第76話
まだ真新しい学院の制服に身を包んだ私は、ラウンジの白い階段に腰を下ろし、膝に額をつけるようにして蹲っていた。学院に入って間もない頃の記憶だ。二つに結った長い亜麻色の髪の束が、白い制服の肩を滑り落ちる。
「……泣いてるのか?」
隣に感じる彼の存在にも、私は顔を上げない。沈黙が人気のない階段を流れていく。
「――……やっぱり、受け入れてもらえなかった」
ぽつりと呟いた私の声は、酷く掠れていた。分かってことのはずだったのに、いざ現実を見せつけられるとやはり多少は落ち込んでしまう。「白」しか知らない私にとって、クラスメイトとの差や間に立ちはだかる壁は、言い知れないほど大きなものに感じたのだった。
「だろうな。一秒も忘れられないだなんて、正直言って気色悪いからな」
「――うるさいな。死神の子は黙ってろ」
「ほら、その口の悪さも一因だろ」
最早、深く溜息をつく他に無かった。こいつに相談した私が馬鹿だった。「終末がみえる」彼ならば、この痛みを分かってくれるかもしれないという淡い期待は、いとも簡単に踏みにじられた。
「……ずっと、こんなものなのかな」
残りの学生生活も、社会に出ても、軍師になっても。ずっとずっと、私たちに向けられるのは冷たい軽蔑と怯えたような目だけなのだろうか。
「嫌なのか?」
意外そうに、彼は問う。頭がおかしいんじゃないかと本気で思う。
「嫌だよ」
嫌に、決まっている。問うまでもないはずだ。私だって、友人が欲しい。他愛もないことで笑い合えるのなら、どんなに楽しいだろう。
でも、その分裏切られる可能性も、傷つけられることも多くなる。本当ならば忘れてしまいたいようなそんな出来事でさえ私は、一生記憶に刻み続けてしまうのだ。それを思うと、人との付き合いが怖くなるのも確かだった。
「……そういうお前はいいのか? 今のままで」
私は軽く顔を上げて、黒い制服姿の彼を見上げた。彼は深い色の瞳を私に向けると、可笑しそうに笑ってみせる。
「ああ、充分だよ」
「……私には一生、お前の感性は理解できそうにないよ」
深い溜息と共に、私は再び顔を伏せる。遠くでは、生徒たちの活気にあふれた声が響いていた。
やがて、そんな沈黙を切り裂くように、彼は静かに口を開く。
「あと少しだけ頑張ってみて、それでもやっぱり駄目だったら――」
彼は私のすぐ隣に座り込むと、そっと私の手を握った。
「――もう、そんな目が届かないようなところに、逃げてしまえばいいよ」
ふっと笑うような優しさの含まれた声に、私は顔を上げることもできなかった。私の手を握る温度の低いその手は、相変わらず、私を動揺させるのが上手な手だった。
「……そのときには、一緒に行ってもいいかな」
完全に、「空兄様」の口調で彼は言う。不意に優しくされると、どう反応していいかわからない。彼はそれを見越したうえで行動に移しているような気がして、余計に質が悪かった。
でも、私はこの優しさに逆らえないのだ。私は何も言わずに、彼の手を握り返した。彼には、これで充分伝わるのだろう。本当に、癪に障る奴だ。
「ね、ね、空兄様っ!」
幼い私は二つに結った髪を揺らして、読書中の空兄様の背中に飛びついた。
「憐っ? 何だよ、いきなり」
「実験」の前の、穏やかな毎日。まだこの世界が美しく見えていた頃の記憶だ。
「あのね、先生がね、すっごくきれいなゆびわをしてたの! 先生って、本当はお姫さまなのかなあ」
幼い私は至って真剣に悩んでいた。それほどに、先生の薬指に光る指輪が特別なものに見えたのだ。
「あれは、ただの結婚指輪だよ。なんてことない、帝国中にあふれてる」
空兄様は吐き捨てるように答えを返した。このころの彼は、幸せというものに過敏な拒否反応を示していた気がする。
だが、幼い私はそんな空兄様の心情など汲み取れるはずもなく、夢見るように息をついた。
「じゃあ、あれは先生の好きなひとからもらったものなんだね!」
「恋愛結婚なら、そうなんだろうね」
彼は手に持った本のページを捲りながら、退屈そうに私の話に付き合っていた。
「憐のお父さんとお母さんも、つけてるかなあ、ゆびわ」
私は空兄様から手を離して、背中合わせに座り込む。空兄様の背中が僅かに震えた気がした。
「……お母さん、うれしかったよね、きっと。お父さんからゆびわもらったとき」
幼い私は、深い考えもなしに想像を膨らませていく。ちょうど、そういったことを夢見る年頃だったのかもしれない。
「……憐のお父さんとお母さん、どこにいるのかなあ? どうして憐は、家族と一緒じゃないんだろう」
蹲るように、自分の胸に膝を寄せてぼんやりと幼い頭で考えた。空兄様の背中に寄りかかるようにしていると、不意に背後で冷静な声が告げる。
「どこにもいないよ。ぼくらには、家族がいないからここにいるんだ」
私は何度か大きく瞬きをして、膝に額をつける。彼はそんな私に構うことなく続けた。
「ぼくらは、帝国中に溢れている想いだとか幸福だとか、そういう温かいものの外側にいるんだよ。憐も、早く自覚したほうがいい。ぼくらの帰りを待っていてくれる人なんて、どこにもいないんだってことを」
「憐は、まってるよ」
幼い私は静かに笑ってみせる。
「空兄様が帰るのを、毎日、待っててあげる」
私はくるりと振り返り、膝立ちで少し移動すると、空兄様の隣に座り込んだ。訝し気な彼の視線が向けられる。
「想い、がほしいなら、憐が空兄様の大切なひとになってあげる。それなら、空兄様寂しくないでしょ?」
満面の笑みを浮かべて、彼の深い色の瞳を見上げた。だが、彼はすぐに気まずそうに視線を逸らす。
「……駄目だよ、そんなの。憐がかわいそうだ」
「どうして? 憐は空兄様が大好きなのに」
「誰かを大切にするとか、そういうの、よくわからない。どんな本を読んだって、少しも分からないんだ」
「空兄様のうそつき」
私は、幼さに似合わぬ複雑な表情を浮かべる空兄様を、覗き込むように笑いかけた。空兄様の瞳が大きく揺らめく。
「空兄様は、憐を大切にしてくれてるもん。憐、ちゃんとわかってるよ。大切にしてもらってるなあって」
幼さゆえの真っ直ぐな瞳で、私は改めて空兄様の目を見据える。
「だから、空兄様はいつか憐にゆびわをくれるの! そうだといいなって思うの」
空兄様はしばらく唖然とした表情で幼い私を見下ろしていた。そうして、やがて可笑しそうにくすくすと笑い出す。
「憐って……本当、おもしろい」
そういうと、空兄様の手が、幼い私の頭をポンポンと撫でた。
「――僕も、そうだといいなって思うよ」
その言葉に、幼い私はこれ以上ないくらいにはしゃいでみせる。
「ほんとう!?」
「うん」
「じゃあ、やくそくね!」
そう言って、私は右手の小指を差し出す。空兄様は苦笑いを浮かべた。
「――あとで嫌だって言ったって、知らないよ?」
「大丈夫だよ、いやになんてならないもん!」
空兄様は呆れたように笑うと、そっと右手を差し出した。その小指に、私は自分の小指を絡める。
「やくそく! 忘れちゃいやだよ、空兄様」
「大丈夫、忘れないよ。――ずっとね」
「憐姉様ぁ……」
泣きじゃくった千翔が、白いワンピース姿の私の許へやってくる。千翔と出会って、数か月が経った頃のことだった。
「今日はどうしたの?」
私は読書をしていたテーブルを離れ、小さな両手で目を擦る千翔の傍へ歩み寄る。
「……誰にやられたの?」
千翔の左頬には、物を投げつけられてできたような痣があった。千翔は質問に答えることなく泣き続ける。
「とりあえず、医務室に行こう? 傷を診てもらわないと」
「……傷、残っちゃいますか?」
瞳を潤ませたままに、ぽつりと千翔は尋ねた。幼い妹の思わぬ可愛らしい面を見たものだと、私は小さく微笑む。
「ませてるんだな、千翔は」
からかうように笑ってみせるが、千翔はしゃくりあげながら告げる。
「だって……傷物に、存在価値は無いって……売れないようなものは、すぐに殺されちゃうって……」
千翔の肩に刻まれた番号が、目に焼き付くようだった。私はすぐさま、視線を逸らしてしまう。この時の私は、その番号の意味を完全に理解しているわけではなかったが、それでも彼女にとって忌むべき証であることは分かっていた。それに、千翔の話を聞いているうちに、大体のことは察していたのだ。
「――そんな言葉、忘れてしまった方がいいよ。暗い世界のことも」
「ここは……私には明るすぎます。何もかもが違いすぎて……」
医務室へ続く廊下に、二人分の足音が響いていく。
「すべてを、受け入れる必要なんてないよ」
私は真っ白な廊下の途中で、千翔から僅かに視線を逸らして続ける。
「この場所に慣れないのなら……この帝国が生きづらいのなら……私を、信じてくれないかな。一人でいるよりは、少しは、……楽しいって思えるかもしれないよ」
気恥ずかしさで頬は真っ赤になっているだろう。ちらりと千翔の方を見やれば、彼女は大きな瞳を見開いて私を見つめていた。やがて、再びその瞳が潤み出す。
「……確かに、それはとても楽しそうです」
彼女は涙を浮かべたまま、底抜けに明るい笑みを浮かべ、私の手を取る。
「私、憐姉様のお傍にいることにします!」
そう言った彼女の表情が本当に朗らかで、温かいものが胸一杯に広がっていくような気がした。やがて、私も小さく笑い返し、千翔の茶色の髪を撫でる。白い廊下には、二人分の笑い声が響き渡っていた。




