第83話
礼拝堂を抜けた先は、「白」の最上階にある庭園にもよく似た憩いの場が広がっていた。温もりを感じさせる光で満ち溢れている。子どもたちの無邪気な笑い声が響き、それを見守る大人たちもまた、穏やかな表情をしていた。
ここが、アザレアの生きていく世界。こういった光景だけを見れば、帝国よりもよほど幸せそうだ。もしかすると、次期軍師という立場でなければ、私も帝国でこんな光景を目にする機会もあったのかもしれないが、残念ながら「白」の中しか知らない私にとっては、こちらの方がずっと幸せそうに見えた。「影」の施設だというのに、妙な気分だ。
帝国と「影」。どちらで生きることが幸せなのか、やはり私にはわからない。どちらも一長一短だ。
そう考えると、極論は「どこにいるか」ではなく、「誰といるか」なのかもしれない。私が帝国に帰りたいと思うのも、あの場所には私の大切な人たちがいるからだ。私が合崎を帝国に導きたく思うのも、帝国のためはもちろんあるが、それ以上に彼を愛してくれる人たちが帝国にいるからという動機の方が強い気がした。
「マップを見る限り、ここを出たら近くに出口がある」
私の手を引く合崎が小声で伝達してくれる。どれくらいの時間、こうして歩いてきただろう。私の終末もきっと、相当近づいているに違いない。
さっきから、もうずっと体が重い。熱があるのか、頬が少し火照っている気がした。視界が霞む回数も確実に増えている。
「……もうすぐ、か」
声すらも、何だか上手く出せない。一つひとつの動作が鈍っていた。あの礼拝堂にいたときは、それほど辛くなかったのに急激に変化が生じたのだ。たった数分で、ここまで自由を奪われるものなのか。背筋を伝う寒気に、思わず肩を震わせる。
今更になって、何を怯えているのだ、私は。「帝国のため」と勇んで薬を飲み干したはずじゃないか。
ああ、でもきっと、死はこんな変化よりも一瞬だろう。ほんの一瞬で、今まで積み重ねてきたものを奪われるのだ。この手を、嫌でも離さなければならない。
「……かなり手が熱いようだが、大丈夫か? 憐」
合崎は軽くこちらを振り返るも、フードを被っているためその表情までは読み取れなかった。その声も、もうすぐ聞き納めかと思えば切なくなる。死を前にして、どうも私は弱気になっているようだ。
「――大丈夫だ」
子供たちの無邪気な声も、遠く感じる。掠れてしまった声ではもう、何を言っても届きそうにない。
「いや、この熱で何でもないってことは――」
合崎のその言葉を聞き届けない内に、不意に左半身に何かがぶつかってくる。油断していたせいもあり、その衝撃に耐えきれず、そのまま床に倒れ込んでしまった。繋いでいた合崎の手も、離れてしまう。
「うわあ! お姉さん、ごめんね!」
まだ幼い男の子の声が降ってくるも、すぐには反応できなかった。シアンに受けた傷が、倒れ込んだ衝撃で言葉にならない痛みを呼んだせいだ。思わず涙目になってしまう。
「立てる? 怪我しちゃった……?」
ひどく心配そうな声で、男の子は私の傍に寄ってきた。そうして不意に、やけに視界が開けていることに気づく。どうやら、転んだ拍子にフードが外れてしまったようだ。
「――おい、憐っ!」
ひどく焦ったような合崎の声を聞きながら、私はやっとの思いで上体を起こした。
「お姉さん、たくさん怪我してる……」
「ああ、すみません! うちの子が!」
男の子だけでなく、その母親らしき女性まで近づいてきた。このちょっとした騒ぎのせいで、周囲の視線を集めてしまっている。非常にまずい事態だ。私は咄嗟に男の子を見つめ、簡単に返事をした。
「私は平気だ。気にするな」
澄み切った男の子の丸い瞳と、ばっちり目が合う。その瞬間、男の子はさも嬉しそうに声を上げた。
「アザレア様だ! すごいっ! どうしてここにいるの?」
男の子の背後には、既に母親らしき女性が駆け寄っており、彼の言葉を聞くなりその女性は酷く驚いたように目を見開いていた。ぽかんと開けた口に辛うじて手を当てて、信じられないとでも言いたげな表情だ。
「……アザレア様、ですか……?」
アザレア。その名前が周囲の視線を一層私たちに集中させた。一気に血の気が失せていく。
「――っ逃げるぞ」
その言葉と同時に、黒グローブの手が私を抱き上げた。反射的にその首にしがみついてしまう。これは、相当まずい。折角ここまで来たのに、こんなところで全て水の泡にされては敵わない。私はまた、シアンの許へ戻されてしまうのだろうか。言い知れぬ不安に、私はさらに合崎にしがみついてしまう。どうしようもなく怖くて仕方がない。
「ごめんなさいっ……空兄様」
「……っ謝らなくていい」
至る所から、私たちを追う声が聞こえてくる。やはり、アザレアは信者たちの中で相当大きな存在らしい。この状況を、どう切り抜ければよいのだろう。合崎に身を委ねながらも必死に打開策を考えていた。
「動くなっ」
威圧的な男性の声が響き、合崎が不意に足を止める。彼の肩越しに、私たちと同じ黒の外套を纏った信者たちの姿を認めた。その手に握られた銃は、明らかにこちらに向けられている。彼らの後ろでは、酷く心配そうな表情をした信者たちが輪を作るようにして私たちを囲んでいた。数にして、100人くらいはいるだろう。
「お前は何者だ?」
外套を纏った信者の問いかけに、合崎が息を呑むのが分かる。彼らに勝つことは、合崎の実力ならば難しくはないだろうが余計に騒ぎを大きくするだろう。それに、非戦闘員の信者が100人近くいるこの場での戦闘は、残酷な結果を招きかねない。幼い子供たちに銃口を向ける合崎の姿なんて、私は見たくなかった。
「――合崎、殺しちゃ駄目だ」
私は彼の耳元に顔を寄せ、囁いた。合崎がふっと苦笑いするのが分かる。
「……そんな甘いことも言ってられなさそうだがな」
はやく、打開策を見つけなければ。何とかして逃げ出せればよいのだが、この状況ではそれは許されそうにない。こんなにも大勢の信者が、悲痛な目でこちらを見つめているのだから。
――そう、悲痛な目で。
ふっと思いついたあまりにも馬鹿らしい案に、我ながらくすりと笑ってしまう。演技派の千翔に倣って、私も死の間際に一芝居打ってみてもいいかもしれない。幸いにも、役者は最適な人材が揃っている。
「合崎、私を捕らえろ」
「……何だ、急に」
「『アザレア様』の誘拐犯になれ、って言ってるんだ」
信者たちが私をアザレアだと信じ込んでいるのならば、それを利用しない手はない。合崎はしばしの沈黙の後、くすくすと笑い出す。
「とんだ茶番だな」
どうやら私の意図は伝わったらしい。合崎は軽く息をつくと、やがて声を上げて笑い出した。相手を嘲笑うかのようなその笑い方は、音森財閥第一研究所で聞いた時と同じ、相手を挑発するようなものだった。
「……そんなに必死な顔して、一体なんだっていうんだ?」
笑みを含んだ声で、合崎は銃を構える信者たちに告げる。こいつの挑発はやはり一級品だ。聞いているこちらも腹立たしくなるような物言いだった。
「今すぐその方を解放しろ!」
信者の男性が威勢よく告げてみせる。彼もシアンの部下だろうか。だが、合崎はそんな真剣な要求さえも、可笑しそうにくすくすと笑ってみせた。
「こんな小娘を相手に、ここまでするとか……。ちょっとだけ予想外だったかな」
そう言いながら合崎は私を床に下ろし、そっと私のフードを取った。一気に視界が広くなる。こんなにも沢山の視線を集めると、「実験」の日々を嫌でも思い出してしまう。けれども今は耐えなければ。辛いのは、恐らく合崎も同じなのだから。
合崎は私の体の前に左腕を回し、彼の方へと引き寄せた。その際にも、私の傷に触れないように気を使われているのが分かる。
はっきりと私の顔を視認した信者たちは、一層騒めいていた。銃を持った黒い外套姿の男性たちの手も軽く震えている。アザレアの影響力は、やはり相当なものらしい。
「『アザレア様』っていうのかな? おとなしくて助かってるよ」
「今すぐアザレア様を離せっ! 汚い手で触れるな!」
「アザレア様っ!!」
私たちを囲む輪の中から、一人の信者が飛び出そうとして他の信者に止められていた。涙を流している者もいる。今にもこちらに飛び掛かってきそうな勢いの信者たちに、思わず怯んでしまった。100人近い人間が襲い掛かってきたら一溜りもない。
「そんな口きいて、後悔しないといいけどな」
合崎が嘲笑うようにそう言ったかと思うと、不意にこめかみに銃口を押し当てられる。妙に冷たいその感覚に、撃たれないと分かっていても寒気が走った。
広間が、水を打ったように静まり返る。誰もが息を呑んで、私たちを見つめていた。
「な、何を……。お前、自分が何をしようとしているか分かっているのか……?」
とても信じられないとでも言いたげな表情で、外套を纏った男性は言う。自分たちの「アザレア様」が命の危機に晒されていることを信じたくないとでも言いたそうな表情だ。
「うるさいな」
合崎は更に私を引き寄せる。合崎独特の気だるげな声が、余計に不安を与えているようだった。私でさえ、多少は動揺するほどだ。
「あんまりぐだぐだ言ってると、さっさと引き金引きたくなるんだけどな」
笑みを含んだ合崎の声を聞いて、信者たちの顔が青ざめていくのが分かった。大袈裟な人たちだ。いくら魅力的だとは言え、アザレアとて、ただの人間だというのに。
「ふざけるな――っ」
「銃を下ろせっ」
合崎は声を張り上げながらも、あくまで冷静に言い放った。きっと、あの冷たい支配者の目で信者たちを見据えているのだろう。銃を持った男性たちは、すぐには合崎の言葉に従わず、戸惑いを見せていた。
「余程、銃声が聞きたいと見える。お望みならば今すぐ聞かせてやろうか?」
合崎は痺れを切らしたように、多少強引に私を引き寄せ、更に強く銃口を押し当てた。なかなか様になっているではないか、と笑みが零れそうになるも、何とか堪えて痛みに歪むような悲痛な表情をしてみせる。
一人、二人と外套を纏った男性たちは銃を下ろし、床に捨てていく。合崎はその様子を眺めながら更に追い打ちをかけた。
「全員床に伏せろ。一人でも従わなければ、この小娘を殺す」
ゆっくりと信者たちが床に膝をついていく。その緊張感の中で、子供たちのすすり泣きが聞こえてきた。逃げるためとは言え、無邪気な子供たちに恐怖を与えてしまったことに多少の罪悪感を覚える。帝国の理論でいけば、信者は人間ではないので憐れむ必要もないのだが、いざこうして生きている子供たちを目の前にすると、そのように割り切るのは至難の業だった。
やがて、外套姿の男性たちも床に伏せると、合崎は再び嘲笑を浮かべた。少し、錯乱状態のときの合崎と似ている気がした。
「……もう誰にも触れさせない。お別れだな、狂信者ども」
その瞬間、合崎は照明に銃口を向け、躊躇うことなく発砲する。すぐに広間は暗闇とアラーム音に包まれた。
そんな中で合崎は素早く私を抱き上げると、かなりの早さで走り出した。暗闇だというのに、その足取りに迷いはないようだ。
「……見えて、いるのか?」
「終末予想だけはな」
手短にそう答える合崎の背後からは、悲鳴や泣き叫ぶ声が聞こえてくる。「アザレア様」が撃たれたと思っている者も中にはいるのかもしれない。
「終末予想がこの暗闇で何の役に立つんだ……?」
「光があるうちに、ドアの『終わり』を見ておいたんだ。一度終末を見たものは、視認できなくても存在で分かる」
とんだ能力もあったものだ。上手く使えば、その利用法は計り知れない。帝国が合崎を欲しがる理由も分かる気がする。
「……じゃあ、人のことも分かるのか」
「人の終末はあまり見ないようにしているが……まあ、憐は例外かな」
走りながらも、ふっと合崎が笑った気がした。
「憐は可哀想だな。どんな暗闇の中に隠れたって……俺に見つけられてしまうんだから」
自嘲気味で、少し冷たさのある声だった。どうして彼は、いつも私を憐れむのだろう。本当に鈍感な奴だ。私の気持ちなんて、きっと少しも分かっちゃいない。
「……なら、安心だな。暗いのは、嫌いなんだ」
咳き込みそうになるのを堪えて、そっと告げる。体が重い。こんな危機的状況だというのに、油断すれば今にも眠ってしまいそうだ。この体が明らかな熱を帯びていることは、合崎にはとっくに伝わってしまっているだろう。
「でも……次はきっともう見つけられないよ」
私は合崎の耳元で囁くようにそう呟いて、そっと彼の肩に頭を預けた。体中が痛む。これから私が向かう闇は、きっと合崎でも太刀打ちできない。彼は終末は見えても、終末の先は見えないのだから。




