第78話
まさか、このタイミングでシアンに鉢合わせてしまったのかと身構えたが、入室してきた足音はシアンよりもずっと軽やかなものだった。綺麗に手入れされた亜麻色の髪と青色のワンピースの裾が揺れる。その姿は間違いなくアザレアのものだった。
彼女は訳も分からず突進してきたようで、その勢いのまま合崎に抱きついた。予想外の行動に驚く私たちをよそに、アザレアはまるで懇願するように口を開く。
「お願いっ! もう、憐を傷つけないでっ! 私に出来ることなら何でもするから……何でもシアンの言う通りにするからっ!」
半分泣きじゃくるようにしてアザレアは訴えた。合崎は茫然としてそんな彼女を眺めている。無理もないだろう。顔はしっかり見えていないとは言えども、私と同じ髪の色に同じような背丈なのだ。加えて突然抱きつかれ、身に覚えのないことを訴えられたら、恐らく柊でさえ、多少は戸惑う。
「ねえ、お願いだよ、シアン。もう、憐を許してあげてよ……。こんなに痛かったら、憐が死んじゃうよ」
顔を俯かせ泣きじゃくるアザレアには合崎の顔は見えていないらしかった。合崎はアザレアを支え、私を後ろ手に庇った体勢のままひどく困惑した表情を見せる。
「……アザレア」
「いいの! 憐は黙ってて! シアンは本当は優しい人だから、きっと分かってくれる、大丈夫だよ」
「いや……今、抱きついている相手は、シアンじゃないぞ」
非常に言い出しにくかったが、おずおずと事実を告げる。その言葉にアザレアはようやく顔を上げ、合崎を見つめた。涙で潤んだ瞳で合崎を見上げながら、数秒かけて頬を真っ赤に染めていく。こんな可愛らしい表情が、自分と同じ顔で出来ることに驚きを隠せない。
「ええっと……だ、誰? いや、あの、ごめんなさい……!」
アザレアはすぐさま合崎から一メートルほど離れると、ひたすら頭を下げ始める。合崎はそんな彼女を見て困ったように笑ってみせた。
「……問題ない。……それより、君が憐の片割れか?」
その言葉に私もアザレアも顔を上げ、ほぼ同時に口を開いた。
「アザレアのことを知っているのか?」
「私のことを知っているの?」
息を合わせたわけでもないのに、言葉が重なり、どちらからともなくふっと笑った。幼い頃はこんなこともよくあったのだろうか。合崎もそんな私たちの様子を見て、珍しく柔らかな表情を見せる。
「千翔から存在は聞いていた。憐の片割れなのに、可憐な人で驚いたよ」
「……お前はいちいち一言余計な奴だよな」
合崎を一睨みして、溜息交じりに吐き捨てる。こんな時まで、本当にどうしようもない奴だ。
ふと、アザレアを見やれば、彼女だけがこの状況を把握できていないようだった。実の双子の姉妹に血も法の繋がりもない「兄」を紹介するというのは少々複雑な気分であるが、仕方がない。
「アザレア、こいつが私の『兄』だ。もっとも、ただの腐れ縁に過ぎないが……。不快な気分になるだろうから、あまり近寄らないことをお勧めするよ」
「……一言余計なのはお互い様のようだな、憐」
「ああ! そっか!」
アザレアはぱっと表情を明るくして口を開いた。
「憐の大好きな人だね!」
どくん、と心臓が大きく脈打つ。純粋なアザレアの声で紡がれる「大好き」は私には荷が重すぎたが、やはりどうしても多少の気恥ずかしさはある。
だが、薬のせいかはっきりとした思考が働かない今、上手くはぐらかす言葉も見つからなかった。それに、直に絶えてしまうこの命ならば、多少は素直になってもいいかもしれない。
「……まあ、そんなようなものかもな」
無論、合崎へ向ける感情は「好き」の一言で片づけられるような代物ではないのだが、大きく的を外れているというわけでもないだろう。どれだけ酷いことをされても、嫌いにはなれない。割り切れない想いは実に私たちらしい。
ふと、合崎の視線を感じて顔を上げると、一瞬だけ彼と視線があった。だが、すぐに目を逸らされてしまう。その耳の端が僅かに赤いような気がしたが、気にする間もなくアザレアがどこか寂し気に口を開いた。
「お兄さんがお迎えに来たってことは……やっぱり、帰っちゃうんだね」
その通りなのだが、いざアザレアにそう言われると一種の罪悪感めいたものが芽生える。アザレアとは、この一週間で随分と打ち解けた。血の繋がりというものを初めて教えてもらった。それに、手当てをしてくれていたこともあって、彼女の優しさをここに取り残していくことに申し訳なさを覚えてしまう。
「……色々と親切にしてくれたところ悪いが……私はどうしてもここにはいられないんだ。帰らなければならない」
「でも……その傷じゃ無理だよ。特に右手なんて動かせないくらい痛いのに……」
妙な言い回しだ。痛いのはアザレアではなく私だというのに。それでも違和感を殺しながら、私は敢えて笑ってみせた。
「別に、今更このくらい何てことない」
「心配してるんだよ。……2時間前くらいに急に痛みが和らいだけど……もしかして麻痺してるんじゃ……」
まただ。思わず眉を顰めてアザレアを見てしまう。彼女もまた、ただただ心配そうに私を見ていた。
「……まるで、この痛みが判っているような言い方だな」
その言葉に、アザレアは拍子抜けしたような表情をしてくすくすと笑い出した。相変わらず、邪気の欠片もない笑顔だ。
「嫌だなあ、憐。忘れちゃったの?」
彼女は、ふっと綺麗な微笑みを浮かべて告げる。
「私の特技は、大切な人の痛みを分かち合えることだって……。言ったでしょう?」
この間と同様に、アザレアは何でもないことのようにふわりと言い放つ。だが、私は全身の血の気が引いていくのを感じていた。
痛みが分かち合える。まさか、アザレアはそれを心理的な意味合いだけで使っているわけではないというのだろうか。感覚として、彼女にとって大切な人の痛みを引き受けているとでもいうのだろうか。
もしそうならば、私の傷をまるで自分のことのようにいい放つあの妙な言い回しにも納得がいく。そのことに気づくと、余計に寒気に襲われた。
「素敵な特技だな。憐も見習うべきだぞ」
アザレアの言葉の真意に気づいていないらしい合崎は、世間話程度にしか思っていないのだろう。いや、気づかなくて当然だ。私だって、今まで疑ってもみなかったのだから。
「ありがとう、憐のお兄さん」
アザレアは律儀に礼をして、澄んだ瞳で惜しみなく笑顔を振りまく。見慣れたはずの彼女の綺麗な笑みも、今では私の目には信じがたいものとして映っていた。
もしも、アザレアが今、私と同じ痛みを、瀕死寸前のこの苦しみを感覚として受容しながら、その笑顔を振りまいているのだとしたら。それは、あまりにも異常な光景だ。
大切な人の痛みが判る。確かに、愛する人が目の前で苦しんでいれば、その痛みを分かち合いたいと思うだろう。だが、それは実際には叶わない。叶わないことのはずなのに、彼女にはそれが出来てしまっている。不幸にも、叶ってしまっている。
私が「何も忘れられない」ように、合崎に「終末がみえる」ように、恐らくアザレアは「大切な人の痛みを分かち合える」のだ。
その事実を知った上で見るアザレアの笑顔は、この上なく憐れで、そしてその強さが恐ろしくもあって、気づけば私の肩は軽く震えだしていた。アザレアは今まで一体どれだけの痛みに耐えてきたのだろうか。今だって、死にそうなほど深いこの傷の痛みを分かち合って、どうしてそんな無邪気に笑っていられるのだろうか。
シアンが、アザレアの自由を制限する理由もきっと単なる独占欲ではなかった。シアンなりに、アザレアの身を気遣ったのだ。彼女がこれ以上、痛みを引き受ける相手を増やさぬよう、大切に世界から守ってきたのだろう。シアンは許すことのできない人物だが、アザレアへの愛情だけは本物だと認めざるを得ないようだ。
「……憐?」
私の肩の震えに気づいたのか、合崎は私の表情を窺うように視線を合わせ、私の頬に触れた。普段は冷たく感じるはずの合崎の手が、温かく感じる。それほどに今私は青白い顔をしているのだろうか。
私がシアンに右手を裂かれるまで叫ばずにいられたのは、アザレアが私の痛みを引き受けてくれていたからだ。彼女は私を手当てしながらずっと、私の痛みを分かち合ってくれていたのだ。
「……いつからだ」
私の声は、予想以上に暗く沈んでいた。アザレアは不思議そうに首を傾げてみせる。
「いつから、私の痛みが判っていた?」
アザレアは、ふっと微笑んで見せる。その穢れのない純真な笑顔さえも、今となっては恐ろしい。
「最初から、ずっと」
合崎だけが、そんな私たちのやり取りを訝し気に見つめていた。当然だろう。まさか、先ほどのアザレアの言葉で、彼女が人の痛みを分かち合い、それを感覚として受容しているだなんて、普通の会話で考えるはずもない。
「……私たちは、呪われてるなあ」
思わず、自嘲気味な笑みが零れた。この異常な記憶力も十分大きな呪縛だが、大切な人の痛みを本当に分かち合ってしまうよりはマシかもしれない。本当に憐れまれるべきは、私ではなくきっとアザレアの方なのだろう。




