第84話
勢いよく逃げ込んだドアの先は、光に慣れていないせいかひどく目が眩んだ。合崎は私を抱きかかえたまま、軽く壁にもたれ掛かって息を整える。
施設内は、人工知能による警告と警鐘で満ちていた。入り組んだ廊下の先では慌ただしく駆けまわる科学者らしき白衣の人間たちの姿が見える。私たちの正体は、すぐにバレるのだろう。もう、同じ手は使えない。
「……なかなか様になっていたぞ、お前には犯罪者の気質がある」
茶化すように合崎に笑いかけると、彼も小さく苦笑いした。私たちにしては、上々の演技だったのではなかろうか。千翔に見てもらいたかったものだ。
「……もう一息、だな」
合崎はそう呟くなり、壁から背を離すと、凛とした面持ちで目の前を見据えた。いつになく真剣なその表情に、自然と目が奪われてしまう。やはり、彼には「次期軍師」の風格がある。私は彼の付属品になれただけでも、光栄なことだったのかもしれない。
「――疲れるだろ、もう降ろして大丈夫だ」
何とか言葉だけでも気丈に振舞ってみせたが、実際、体はもう限界であった。薬の副作用なのか、熱も異様に高い。意識が朦朧としてしまう。
「嫌だ」
きっぱりと断固拒否する合崎は、まるで子供のようだ。本当に頑固な奴である。だが、ここは殆ど戦場に等しい危険な場所なのだ。私を抱えることで、合崎が怪我でもしようものなら心安らかに死ねなくなってしまう。
何とか反論しようと口を開きかけたとき、不意に合崎がぐっと顔を寄せ、私の額に自分の額を付けた。普段から私より体温の低い合崎だが、今は私が発熱しているせいか余計に冷たく感じる。至近距離で見つめられ、正常の意識であれば心落ち着かないところなのだろうが、今はただぼんやりと見つめ返すことしか出来なかった。
「こんな高熱で、歩けるわけないだろ」
冷静な声に諭されて、納得してしまいそうになるが、これでは私が薬を飲んだことがばれてしまいそうだ。何とか力を振り絞って否定してみせる。
「……合崎が、低いだけだろ」
弱い反撃だと、我ながら思う。合崎も同じ感想を抱いたのだろう、さも可笑しそうにくすくすと笑ってみせた。
「この熱で、誤魔化せると思ってるならおめでたい奴だな」
お互いの鼻が触れ合う。こんな危機的状況下でも、「空兄様」の香りを感じただけで酷く安心してしまう自分がいた。本当に、幼い頃に植え付けられた感情や価値観というものはいつまでも残るものなのだなと、ふっと笑ってしまう。どれだけ腹立たしくても、傷つけられても、私はこの安心感には敵わないのだろう。
「見つけたぞっ!!」
私たちを現実に引き戻すように、廊下の先で黒い人影がそう叫ぶのを聞いた。随分と動きが早い。この施設の警備体制も馬鹿には出来ないらしい。数人纏めてこちらへ近づいてくる様子が見て取れた。
そんな緊迫した状況の中、合崎はいかにも面倒そうに舌打ちをして、近寄る信者たちを眺めていた。
「……いいところだったんだがな」
溜息交じりにそう呟くと、合崎はようやく私を床に降ろした。信者たちが銃を構える準備をしているのが分かる。きっと、私たちの射殺命令でも出されているのだろう。相手がシアンでなくとも、少しだけ身が竦んでしまった。今のこの私の状態では、とてもじゃないが彼らの攻撃を上手くかわせる気がしない。
合崎は数名の信者たちを見据えると、ごく自然な動作で彼らに銃を向けた。そうして僅かに浮かべた笑みを崩さぬまま、躊躇いも見せずに発砲する。間を置かずに、合崎の持つ銃から5発の銃声が響いた。
私たちの方へと向かっていた信者たちは白い床に倒れ込み、その周りには鮮やかな赤が飛び散っていた。ほんの一瞬で片付いてしまった。霞んだ視界では彼らの生死までは分からないが、倒れるくらいなのだから少なくとも相当深手は負っているのだろう。それを笑いながらやってのけた合崎に、若干の寒気を覚えてしまった。
しかも合崎は、倒れ込んだ信者たちになお銃口を向けていた。合崎のその目の暗さが何を表すのか私は知っている。錯乱状態のときの彼だ。「合崎」の人格が残っているだけで、きっと彼はここに来た時から不安定な状況だったに違いない。いや、敵陣に一人で乗り込んでくるという判断を下している時点で異常だ。いつもの冷静な合崎ではないのだ。
「駄目だ……合崎」
立っているのもやっとな私は、掠れた声を絞り出して訴えた。助けられている立場の私が口を出すのも虫の良すぎる話なのかもしれないが、止めずにはいられなかった。合崎は、銃を向けたまま視線だけを私に移す。
「殺しちゃ……駄目だ」
「なぜ、憐が庇うんだ? こいつらは『影』だぞ」
「お前は今、『次期軍師』として撃っていない」
合崎の鋭い視線が痛い。でも、怯んでいては、彼を、彼の心を守れない。
「『合崎空』として撃っているだろ……。いくら相手は信者とは言え、それはただの殺人だ」
確かに、帝国の定める法に照らし合わせれば、相手は信者なのだから殺したところで罪にはならないのだろう。けれども、合崎が普段の精神状態に戻ったときに、自分のしたことに苛まれる姿なんて見たくないのだ。
だが、合崎は暗い目で私を見つめたまま、端整に微笑んでみせる。その瞬間、ぞわり、と背中に寒気が走った。
「『合崎空』として撃っちゃ駄目か? 倫理がそんなに大切か?」
畳みかけるように、合崎は続ける。
「誰だって……妹や幼馴染、相方、想い人が傷つけられたらこうするだろ? ――その役回りを、全部持って行ってしまった君も悪いんじゃないか? 憐」
それは、本当に責めているような口調だった。ずきり、と胸が痛むのと同時に、少なからず衝撃も受ける。知らなかった。彼の中で、私がそんな風に思われていたなんて。
「大切な人を傷つけたくないのは……お前だけじゃないんだぞ。分からないのか?」
彼は、私の想いのほんの一片でも理解しようと思ったことはあるのだろうか。きっと彼は、私の中で彼がどれだけ大きな存在なのか、微塵も気づいていやしないのだろう。
そうこうしている間にも、再び数人分の足音が近づいてくる。合崎は再び、あの整った笑みを見せた。
「――ああ、分からない。教えてくれよ、憐」
そう言い終わるや否や銃声が響き渡る。発砲したのは、合崎の銃だった。よく見ると左手にも拳銃が握られているようだ。外套と一緒に、信者から拝借したのかもしれない。決死の覚悟でこちらへ銃を向けながら突進してくる信者たちにも、合崎は至近距離から発砲し確実に仕留めていた。断末魔のような絶叫が、入り組んだ廊下に響き渡る。私の頬にも、生温かいものが飛び散った。
少し離れたところで、怖気づいたようにこちらの様子を窺っていた信者にも、合崎は容赦なく銃を向けた。微笑を浮かべたまま返り血を浴びた彼の姿は、霞んだ視界の中でも嘘のように目に焼き付いていく。
「駄目だ……合崎」
何とか声を出すも、硝煙に咳き込んでしまい、壁に手をついて体を支える。このままでは、いけない気がした。合崎を、止めなければ。これは明らかに過剰防衛だ。
「合崎……」
しかし、震える声は銃声の中では無に等しく、合崎が気付く様子もない。自分の無力さが、ただただ悔しかった。銃声が響くたび、確かに合崎は傷ついているはずなのに。こんなにも近くにいながら、彼を守れないなんて。
「やめて……空兄様っ……」
やがて、合崎の前に立ちはだかっていた信者が床に倒れ込む。いやに静まり返った廊下がひたすらに不気味だった。
合崎は辺りを見渡してから、私の方を振り返った。その暗い目に捉えられて身が竦む。きっと、彼の精神状態はかなり不安定だ。いつもの合崎ではない。
彼はすっと手を伸ばすと、私の頬に付着した血を拭った。びくりと肩が震えてしまう。合崎を怖いと思うことなんて、今まで一度も無かったはずなのに。
合崎は私の頬に触れたまま、顔を覗き込むようにして微笑んだ。返り血を浴びたその姿はあまりにも痛ましい。
「……嫌だな。そんな目で見るなよ、憐」
少しだけ笑みが含まれた声は、彼の不安定さを象徴してるようだった。思わず、彼から目を逸らしてしまう。
「何で……わからないんだ。馬鹿」
「そんな口きいて……ここまで病ませたのは誰だったかな、憐」
くすくすと笑いながら彼は言う。目を逸らしていても、視線を感じた。合崎の言葉はいつも、ずきりと胸に刺さる。
「……そういう言い方は卑怯だ。それに、私だけに非があるわけじゃない。帝国にだって要因はある」
敢えて淡々と言葉を並べてみせる。声を発する度、咳き込みそうになるのを必死に堪えなければならなかった。全身の倦怠感も増している。
「――そうだな。帝国だって悪だろう。あんなにも、憐を傷つけたんだから」
不意に合崎は私を引き寄せた。今日は随分と距離が近いが、抗う力も残っていないので素直に彼に寄りかかる。そして、笑うような声が耳元で囁かれた。
「憐は、あんな場所に帰りたいのか? いっそ、帝国の目の届かない場所へ一緒に逃げるのはどうだ?」
それは、合崎が言っているとはとても思えない、甘ったるい夢のような台詞だった。それなのに、どくんと心臓は跳ねてしまう。帝国の手から逃げるなど、ほとんど不可能なのだと、私たちが一番よく知っているはずなのに。
でも、もしも本当に逃げてしまえたら、どんなに楽になるだろうか。「空兄様」に大切にされて、彼の傍で暮らす毎日は、それはそれは幸せな日々に違いない。もう人も、自分も殺さずに済むのだ。
私だって、そんな未来を一瞬でも夢見なかったかと言われれば嘘になる。だが、叶うはずもないのだ。痛いほど、よく分かっている。
「――もし、私たちが、またこの世界に生まれてくることがあれば……その時は、きっと叶えてくれ。約束だぞ」
非現実じみた、甘い問答だ。けれども、私たちにはこれが精一杯だった。どう足掻いたって、帝国からは逃れようがない。
合崎も、それをよく分かっているのだろう。何も言わず、ただ私を抱きしめていた。それは恐らくほんの数秒程度のことだったのだろうが、私には不思議と長く感じた。この温もりさえ、私はもうすぐ失ってしまう。
体が重い。今にも瞼が閉じそうだ。そろそろこの命は尽きるのだろう。自分でも、何となくわかってしまった。だが、もう少し頑張らなければ。合崎を帝国へ導くまでは死ねない。それまで合崎が私の終末を見ないことを願うばかりだった。




