第82話
長い階段の終わりで、ようやく合崎は私を床へ下ろした。私はフードを被り直し、沈黙を破るように口を開く。
「……助かった、合崎。手は、疲れていないか?」
「これくらいで疲れていたら、次期軍師として情けない」
合崎もフードを目深に被り、顔を隠す。非常階段のドアを見るに、どうやらここは一階らしい。
「なんなら、『白』まで運んだ方がよかったか?」
私をからかうように笑う合崎の声を聞いて、少し安心する。ずっと張り詰めていた空気が和らぐようだ。
「それは私が次期軍師としてあまりにも情けないだろう。遠慮しておくよ」
本当は立っているのも辛かったが、無闇に合崎の体力を奪うのもよくない。霞む視界を誤魔化すように、軽く瞼を閉じて目を休ませる。油断すれば、今すぐにでも眠ってしまいそうなほどに体が重かった。
「へえ、じゃあ、『憐』としては?」
不意に距離を詰められた気がして慌てて目を開けば、目の前には私の顔を覗き込むようにして意地の悪い笑みを浮かべる合崎の顔があった。至近距離で目が合うと、心臓が跳ねるような気がする。
「そ、そんなどうしようもないことを訊くな。時間の無駄だ」
あくまでも冷静に言い放ったつもりだったが、語尾が震えていた。こんなことでいちいち動揺させられてしまうとは、私も情けない。私は唇を噛みしめながら、ドアの方へと向かった。
「……こんな状況下なら、素直な言葉が聞けるかと思ったんだがな」
苦笑いしながらも、合崎の声はどこか残念そうだ。今更、私からどんな言葉を聞きたいというのか。私をからかって遊ぶのも大概にしてほしいところだ。
合崎は私の隣に立つと、辺りを警戒しながらそっとドアを開けた。白い光が少しずつ強まっていく。
「……ここは?」
非常階段の先は、広く開けた広間だった。壁や天井には鮮やかなステンドグラスがはめ込まれ、重厚な長椅子が並べられた最前列には祭壇のようなものがある。祭壇の上には、教典のようなものが置いてあり、その後ろには「影」の紋章が飾られていた。至る所に白い人工花が敷き詰められ、甘い香りが漂っている。やけに洗練された雰囲気だった。
「……おそらく、『影』の礼拝堂のような場所だろう」
人がいないことを確認した合崎は、フードを軽く外して辺りを見渡していた。不思議なくらい、魅力的な場所だ。不覚にも、穏やかに気分になる。ここは敵陣の中心部だというのに。
私は二、三歩踏み出して、改めて礼拝堂を見渡す。数百人は収容できそうな広さだ。「白」の大広間に引けを取らない造りだろう。本来ならば抱いてはいけないはずの好奇心がくすぐられるのを感じた。
そんな中で、ふと、一枚の絵が目に留まった。繊細な細工が施された額縁に丁寧に飾られた、私の身長ほどの大きさのその絵から目が離せなくなる。おぼつかない足取りで、そっとその絵に近づいてみる。
それは、アザレアの姿絵だった。優雅に微笑むその口元は、いつか本で読んだ聖人画のように美しい。慈愛に満ちたその表情は、見ているだけで心が安らいでいくようにさえ思う。彼女に告白すれば、どんな罪も、苦しみも許されるのではないかと錯覚するくらいには、その絵は神秘的だった。
「綺麗だな」
珍しく、合崎が褒める。彼が人や物を褒めることなんて滅多にない。けれども、そんな彼が綺麗だというくらいには、この絵は美しかった。ずっと見ていると吸い込まれてしまいそうだ。
私は、この絵から視線を逸らせなくなっていた。それと同時に、アザレアを深く傷つけてしまったことを思うとずきりと胸の奥が痛む。こんなにも素敵な人を、私は泣かせてしまったのだ。
「同じ顔でも、こんなに違うとはな」
人が感動している横で、合崎はそんな軽口を叩く。
「悪かったな、無愛想で」
だが、この絵のアザレアは、本当に私と血が繋がっているとは思えないほど聖人的な雰囲気を纏っていた。拝みたくなる信者がいてもおかしくないほどに。
「アザレアは……『影』にとってどんな存在なんだろう?」
この絵と言い、「アザレア様」と呼ばれる立場といい、何か特別な存在であることは確かなのだろう。洗脳の中心という役割は、あの牢の中だけでなく表舞台でも担っているのだろうか。
「分からないが、この絵の描かれ方からして、崇拝されるような立場なんだろうな」
似たような見解を示しながら、合崎は不意に私のフードをより深く被らせた。フードの隙間から流れた髪も、外套の中に仕舞われてしまう。
「……せめて憐だけは、顔を見られないようにしないとな。大騒ぎになるぞ」
確かに、雰囲気はまるで違うとはいえ、顔がこれだけ似ていれば混乱を招きかねない。あのシアンでさえ、一瞬眉を寄せるほどだったのだから。
「気を付けるよ」
騒ぎになって、再びシアンの手の中に堕ちるのだけは絶対に避けたい。今も、こんなにも全身が痛みを訴えているというのに、死の間際にこれ以上傷を増やされては敵わない。
「まあ、見つかっても、きっと何とかしてやるよ。……だから、そんな顔するな」
合崎の手が不意に私の頬に伸びる。私は、そんなに怯えた表情をしてしまっていただろうか。見上げる合崎の目には、僅かな怒りが滲んでいるように見えた。その怒りは、シアンに向けられたものなのだろう。私のために、怒ってくれるだなんて、彼は本当に不器用で優しい奴だ。
「……ありがとう、空兄様」
思わず、「憐」として応えてしまった。無意識の内に零れた言葉を、自分の耳で聞いてから恥ずかしさが込み上げてくる。
合崎はそんな私を数秒間見つめ、ふっと視線を逸らしてしまった。僅かに耳の端が赤い。そのまま二人して黙り込んでしまう。この微妙な間が余計に気恥ずかしかった。
「あ、合崎がいきなり空兄様みたいに優しくなるからいけないんだぞ! 卑怯だ!」
沈黙に耐えきれなくなった私が口にしたのは、そんなどうしようもない言い訳だった。
「な、何言ってるんだ。どちらも俺であることに変わりはないだろう……?」
「私の中では大違いなんだ! ほら、さっさと先に進むぞ!」
私は合崎の手を掴んで、先に歩き出した。大失態だ。こんなところで、「憐」を見せてしまうなんて。
そんな私の動揺が伝わってしまったのか、すぐ後ろから可笑しそうに笑う声が響いてくる。前言撤回だ。合崎は、やはり腹立たしい奴でしかない。普段なら銃撃戦に発展してもおかしくなかった。
けれども、私もつられるようにして口元が緩んでしまう。こんなやり取りが実は幸せなことだったのだと、今更気づいてしまった。意外にも、私の短い人生は満ち足りていたのかもしれない。この腹立たしくて優しい「兄」のおかげで。




