第71話
私はまだ、生きているのだろうか。
目隠しをされてどこかへ連れていかれた後、私の意識は一層薄れていた。右手の激痛に眠気を覚まされては、また目を閉じかける。何日も何も食べていないので、空腹のはずだがその感覚すらもう忘れかけていた。つい、1,2時間前までは私の周りに広がった血溜まりもはっきり見えていたのだが、今はすっかり霞んでしまい、ぼんやりと色が分かる程度だった。
起き上がる気力も体力もなく、ただ冷たい床に体を預けることしか出来ない。時間感覚も狂い始めていた。少しずつ、でも確実に私の命は終末へ降下している。これだけ痛くて苦しいのなら、自決で安楽死など選ばなくとも同じかもしれない。もう半分は殺されているようなものだった。
きっと、助けは来ないのだろう。そんな気がしてならなかった。これだけ時間が経っているのに、帝国に何も動きがないのは、そもそも私のために行動を起こす気がないという表れなのだと思ってしまう。
ああ、見捨てられたのか。自嘲気味な笑みと共に、声にならない呟きが落ちる。
帝国を献身的に支えたいとは思っていなかったが、それでも私は帝国を信じていた。帝国のやっていることは最終的には正しいのだと、無意識のうちに納得していた。
でも、帝国は違ったのだ。
私はやはり、合崎の付属品に過ぎなかった。捨て駒でしかなかったのだ。見捨てられたも何も、最初から私の存在など重視されていない。私が勝手に絶望して、嘆いているだけなのだ。
私に残された最後の仕事は、もう一度対策本部と連絡を取り、柊に自決命令を出してもらうことだけだ。機を見て端末を操作しなければならないのだが、今はどうしても体が動かせなかった。もっとも、右手も左手も切り裂かれて、ちゃんと動くかどうかも微妙な線だが。
そんな中、不意にゆっくりとドアが開いたかと思うと、駆けるような軽い足音が近づいてきて私の傍に膝をついた。
「……憐っ」
いつになく辛そうな声で、アザレアは私の名を呼んだ。そっと視線を向けると、霞んだアザレアの顔が見える。今にも泣き出しそうな勢いだった。
「ごめんなさい……っ。包帯も消毒液も、全部取られてしまったの……。ごめんなさいっ……」
アザレアは遂にぽろぽろと涙を流し始めた。演技ではない、正真正銘の純粋な涙だ。最後に、私の死に涙してくれる人がいてよかった。少しだけ、張り詰めていた気持ちが和らぐ。
「こんなに痛かったら……憐は……」
子供のように泣きじゃくりながら、アザレアは言葉を紡いでいた。その姿に思わず小さく苦笑してしまう。
「……お前が、泣くことないだろう」
「嫌だよ。憐が苦しかったら私も苦しいもの! もし、憐がいなくなっちゃったら悲しいよ……」
アザレアの綺麗な目は私だけを見つめていた。その澄んだ目を見ていると、不思議と心が安らぐ。私と同じ目なのに、彼女の方がずっと美しい。アザレアの目を見ていれば、心も安らかに眠れそうだった。
「ねえ、憐……、無理なことを言うのかもしれないけれど……。私と一緒に、こちらの世界で生きていくのは駄目なのかな……?」
唐突な誘いに、どくんと心臓が脈打つのが分かった。何を、言っているのか。動揺が隠しきれない。アザレアはそんな私に構うことなく、少し視線を伏せて続ける。
「さっきね……シアンに憐の治療をお願いしたの。そうしたらね、憐が……私たちの仲間になるのなら、手当てをしてもいいって……」
「影」の、仲間に。今まで見え居なかった選択肢がちらつき始める。
「シアンは、約束事には厳しい人だから……治療を受けたら逃げ出すのは難しいかもしれないんだけど……」
もしその提案に乗って、逃げ出そうものならば今よりももっと惨い形で殺されるのだろう。仲間になると言ってしまえば、命を差し出すのと大差ない。
「私はね、憐と一緒にいたい。ずっと一緒に生きていけたのなら、どんなに幸せか分からないよ。今まで会えなかった分を、この先の未来で埋め合わせたいの。憐がいてくれるのなら、もう、友だちもいらないや」
影に落ちて、双子の片割れと生きる。その未来に全く惹かれないと言えば嘘になる。
アザレアのいる毎日は、どんなに楽しいだろう。しがらみと黒に溢れた帝国の外側で、純真な彼女と生きていけたのなら。アザレアとは双子というだけあって、とても気が合うのは既に分かっていた。彼女と共に生きる日々は、きっと息を呑むほど美しいだろう。
どうせ、私は帝国に見捨てられた身だ。帰る場所などない。もう死ぬしかないのなら、アザレアの手を取るのもいいかもしれない。この状況下では、私が生き延びられる唯一の選択肢だ。
私だって、本当は生きたい。もっと、生きていたい。こんな腐った帝政でも、閉鎖されたスノードームの中でも、命はそこにある。生きているのか死んでいるのか分からないような毎日でも、死んでしまうよりはいくらかマシだろう。そう信じていたい。生きることを諦めたいわけじゃない。
それに、と私はそっと目を閉じた。
生きていればもう一度、合崎に会えるかもしれない。たとえ、そのときに敵同士だったとしても、いつか巡り会うことが出来るかもしれない。もう、名前を読んで貰うことは無くとも、帝国と「影」が闘い続ける限り、彼とはどこかで繋がっていられる。
きっと、それだけで私は幸せだろう。場合によってはもう、人も殺さなくて済む。アザレアと共に穏やかに生きて、いつか安らかに死ねたならどんなにいいだろうか。
私はそっとアザレアを見上げた。彼女は澄んだ目に涙を一杯に浮かべて私を見つめている。彼女の目は不思議だ。アザレアのためならば、「影」に落ちるのも悪くないとさえ思えてくる。
――そう、アザレアのためならば。
その瞬間、ふっと私は理解した。笑ってしまうほど自然な形で、すとんと胸に落ちる。ああ、なんて単純で稚拙で安易で、そして完璧な罠なのだろう。思わず声を上げて笑い出してしまう。
「成程なあ……『影』の洗脳の中枢は、お前の存在ってわけだ、アザレア。皮肉だなあ、本当……。お前、その手口で何人『影』に落とした?」
アザレアは状況が読めていないのか、目を見開いて茫然としていた。なんだか、一気に術が溶けたような気分だ。かねてからの疑問はここで解決された。
「影」に落ちていく人間は、シアンに縋って仲間になるわけではない。アザレアに心を奪われて、落ちていくのだろう。「影」の洗脳は、一方的な暴力によるものではなかったのだ。きっと、アザレアの完璧な白さと純粋さに依存しているのだろう。アザレアの白さは毒薬のようなもので、気づいた時には中毒になっている。もっとも、そのアザレアを扱うシアンまでもがその毒に当てられていることは否めないが。
アザレアは、やはり「影」を考えるうえで重要な人物だ。洗脳の中心である彼女が殺されれば、信者たちは大きな動きを見せるに違いない。無論、昔からの教典を信じて「影」に落ちたものもいるのだろうが、新しく入った技術者クラスの信者はアザレアの存在に依存している可能性が高い。彼女が死んだとき、洗脳が解けるのか、逆上して帝国に攻撃を仕掛けてくるのかは分からないが、彼女の存在はとても大きなものだということだけは確かなようだ。
「えっと……憐?」
不安げにアザレアは私の顔を覗き込む。私もいつのまにか洗脳されかけていたことに、笑みが止まらなかった。彼女のいる人生は確かに楽しいかもしれないが、帝国は裏切れない。帝国には私の大切な人たちがいるのだから。そんな当たり前のことを忘れかけていたことが今更ながら恐ろしく思えてくる。
あの音森でさえ、結果的には帝国に忠義を誓って死んだのだ。私に出来ないことは無いだろう。一言も情報を漏らしていない今のうちに、さっさと消えてしまうに限る。
「……何でもない、何でもないんだ、アザレア」
満身創痍の私は、痛みに耐えながらも彼女に笑いかけた。たとえ結果的に洗脳に当たるとしても、彼女の親切は本物なのだろうし、彼女自身に落ち度があるとも思えなかった。彼女を憎むのは、筋違いというものだろう。
「折角の誘いだが、仲間にはならないよ」
霞んだ視界の中のアザレアにそっと告げる。その刹那、彼女の表情が青ざめるのが分かった。
「でもっ……そうしたら、憐は……」
「……いいんだ、もう」
眠ることさえままならないようなこの痛みから、いい加減もう逃れたい。死ぬことよりも、これ以上苦しむことの方が怖かった。
「私には、裏切れない仲間がいるんだ。……妹も、先生も、兄も、全てを捨てては生きられないよ」
弱々しい私の声は、冷たい牢の中に静かに響いていた。アザレアは再びぽろぽろと涙を流し始める。言い返してこないところを見ると、私の決意が伝わったのかもしれない。
「私……頑張るよ。もう一度、シアンにお願いしてみる。憐が仲間のところへ帰れるように……」
子供のように泣きじゃくる彼女の顔は私と同じ見た目のはずなのに、随分と幼く見えた。手を握って元気づけてあげたい衝動に駆られるが、生憎私の両手はもうほとんど動かない。アザレアは泣きながらも、はっきりと響く声で告げた。
「だから……お願い。死なないで、憐」




