第68話(合崎視点)
合崎は一人、「白」の付属病棟を黙々と歩いていた。行き交う看護師や患者などには目もくれず、フロアの奥に存在する特別病棟を目指す。そこは事件性のあるものに巻き込まれた患者や、国の要人たちが入院するための場所だった。千翔は今回、前者の理由でその病棟に入院している。
面会許可が下りたと聞くなり、合崎はすぐさま千翔の病棟を目指した。千翔から手渡された端末を対策本部に渡してからというもの、なるべく司令室を離れないようにしていたがどうしても千翔から憐の情報が聞きたかったのだ。
合崎は本人証明をパスして特別病棟に足を踏み入れる。一般病棟より廊下が広く、病院には相応しくない静けさが漂っていた。ここのセキュリティは帝国最高峰のものらしい。一般病棟でさえ、十二分に守られているというのに。それほど国の要人が大切なのか、と心の中で悪態をつく。
いっそ憐もずっとここにいてくれたならいいのに。そうすれば、誰にも攫われることなどないのだから。まあ、そんなこと、口にしようものならいよいよ嫌われてしまうのだろう。
目的の病室へは意外とすぐに辿り着いた。息を整えることもないままに、ディスプレイに手をかけようとしたその時、頑丈そうな白いドアがゆっくりと開かれていく。きっと、カメラで見ていたのだろう。合崎はそのまま静かに病室へ足を踏み入れた。
「来ると思っていました」
広いベッドの上で軽く上体を起こした千翔が優雅に微笑む。他の患者とは違う、白い上品なワンピース姿の千翔は、制服姿のときよりもずっと令嬢らしかった。だが、白い服は憐の方が似合う。
千翔の傍には世話係なのか三十代くらいの女性がいた。千翔はその女性に微笑みかける。
「……少しの間、この方と二人にさせてください」
女性は慎ましく礼をして、合崎と入れ違うように病室を後にした。数秒の沈黙が、残された二人の間に駆ける。やがて、千翔はくすくすと笑ったかと思うと、普段の彼女とは程遠い冷静な目で合崎を見据えた。
「やっぱり、随分病んでいますね。手の施しようがないくらいには」
千翔が解放されて、今日で2日が経っていた。つまり。憐が誘拐されてから5日目ということになる。千翔の言う通り、そろそろ自分を保っているのが厳しくなってくる頃だった。千翔を見舞う言葉の一つも出てこないくらいには、余裕がないのは分かっていた。
「……憐は……憐はどうしてた?」
ベッドサイドまで歩み寄り、千翔を見下ろす。彼女は冷めた目でふっと笑ってみせた。
「酷い怪我でした。シアンという青年に、ナイフで切り付けられたり、殴られたりして……」
ぎゅうと、胸の奥が締め付けられるような息苦しさを感じた。憐が、苦しめられている。そう考えるだけで気が触れそうだった。もう全部、白も何もかも壊して憐を迎えに行きたい。
「姉様のこと、訊いてどうするのです?」
どことなく挑発的な口調に違和感を覚えながらも、合崎は静かに口を開いた。
「……助けに行く」
何日間もまともに会話していなかったせいだろうか、自分の声は予想以上に暗く低く、掠れていた。
「助ける? いつも誰よりも憐姉様を傷つけているあなたがよく言えますね」
千翔のいつになく鋭い言葉は、一番痛いところに突き刺さったようだ。どくん、と心臓が跳ねるのを感じる。千翔は嘲笑にも近い微笑みを浮かべていた。
「空兄様に、憐姉様が救えると本気でお思いですか? 向き合おうとしなかったくせに。……純粋に愛そうともしなかったくせに」
「……何が言いたい?」
「姉様を救うとか言っておいて、本当は自分が苦しいから、この状況から抜け出したいから……自分自身を救ってあげたいから言うんですよね。だからその思いは愛じゃない。ただの自分勝手な依存心でしょう?」
千翔の言葉は止まらなかった。その一言一言に心の奥を抉られるようで、酷く胸が痛む。
「空兄様はいつもそうです。憐姉様の想いを踏みにじって嘆いて依存して。私は見ていられないですね。あなたに一生つきまとわれて、依存され続ける憐姉様の姿なんて」
合崎は鋭い視線で千翔を睨み返した。そうして不意に零れた言葉は、自分でも驚くほど冷え切った攻撃的なものだった。
「……お前に、何が分かる?」
「分かりませんよ、何も。でも傍から見ればあなたは、憐姉様にしがみついて生きるただの精神異常者です。それが帝国の策なのか何なのか、知りませんけどね」
軽蔑するような笑みを含んで千翔は言う。ふつふつと怒りが込み上げるのを感じていた。
「……お前に、あの一か月の何が分かる?」
「一か月でしょう? 私は7年間ですけどね」
くすくすと千翔は笑う。普段とのギャップに、思わず目を見張った。
「私からしてみれば、あなたも憐姉様も白い白い。憐姉様はともかくとしても、黒を気取っているあなたのことは見ていられない。そんなあなたにつきまとわれる憐姉様が憐れでならないのですよ」
どうして後から出てきたこいつに、憐を語られなければならないのだろう。苛立ちは着実に心の奥底で広がっていく。
「空兄様だって、そう思っているんでしょう? 憐姉様が可哀想だって、憐れだって」
ああ、そうだとも。思っているさ。憐は誰よりもかわいそうな子だ。まともな価値観すら持ち合わせていない自分に、こんなにも醜く執着されて。
「それなら、どうして変わろうとしないのですか? 毎日感情を押し殺して笑っている憐姉様を、この先もずっと眺めていたいんですか? あなたの見たい憐姉様の表情は何なのですか? あなたは憐姉様のために何が出来るんですか? 何かできるんですか? ――本当は別に、愛してなんかいないんじゃないですか? 心のどこかで、このまま消えてしまえばいいと思っているんじゃないですか?」
「――そんなことない!」
反射的に、声を荒げてしまった。だが、千翔の澄んだ瞳は怯むこともなくこちらを見つめている。
「……そんなこと、ない。ただ……大切なだけなんだ。憐がいなくなるなんて、考えたくもない」
そう、憐は大切な「妹」。誰よりも隣にいてほしい人。
それを自覚した瞬間に、ふっと心が軽くなったような気がした。澱んでいた意識が少しだけ明瞭になる。そんな合崎の姿を見て、千翔はいつものように明るく笑ってみせた。
「――やっと、言いましたね。本当の気持ち。憐姉様に伝えるべき、本当の言葉」
千翔はやれやれといった具合に息をつく。いつも通りの千翔の姿だ。
「少しは気分がマシになったんじゃないですか? 悩みすぎて、負の感情ばかりが溜まっているようでしたから。憐姉様への想いを思い出せば、心が軽くなるかと思ったんです」
「……気遣ってくれていたのか」
千翔は可笑しそうにくすくすと笑ってみせた。今になって思えば、錯乱状態の一歩手前だったのかもしれない。ついさっきのことなのに、自分の発言がまるで他人のものであるかのような気がしていた。
「柊さんにアドバイスをいただいたのです。空兄様が病んでいるときは、憐姉様への本当の気持ちを自覚させてあげてほしいって」
遠回しな柊の優しさに、歯がゆいような気持になる。ただでさえ、憐の誘拐事件で忙しくしているというのに。こんな自分のことにまで気を配ってくれるなんて。
「……軍の出動のときには一緒に行かれるのでしょう?」
「もちろんだ」
「気を付けて、とは言いませんが……。後悔するような道を……憐姉様が不幸になるような道を選ばないでくださいね」
「俺の心配は無しかよ」
「だって、空兄様は憐姉様がいればそれで幸せでしょう?」
反論できない。思わず口を噤めば、再び千翔がくすくすと笑った。今日に限っては、千翔の方が一枚上手らしい。軽く咳払いをして、本題に戻る。
「……それで、憐のことについて何かわかることはあるか?」
「……憐姉様の容体については、対策本部の方に伝えたことが全てです。これ以上は、何も……」
申し訳なさそうに千翔は視線を伏せる。残念だ。結局は活字で表示される無機質な情報だけが、憐を知る手がかりなのか。
「……ただ一つだけ、誰にも申し上げていないことがあります」
少しだけ視線を上げた千翔の目は、いつになく真剣だった。
「どんな些細なことでもいい。教えてほしい」
何が憐を救えるヒントになるか分からないのだ。無駄な情報など、今はありはしない。
「――『影』側の人間で、アザレアという少女がいます。その方は……憐姉様の双子の姉妹の方だそうです」
「憐の……姉妹?」
あまりにも予想外な言葉に、千翔の前だというのにひどく動揺してしまう。憐に、血縁者がいたというのか。それも、よりによって「影」の人間とは。
「アザレアは憐姉様の鏡写しのようにそっくりです。彼女はシアンの側近のようですが……私や憐姉様の手当てをしてくれました」
「手当てを? 迫害しているのは『影』だというのにか。何かの策略じゃないのか?」
「そんなこと言っていると、惑わされちゃっても知りませんよ。ただでさえ、空兄様にとっては敵に回したくない相手でしょう。憐姉様の姿をしている少女を殺せます?」
確かに、憐と血の繋がった、しかも姿もそっくりな少女に銃口を向けられる勇気があるかと言われれば戸惑うところだった。
「私も、始めは策略かなって思いました。でも違うんです。アザレアの行動に裏表はない。ただ彼女は、目の前に傷ついている人がいたら救いたいだけなのです」
千翔は軽く溜息を交えながら続けた。その笑みはどことなく自嘲気味だ。
「何て単純で短絡的で馬鹿な人だろうと思いました。でも……だからこそ私たちはアザレアを警戒しなくなり、あの張り詰めた状況下で彼女に会えることに安らぎを感じ始める。そして本当に私たちが弱ってきたころ、彼女は何の悪気もなく言うんでしょう。死なないで、ここで一緒に生きよう、と。いくら高度な洗脳も、彼女の前では全く歯が立ちませんね。私はここへ戻ってきて、一日くらいたってから、ああ、惑わされかけていたんだな、と気づきました。……恐らく、アザレアは『影』の洗脳の中心的存在でしょう。空兄様も気を付けてください。……本部に報告するかどうかはお任せします。何せ、憐姉様の血が絡んでいますので、私には少し荷が重いです」
憐の片割れが、「影」の洗脳の中心。一体何の因果なのだろう。思わず笑ってしまった。
「……すごいな。憐の家系は人を依存させる血なのかもしれない」
「確かに、すごい偶然です。帝国と『影』のそれぞれの洗脳の中心が憐姉様とその片割れだなんて……」
少々面倒な問題だけに、今はまだ報告すべき時ではないかもしれない。憐を助け出し、彼女の意向を聞いてから報告するのでも遅くはない。
「本当に、気を付けてくださいね?」
「……そうだな。そのアザレアという少女には特に気を付けよう。休養中、悪かったな。早く治せよ」
情報も得たことだ。なるべく早く司令室へ戻って、自分なりに対策を練らなければ。ここへ来たのは正解だったかもしれない。千翔のおかげで意識も少しははっきりとして、冷静に物事を考えられそうだ。
「私がここでただ寝ているだけだなんて、思わないでくださいね?」
合崎が病室のドアを前にしたところで、不意に千翔が口を開いた。
「もう二度と姉様を殺さない。――絶対に、憐姉様を救い出してみせます」
随分と意味深な言い回しだ。引っかかるところは多々あるが、合崎はふっと笑って言葉を返した。
「面白いじゃないか。まあ、期待しないで待っておくことにしよう」
「いいでしょう。空兄様の悔しそうな顔、一度見てみたかったのです」
「ふーん、随分強気なんだな。そんな体で」
「『白』の技術は一級品ですから、直に治ります。ご心配どうも」
敬語で毒を吐かれるというのも、なかなか辛いものがある。やれやれ、この「妹」たちは可愛げというものを知らないから困るのだ。
「本当、可愛くない妹だ」
「光栄です」
にっこりと笑ってみせる千翔の表情は、やはりどこかあどけなくて昔の面影を思わせる。大体、いつだってそうだ。大切なものは時間が経っても変わらない。
ハッピーエンドも、白も鼓動も憐も、きっとこの先もずっと変わらないのだ。




