第81話
「この施設を抜け出すのは、それほど困難じゃない」
人目を避け、長く続く廊下を歩きながら合崎は説明してくれた。
「この施設を抜けた先の通路が……入り組んでいて厄介なんだ」
この施設だって、見たところ単純な造りはしているわけではなさそうなのに、「影」の入念さには思わず感服するレベルだ。
「……信者の脱走防止の意味も兼ねているのかもな」
「ああ。おまけに照明もない。そしてそんな暗闇の中を人工知能が巡回してる」
私たちは本当の暗闇というものを実感したことがない。光のない状態がどんなものなのか、よくわからないのだ。眠るときでさえ、部屋中の電子機器や人工知能がほんのりと淡く発光しているのだから。
「それって……お前も相当危なかったんじゃないのか?」
いくら合崎でも、暗闇の中で正確に発砲することは出来ない。そんなこと、プロの軍人だって不可能だろう。いつ撃たれるか知れない暗闇の中を、たった一人で進んできたというのか。
「端末で辺りを照らして、人工知能に見つかり次第破壊してきたからな。さして問題なかった」
軽く笑って、合崎は私を振り返る。笑い事じゃない。一歩間違えれば死んでいてもおかしくなかったのだ。合崎がそうまでして助けに来る価値が、私にあるとは思えなかった。
「……お前の判断基準は、どう考えてもおかしい」
「憐は数日のうちに一層手厳しくなったようだな……」
溜息を交えながら、合崎は再び前を向く。その後ろ姿は少しだけ寂し気だ。
「まあ、仕方ないか……」
ぽつりと独り言のように呟くその声は私にも届いた。
ああ、そうだよ。仕方ないんだよ。今の私には、この馬鹿な次期軍師を帝国へ導くので精一杯なんだ。ただでさえ、息をするにも苦しいのに。
「さてと……お約束の非常階段だな」
彼は廊下の隅に設置された非常階段の扉に手をかける。いくら「影」の外套を纏っていても、エレベーターの利用はリスクが高い。バレてしまえば全ておしまいだ。私なんて、あっという間に捕らえられてしまうだろう。そしてきっとまた、猟奇的な目で笑うあの道化師に傷つけられる。
いや、今度はきっと命を奪われるのだろうな、と自嘲気味な笑みが零れる。もういっそそれでもいいという投げやりな気持ちもあるが、それでもあいつの姿を思い出すだけで肩が震えてしまう。薄暗い階段の先にも、あいつがナイフを片手に笑って待っているような気がしてならなかった。
あの嘲笑の中で絶命するのはやはり御免だ。絶対に、せめてこの命が絶えるまでは逃げ切らねばならない。
「……憐? どうした? 顔色が悪いぞ」
階段に一歩踏み出した合崎が、私の手を握ったまま訝し気に尋ねてくる。気遣うように私と同じ段まで上がってくるのが分かる。
すぐ隣に、合崎の存在を感じてそっと顔を上げた。彼の目は暗く深く沈んだ色をしている。彼をここまで病ませたのは、きっと私だ。今は、私が怯えている場合ではない。彼を導いて、私から解放してあげなければならないのだ。
「……照明のせいだろ」
下手な誤魔化しだと我ながら思う。でも、本当のことが言えるわけがなかった。シアンのことが恐ろしくて怯えているだなんて言ったら、きっと合崎を動揺させてしまう。
そうして階段を降りようとすると、唐突に腕を掴まれ引き寄せられる。状況を把握する間もなく、そのままふわりと抱き上げられてしまった。
「――何の真似だ」
戸惑いを打ち消すように発した私の声は、予想以上にふてぶてしかった。そんな私の声と同じくらい、合崎も無愛想に答える。
「その傷じゃ、階段は降りられないだろ」
「……私は平気だ。今すぐ降ろせ」
私のささやかな抗議の声も聞き入れず、合崎は淡々と足を進める。そうしていつも通りの腹立たしい笑みを見せた。
「嫌なら、誘拐なんかされなきゃよかったのに」
「……好きでされたわけではない」
「もう、憐なんてずっと『白』から出なければいいよ」
合崎は不意に視線を伏せ、ぽつりと呟く。口元は小さく笑んだまま、一層瞳を暗くさせるその表情に、ずきりと胸が痛んだ。こんなにも心配させているのに、今からあと少しで私は彼に更に大きな動揺を与えるのか。
「……やっぱり、お前の言う通り、お前は私に会わないほうがずっと幸せに生きられたんだろうな」
悲観ではない。これは紛れもない事実だ。私たちには、出会えてよかったと思えるほど幸せな思い出も、楽しかった時間もない。あるのは鬱々とした毎日の中で、視線を逸らし合いながらその日を醜く生き抜いて、未来を想っては塞ぎこんで、報われない想いをそれでも想い続けた、救いようもない日々だけだ。
「――なんだ、急に」
それなのに、私は彼を突き放せない。不思議だ。彼は私のことなんて、本当は少しも気に留めていないのに。
「……あるのは、洗脳された想いだけ、だもんな」
こんなに心配してくれるのも、優しくしてくれるのも、結局は全て帝国に仕組まれた想いの結果なのだ。
長い沈黙が訪れる。合崎の靴音だけが、延々と続く階段に響いている。この静寂が妙に居心地悪く、彼の表情をそっと伺った。その瞬間、私は言葉を失った。
合崎は、酷く悲し気に、そしてどこか悔し気に瞳を伏せていた。その愁いはあまりにも深すぎて、今にも何かが壊れてしまいそうだ。私の言葉がまた、越えてはいけない一線を越えてしまったのだろうか。ふっと呟いただけの言葉なだけに、激しい後悔の念に襲われる。
私の視線に気づいたのか、合崎は愁いを帯びたままの瞳で、酷く寂し気に私に笑いかける。心臓が、大きく脈打つのが分かった。
「……今のは、ちょっと応えたな、憐」
「――っ」
ごめん、の一言も言えない。そんなに軽々しく謝れない。どうしてこんな時まで、私は人を傷つけてしまうのだろう。
彼は、真っ直ぐに前を見据え足を止めることはしなかった。彼が今、何を想っているのかは分からないが、珍しく黙り込むあたり相当きついことを言ってしまったのだという自覚はあった。
洗脳ではない、合崎の想い。そんなものはありはしないはずだが、わざわざ助けに来てくれた今の彼に言う台詞ではなかったのかもしれない。一秒ごとに後悔が募っていく。私は思わず掌をぎゅっと握りしめた。
その瞬間、手の甲に激痛が走る。つい、いつもの癖でやってしまった。僅かに流れだす赤から思わず視線を逸らすと、不意に合崎と視線が合ってしまう。今にも崩れてしまいそうな不安定さで、彼はふっと微笑んでみせた。胸の奥がずきりと痛む。彼の愁いに飲み込まれてしまいそうだ。
「嫌われるのは、慣れているから構わない。俺には何を言っても、何をしても罰に怒らないが……」
僅かに、肩に添えられた手に力がこもる。合崎のその不安定な目の中に、支配者の怜悧な光が宿った。
「憐が傷つくことは、絶対に許さない。どんなに謝っても、その傷がたとえ憐自身の手で負ったものだとしても、絶対に」
脈が速い。その瞳に捕らえられてから、寒気が収まらない。一気に罪人にでもなった気分だ。合崎の言葉は、信じざるを得ないような、妙な気迫がある。やはり、彼は支配者の器だ。
最初から、許してもらおうだなんて思っていない。苦しみから、痛みから、逃れるように薬を飲み干した私を、自分勝手だと笑えばいい。
再び視界が霞みだす。それを誤魔化すように、私は微笑んで見せた。
「私は……大罪人だな、合崎」




