第69話
私は冷たい床に蹲って咳き込んでいた。背中を蹴られた拍子に口の中を切り、血の味が口一杯に広がっていく。いつかアザレアが残していった消毒瓶の破片が所々に散らばり、倒れ込んだ際目の縁を切ってしまった。冷や汗が伝うのを感じる。この状況下で目に刺さったら失明は免れなかっただろう。
すぐ傍ではシアンがくすくすと笑って私を見下ろしている。そんなに人を傷つけるのは楽しいのだろうか。同じ人間なのに、彼の心理は全く分からない。
数時間前にアザレアに巻いてもらった包帯やガーゼには、既に血が滲み汚れてしまっていた。睡眠をとれたのも1時間弱でこのままでは体力がもたない。極限状態で理性を失えば、それこそ相手の思うつぼだ。
こんな理不尽な状況に、あとどれだけ耐えればよいのだろう。終わりが見えない絶望感に気が遠くなった。もういっそのこと、命を諦めてしまった方が楽かもしれないという情けない考えが度々ちらついている。
「ねえ、ちょっとは喋ろうよ。黙ってるのが一番つまらないんだよね」
それか、泣くか叫ぶかしてよ、と溜息交じりに呟いて、シアンは私の顔を覗き込むようにしゃがみ込んだ。
「口が裂けても言えないっていよく言うけどさ、憐ちゃんは本当に口が裂けても言わなそうだよね。……そもそも口が裂けても人は喋れるんだろうか。ちょっと興味あるかも、ね、憐ちゃん?」
そう言って刃渡りの長いナイフを目の前でちらつかせる。その猟奇的な目に酷く怯えてしまった。こいつは本当にやりかねない。流石にこれ以上出血するような傷が増えてしまったら、自決命令を待たずして死んでしまいそうだ。肩が震えだしそうになるのを必死に堪えて動揺を見抜かれまいとするも、最早そんな強がりすら出来なかった。シアンはそんな私を見ては満足そうに笑って、私の目の縁の傷を冷たい指でなぞった。たったそれだけなのに、思わず目を瞑ってしまう。痛みと恐怖で涙が滲みそうだった。
「……大分、いい目をするようになってきたね、憐ちゃん。そういう怯えた目、大好きだよ」
ぞっとした。いや、そんなものじゃない。背筋が凍り付くような寒気を感じた。言葉には、こんなにも力があるものなのか。シアンが言うと、怖くて仕方がない。私はもう、完全にシアンに怯えてしまっている。彼の方が私よりも、力のある存在なのだと認めてしまっている。
目の縁の傷から流れた血が、目に入ってきて不快だった。視界も悪い。だが、手で拭うことも出来ない。間違いなく、傷を放っておくのは衛生的によくないがどうしようもなかった。下手すればシアンとお揃いになりかねない。
もしも、無事に「白」へ戻ることが出来たのなら、たとえ片目を失明したとしても、「白」の技術でどうとでもなるだろう。この絶望的な状況で私が縋れるものは、「白」へ帰る希望とアザレアだけだった。そんなことを考えて、心の中でふっと笑ってしまう。いつの間にか私の中で、アザレアの存在はこんなにも大きくなっていたようだ。
不意に、金属のドアが開かれると、いつかの白衣の青年が視界に入った。久しぶりにシアンとアザレア以外の人間を見かける。世界には大勢の人がというのに、そんな当たり前のことを不意に忘れてしまいそうになるくらいには最近の私は弱っていた。
「シアン、こっちは準備出来た」
その手には、いつか千翔に巻いたものと同じ黒い布を持っていた。どこかに連れていかれるのだろうか。身構えずにはいられない。
「了解ー」
欠伸を噛み殺しながら、どこか退屈そうにシアンは返答する。白衣の青年は彼の傍まで歩み寄り、黒い布を手渡した。
「……ちょっとやりすぎじゃないか?」
白衣の青年は床に転がる私を一瞥して、眉を顰めた。どことなく引き気味な青年の態度からして、シアンよりはまともな感性を持っていそうだ。今の私の姿は、とてもじゃないが見られたものではないだろう。しかしシアンは同僚らしき青年の進言を前にしても、くすくすと笑ってみせた。
「そんなことはないさ。ね、憐ちゃん? おとなしく話せば、こんな痛い思いはしなくて済んだんだから」
シアンは黒い布を私を見比べ、やがてもう一度溜息をついた。どこに連れていかれるのだろう。待っているのが、死でなければいいのだが。
「それにしても上もせっかちだな。いい感じに仕上がってきたころだってのに……」
「かつてないほどの切り札だから、早く使いたくてしょうがないんだろう。それに、早くしないと君がこの子を殺してしまうと思ったんじゃないか?」
「そんな勿体ないことはしないつもりだったけどね。……まあ、いいよ。僕も見てみたいし。帝国が、次代の軍師のためにどこまでやってみせるのか」
シアンは不敵な笑みを見せると、黒い布を私の目に当てた。思ったよりもきつく結ばれたらしく、傷がぎりぎりと痛む。視界が奪われると、一層不安は増した。彼らは一体、何をしようというのだろうか。
やがて、足枷が外れる音がしたかと思えば、手錠を強く引かれ立たされた。久しぶりに立ち上がったからか、足が震える。筋力はかなり衰えていそうだ。私は今どんな醜態を晒しているだろうか。誇り高き「次期軍師」の面影など、微塵も残っていないのだろう。
「さてと、ちょっと付き合ってもらおうかな。憐ちゃん」
不穏な言葉を合図に、再びドアが開かれる音がする。このドアの先に自由が待っているわけではないことはとっくに分かっているだけに、足が重たい。千翔も連れていかれるときはこんな気持ちだったのだろうか。私は、何もしてあげられなかった。
会いたいな。そんなことを考えるだけで胸が痛くなる。千翔に、柊に、合崎に会いたい。会って、下らない話がしたい。一目でも彼らに会えたのなら、もう少し頑張れそうなのに。記憶の中で彼らの姿がいくら鮮明に蘇ろうとも、直接触れる温もりには敵わない。それでも、この鮮やかな記憶だけが、今の私にとっては自分を保つ唯一の頼みの綱だった。




