない。銃を捨て、その娘を離せ」
年配の信者が重々しく言い放つ。外套を纏った信者たちのリーダー格のような人物なのかもしれない。
「――随分と寛大な対応だな」
合崎はくすくすと笑ってみせるものの、その目は真剣そのものだ。傍から見れば、絶体絶命のこの状況を、彼はどう切り抜けるつもりなのだろう。
「さっさと指示に従え、侵入者。もたもたしていると、その娘ごと撃つぞ」
年配の信者は威勢のいいことを言っているが、その手は僅かに震えているようにも見えた。きっと、合崎を恐れているのだろう。無理もない。彼一人の手で、既に数十人という信者たちが命を落としているのだから。
「――……悪いな、憐。少し降りてもらうぞ」
合崎はそっと私に耳打ちすると、廊下の壁際に私を降ろした。私はすぐに壁に手をついて、何とか立っていられるように体勢を保つ。足に上手く力が入らない。まるで自分のものではないような感覚だった。
「……よし。そのまま銃を床へ投げ捨てろ」
私を降ろしたことで、合崎が信者たちの指示に従うと思ったのか、信者の声には多少の余裕が見え始めていた。合崎はそんな信者たちの期待に応えるように、右手に持っていた銃を体から離すように移動させる。まるで、本当に降参するかのような流れだ。もっとも、合崎に限って自ら負けを認めるようなことはあり得ないのだが、それでも一瞬不安になるくらいには神妙な雰囲気だった。
「残念だ。こんな状況じゃ――」
合崎は右手の銃を手から離しながらにやりと笑う。
「手加減できそうにもないな」
そう言い終わる前には彼は外套の中からもう一つの拳銃を取り出し、発砲していた。あっという間に銃撃戦が始まる。彼は見事に信者たちの銃弾を避けていた。それどころか、その合間に攻撃を仕掛け、着実に相手の数を減らしていく。ここが広い廊下でよかった。合崎の動ける範囲は十分にある。彼ならきっと大丈夫だ。
私はせめて、流れ弾に当たらぬよう気を配ることしか出来なかった。私が負傷しようものなら、折角の合崎の集中を乱してしまうだろう。もうこれ以上、足手まといになるのは御免だ。
私は壁にもたれ掛かり、軽く項垂れて呼吸を整えた。くらくらと、目の前が眩んでいる。もう、どうしようもないのだろう。息をする度、肺が焼け付くようだった。言うほど安らかな死でもないじゃないかと、自嘲気味な笑みが零れる。
目の前では、大切な人が赤に染まっていく。痛々しくて見ていられない。皮肉にも、彼のその戦闘力の高さが、彼を不幸にしているのだ。せめて、彼に終末なんてものが見えなければ、学院の首席だの次期軍師だのと祭り上げられることもなかっただろうに。
その瞬間、合崎の頬を銃弾が掠った。一瞬で背筋が凍り付く。彼の頬に浮き上がる赤い線を見つめながら、私は確かに震えていた。あの銃弾が、あと数センチずれていたら。想像しただけで、吐きそうなほどの恐怖に襲われる。嫌だ、合崎がいなくなるなんて。
心の底からぞっとした。涙が滲み、感情が押しつぶされそうになるくらいには怖かった。自分の死を想像するよりも、遥かに恐ろしい。
「合崎……」
ああ、そうか。今更になって私は気づいてしまった。
大切な人の命が、こんなにも大きなものだったなんて、今まで知らなかった。大切な人の死が、どれだけの絶望を意味するのか。私は分かったふりをしていただけで、実際はその一片も理解できていなかったようだ。
実感したのは、これが初めてだ。思わず唇を噛みしめる。
それならば私は、残された人たちにいったいどれだけの傷を与えるのだろう。千翔を笑顔で送ったことが、柊に自決命令を出させたことが、合崎の前で死ぬことが、一体どれだけ酷なことなのか、今になってようやくわかったような気がする。
私は馬鹿だ。こんなことに、今更気づくなんて。もう全部、遅すぎるではないか。
「ごめん……ごめん、合崎」
聞こえないのは承知の上で、何度も呟いた。いくら悔やんでも、薬を飲み干した事実は変わらない。息苦しさと後悔の念から、思わず首元に触れる。シアンにつけられた傷が、今も生々しく残っているようだった。まだ、辛うじて私が生きている証だ。
その時だった。不意に体が後ろの方へと倒れていくのを感じたのは。壁にもたれ掛かっているはずなのに、どうして。
背中からバランスを崩しながら、まるで「白」の内部のように無機質な白く広い空間を視界に捉える。壁だと思っていたものは、実は隠し扉だったようだ。
だが、それを理解したときには、私は冷たく大きな手に捕らえられてしまっていた。




