第77話
体中の痛みに震えるようにして目が醒める。私はしばし辺りを見渡して、ようやく状況を理解した。あれは、そうか、夢だったのだ。走馬灯にも似た夢は、死を待つだけの私に束の間の安らぎを与えてくれた。
それにしても、と私は自分のすぐそばに落ちた薬の包装フィルムを眺める。無論、中身はもう無い。
目覚めてしまったということは、意識を失うまでにまだ一、二時間はありそうだ。長いくらいだ。だが、鎮痛剤が効いているのか痛みは少し和らいでいる。安らかに眠ることが出来そうだ。後は、この一、二時間の間にシアンがここに来ないように祈ることくらいしかできない。
ようやく私は記憶の呪縛から解放される。一秒も欠落しない時の重みから、逃れられるのだ。それをどれだけ長い間待ち望んでいたことか。
もう全部、終わるんだ。私は霞んだ視界に自分の血だらけの右手を捉える。早く、見えなくなってしまえばいい。こんなくすんだ赤も、灰色の牢も、金属の冷たい鎖も、指切りをした小指も、あの子が笑った廊下の白い光も、大切な人たちの面影も、何もかも全部この視界から奪われればいい。
早く、全てを消し去って。あと二時間も耐えられない。私はもう、こんなにも泣きそうなのだから。
自ら勇んで毒を煽ったとはいえ、今はただただ怖かった。大切な人たちを想う度、二度と会えないことを痛感させられる。何を見たって、目を閉じたって、思い出してしまう。生きることを諦めた私には、それが何より辛かった。「死にたくない」なんて思ってはいけない。だってこれは、帝国を、大切な人たちを守るための小さな犠牲なのだから。感情論では世界を救えない。愛じゃ帝国は守れない。
私では、合崎を導けなかった。私じゃ駄目だった。
涙を必死に堪えながら、私はそっと目を閉じる。この先、彼はどう生きていくのだろう。屈折した想いでも、私はきっと彼に大切にされていた。その思いを裏切って先立つ私をどう思うだろう。
きっと、彼は許さないのだろうな、と薄い笑みが零れた。当然のことだろう。どれだけ月日が流れようとも、こんな結末しか迎えられなかった私が、彼に許される日はきっと来ない。その事実が、今更心に重くのしかかるようだった。
この先、彼が傷ついた時に誰が傍にいてくれるのだろう。誰かがいてくれるというのならば、その「誰か」にすべてを託したい。彼の心を守り抜いてほしいと伝えたい。だが、残念ながらそれも今となっては叶わない話なのだ。
――せめて、最期に会いたかったなあ。
その瞬間、ガチャリと金属のドアが開く。反射的にびくりと肩が震えた。床に横たわっている状態では、来訪者の足元で誰か判断せざるを得ない。もっとも、そんなことすら今の私の視界では難しいのだが。
ぼんやりと浮かぶ黒い影はきっとシアンだろう。ゆっくりとこちらへ近づいてくる。意志に関係なく、私の体は小刻みに震えていた。右手を切り裂かれたとき、耐えきれずに叫びだしてしまってから、シアンに対する恐怖は絶対的なものになってしまったのだ。
落ち着け、落ち着くんだ。今までずっと耐えられたんだ。あと二時間くらい大丈夫なはずだろう。むしろ死が早まると思えば、不幸中の幸いだ。
私のすぐ傍まで近づいてくる気配がする。怯えていることが悟られないよう、必死に顔を俯かせた。それでも、肩の震えは止まらない。今度はきっと刺されてしまうだろう。そんな気がしてならなかった。銃弾は以前に受けているため想像がつくが、ナイフで刺される感覚は想像もできなかった。相手の力加減で絶命に至るか否かが決まる辺り、銃よりも質が悪いかもしれない。
やがて、手錠を軽く引かれる感覚があった。思わず、閉じていた目を更にぎゅっと瞑る。
「――絶対に動くなよ」
シアンにしては静かで冷静なその声と同時に、銃声が響き渡る。思わず、銃弾を受ける痛みを想像したが、数秒経っても新たに痛む傷はない。
代わりに、手首に巻かれていた鎖が解かれる感覚があった。恐る恐る目を開けると、黒グローブの手が丁寧に鎖を取り除いている。
そのグローブの端に刻まれた見慣れた紋様に、私は血の気が引いていくのを覚えた。咄嗟に上体を上げようと体を動かしてしまう。
「危ないな、急にどうした」
痛みに耐え、ほんの少し上体を上げて来訪者を見つめる。その姿に私は絶句した。
そこには、シアンの部下たちと同じ黒い外套を纏い、フードを目深に被った合崎の姿があった。僅かに覗く首の線状の傷からして間違いはない。
「今、足枷を外す。動くなよ、当たったら洒落にならない」
彼がそう注意するなり、二発目の銃声が響く。鎖を銃弾で破壊しているのだろう。そんな冷静な合崎の姿とは裏腹に、私はこの状況が飲み込めずにいた。
やがて、足枷も完全に外され、数日ぶりに自由を手にした私を黒グローブの手が抱き起した。彼に再び会えたことは喜ばしいはずなのに、混乱して現実を受け止めきれない。
「何で……どうして……ここに……? その、服は一体……」
嫌な予感が過った。もしも、彼が私を助けるために「影」に堕ちてしまっていたら。そう考えるだけで、ぞっとした。だが、合崎はフードを外しながら軽く笑う。
「ああ、これは侵入時に邪魔してきた奴の外套を頂戴したんだ。おかげで随分と楽にここまで来られた」
その言葉に、心底ほっとした。だが、同時に私の心の中は一層複雑になる。
私はもう、薬を飲んでしまった。この命は、もって精々あと一、二時間なのだ。折角合崎がここまで助けに来てくれたが、もう結末は定められてしまった。だが、そのことを合崎に告白したら一体どうなるだろう。
答えはもう、分かりきっていた。私は後ろ手にさりげなく薬の包装フィルムを隠す。彼に悟られてはいけない。少なくとも、彼を帝国へ導くまでは。
「……どうして、こんなところに来ちゃうかな……」
どれだけ危ないか、彼は自覚していないのだろう。私がどんな思いでこの数日間耐えていたのか、彼には分からないのだろう。
「……何で、気づかないかな」
今にも涙が零れそうだった。私は合崎たちを守るために、自らの命を絶つことを選んだのに、どうして自らその命を危険に晒すのだろう。それも、あとほんの少しで消えてしまう私のために。
「喧嘩の続きは後にしないか、憐」
その言葉と同時に、軽く抱きしめられる。やはり、素直に喜べない。合崎だってシアンと闘うようなことになれば、どうなるかわからないのに。
「……本当に、目も当てられないほど血まみれだな。嫌になる」
そんなことを言いながらも腕に力を込める合崎は相変わらずだ。こんな状況下でも腹立たしい。言っていることとやっていることがまるで正反対だ。嫌になるなら離せばいいのに。
「憐が言い返してこないとは、気分がいいな。またとないチャンスだ」
くすくすと笑う合崎は、ここが牢の中だということを忘れさせそうなほどに楽しそうで、どんな表情をするべきなのか分からなくなる。正直、呆れている部分もあるかもしれない。
「全く……お前は何でこんな時まで余裕をかましているんだ……」
「こういう時にかませない余裕なんてただの強がりだろう。憐はまさにそうだな」
「……うるさいな」
そう言いながらも咳き込んでしまう。シアンに蹴られているうちに、どこか傷ついたのだろう。口を押えた手には鮮やかな赤が付着していた。
「……憐っ」
合崎の焦ったような声が響く。私は思わず。にやりと笑って彼を見上げた。
「ほら……お前も強がりじゃないか」
「――……怪我人は黙って助けられてろよ」
そう言いながらも、合崎の瞳は暗く沈んでいた。何だかんだで心配をかけてしまったようだ。私はなるべく気丈に振舞って笑ってみせる。
「笑えば何でも許されると思っているだろ」
合崎は呆れたように私を眺めていた。その深い色の瞳とばっちり目が合うと、彼は少し戸惑うように視線を逸らした。
「……まあ、大正解だけど」
そう呟いて、合崎は私から手を離す。私は比較的傷の浅い左手で上体を支えた。鎮痛剤を飲んでいても、体重をかければひどく痛む。思わず表情を歪ませてしまった。
「……それで、どうする?」
合崎は包帯やガーゼを取り出し、私の右手を取った。いまだ塞がっていない生々しい切り傷を見るなり、一瞬苦し気な表情を見せたが、すぐに冷静な面持ちに戻る。
「……どうする、とは?」
「帝国へ戻るか、このまま『影』に堕ちるか、だよ」
合崎は私の傷口に真っ白のガーゼを当て、その上から包帯を巻き始める。ガーゼの感触が痛くて、自然と手が震えた。
「……悪い、でも、そのままっていうのはまずいだろ」
彼は不器用に謝罪を述べながら、手当てを続けた。アザレアに比べれば丁寧さに欠けるが、技術は劣っていないようだ。何でもそつなくこなすあたり、妙に腹立たしい。
「……『影』に堕ちるくらいならば、死んだ方がいい」
私は合崎から視線を背けて告げた。だからこそ、薬を飲んだのだ。今更言うまでもない。
「――そうか? 憐がいなくなることよりも悪いことが、この世にあるとは思えないんだがな」
その言葉に、ずきりと胸が痛んだ。薬を飲んだことを指摘されたわけでもないのに、責められたような気分になる。脈が早まっていた。
彼は、目の前で私が死んだらどうなるだろう。考えたくもない。きっと、錯乱状態なんてものでは済まない。今度こそ、彼が崩壊しかねない。
「このタイミングで黙り込まれると、けっこう傷つくんだが?」
「つまらない冗談に付き合っていられるほどの体力はない」
「……想いが屈折していく要因は憐にもある気がする」
合崎は包帯を巻き終えると、溜息交じりに私を見つめた。やはり、その瞳はいつもにも増して暗い。
「他の傷も酷いが……これ以上深追いはしない。帝国へ戻りたいのなら、早くここを出よう」
そう言って合崎は私に手を差し出した。黒い外套に身を包む彼はいつもよりも一層凛として見えた。
「……立てるか?」
この傷では恐らく無理なのだろうが、私は立たなければならない。彼を、帝国へ導くために。
「――立てる」
私は差し出された手を無視して、壁伝いに立ち上がろうとするも、案の定、途中でふらついてしまった。そんな私を合崎は難なく受け止める。最後まで、彼には借りばかりが増えていく。
「人の厚意は素直に受け取るべきだな、憐」
それを合崎に言われるなんて。普段だったら銃撃戦が始まりそうな展開だ。だが、私は答えを返す気力もなく、ただ溜息をついた。
その瞬間、勢いよくドアが開かれ、何かが合崎に突進してくる。咄嗟のことに、合崎は私を庇うように引き寄せながら銃を構え半身だけ振り返った。




