第75話
意識が、はっきりしない。
全身の痛みを痛みとも思えないくらい、私の体力は低下していた。そろそろ、本当にまずい。私は頬を床につけたまま、どうにか端末をポケットから取り出した。
アザレアには一人にしてほしいと退室してもらったばかりだ。いくらアザレアが傍にいたとしても、この状況ではそう遠くないうちに自決命令を受けずに死んでしまう。私も軍人候補生の端くれだ。「影」に殺されてしまうよりは、自ら潔く自決したい。この命は最後まで私だけのものでありたい。
それに、自決のために薬を含めば、この痛みも不安も少しは薄れてくれるだろう。情けないことだが、もう限界だった。張り詰めた緊張感も、逃れられない苦しみも、全部、もう全部終わりにしよう。
私は、右手に比べれば傷の浅い左手で端末に手を伸ばした。指先は上手く動かせない。手の甲にべっとりとこびり付いた血の跡が、あまりにも醜くて目を背けたくなった。
そういえば、つい最近も左手で端末を操作したな。
「白」の病室。ベッドサイドで笑う「兄」。部屋中に舞った鮮やかない人工花。「妹」の澄んだ声。「先生」との約束。
不意に思い出して、泣きそうになる。ただでさえ息苦しい胸が、内部からも悲鳴を上げるようだった。
その衝動を必死に堪えながら、私は端末を開き通信画面を表示させた。これが、最後の帝国との繋がりになる。
一回目と同様、画面にはすぐに第一の塔司令室が映し出される。乱れた部屋の中で、黒衣姿の柊が私の姿を見て絶句しているようだった。本当は、もう視界が霞んでしまってはっきりと断定はできないのだが。
「やあ、柊……。久しぶりだな……」
予想以上に私の声は弱々しかった。不甲斐ないが、これでも最後の力を振り絞っているのだ。
「――憐っ! そんなに、傷ついて……っ」
いつもの冷静な柊ではない。その子細な表情までは分からずとも、彼がひどく動揺しているのは伝わってきた。
「ああ……見ての通り、私は……もう駄目だ。もう……充分なんだ、こんな痛み」
本当に、もうこりごりだ。私はもう充分苦しんだだろう。せめて、「先生」の命令で殺してくれ。
「……もう、死んでもいいかな?」
私は敢えて、柊に笑いかけた。血と埃塗れの酷い表情だろう。それでも、柊が「死んでもいいよ」と言いやすいように、せめて強がらなければいけない気がした。
霞んだ視界の中で、柊の綺麗な色素の薄い瞳が大きく揺れる。こんな時でもきっと、柊の瞳は息を呑むほど美しいのだろう。せめて最期に、もう一度顔を見られてよかった。
「――神聖なる帝国軍の名において、一条憐に自決命令を下す」
柊は俯き、はっきりと、それでいてどこか震える声で告げた。こんなに苦し気な柊の声は聞いたことがない。私は、最後に彼に酷いことをしてしまったようだ。
ああ、でも、これでやっと終わるのだ。ふっと解放されたように気がして、自然と頬が緩んだ。
「――ありがとう……柊、最後まで……私の我儘を聞いてくれて……」
これで、彼の姿も見納めだ。最後は笑って別れたい。
「……そんな、こと、言わないでくれ、憐。俺を許さないでくれ……憐」
柊の一人称が「俺」であるのは初めて聞いた気がする。案外、これが柊の素顔なのだろうか。最後の最後に、本当の表情を見せてくれたようだ。それだけで、私にはもう充分な気がした。
「……そんな風に、責めないで……。今まで、本当に……ありがとう。私の先生になってくれたことも……私のために淹れてくれたレモンティーも……全部、嬉しかったよ……」
途切れ途切れの言葉を紡げば咳き込んで、口の中に血の味が広がった。目が眩みそうだ。
最後まで「一条」であろうとしても、「憐」が姿を現してしまう。これくらい、許されるだろうか。最後なのだから。
「……憐、救われたのは僕の方なんだよ。大丈夫、――にはしない。きっと、すぐに――」
意識が朦朧として来ているのか、所々柊の言葉を聞き取ることが出来なかった。だが、訊き返す気力もなく、私はただ死に際の微笑みを彼に送ることしか出来ない。本当は、柊にはこんな醜い姿を見せたくなかったのに。神様とやらがいるとすれば、あまりにも無慈悲なものだ。
「――だから、安心して、憐」
そう言った柊の表情は、不安定に笑んでいるように見えたが、きっと気のせいだろう。最後に彼の笑顔が見たいと思った私の幻覚かもしれない。
柊の言う通り、もう、何も怖がることは無い。手持ちの薬で、安らかに眠るだけなのだ。もうずっと、瞼が閉じてしまいそうなほどに眠かった。もうすぐ、好きなだけぐっすりと眠れる。
「……ありがとう、柊」
私はもう一度笑みを見せたが、再び咳き込んでしまう。血の味が込み上げたかと思えば、軽く吐血してしまった。いよいよ私も終わりに近い。
「――憐っ」
まだ、もう少しだけ、待ってくれ。私は心の中で強く念じ、再び柊に視線を向ける。
「最後に……少しだけ……。千翔は……大丈夫かな」
あれだけ酷い傷を負わされた「妹」がやはり気がかりだった。「白」の医療技術は一級品なので、物理的な傷については心配していないが、塞ぎこんでいないかどうかが心配だった。今日もあの無邪気な笑顔を浮かべてくれているだろうか。
「……大丈夫だ。水野さんはもうすぐ退院する。何も心配ないよ、憐」
「――良かった」
私は軽く目を閉じて安堵の溜息をついた。千翔には、どうか暗い過去に囚われず、伸びやかに生きて幸せになってほしい。彼女の言う通り、世の中が報いの連鎖で成り立っているのならば、これからは良い報いが彼女に訪れてもいいはずなのだ。
いい加減、話し続けるのも苦しくなってきた。大きく深呼吸をして、何とか胸の痛みに耐える。
このまま眠ってしまってもいいが、私は最後の力を振り絞り、もう一度目を開けた。最後くらい、素直になっても罰は当たらないだろう。
「――空兄様は……?」
今、どうしているだろう。彼の姿ならば、霞んだ視界の中でも見つけられる自信があるのに、司令室にはいないようだった。また、錯乱状態に陥って一人で苦しんでいなければいいのだが。
「……空は、ここにはいない」
柊のその言葉に、ちくりと胸が痛む。その事実を隠すように、私は性懲りもなく強がりが見え透いた笑みを浮かべてしまうのだ。
「……そうか……いや……いいんだ」
空兄様には、もう二度と会えない。その声を聞くことも、「ごめんね」と伝えることも叶わなかった。
どうして、そんなことがこんなにも悲しいのだろう。
気づけば私は、ぼろぼろと涙を流していた。目尻の傷に、涙が染みて痛む。ただでさえ霞んでいた視界が、余計に歪んでしまった。
一人ぼっちで、死ぬ前に。
彼に、言わなければならないことがあったのに。
「……最期に……会いたかったなあ」
これも私たちらしい、運の巡りあわせだろうか。最後まで私たちは、歪んだまま終わるようだ。ふっと自嘲気味な笑みが、割れた唇の間から漏れる。
ねえ、空兄様。
空兄様より先に死んでしまう私を、許してくれなくていいから、
こんな私を憎むことで空兄様が救われるのなら、それでもいいから、
だから、どうか、
私がいなくなった後も、笑って生きてはくれませんか。




