第66話
数秒後、金属のドアの先から姿を現したのは、両手いっぱいに荷物を抱えたアザレアだった。上質そうな水色のワンピースに身を包み、しっかりと手入れされた髪は、ワンピースに合わせたリボンで結われている。
「憐っ!」
ぼろぼろと荷物を落としながら、彼女は澄み切った明るい声で私の名を呼んだ。しかし、その次の瞬間には亜麻色の目を大きく見開いて、絶句していた。
「――憐っ!? その傷……!」
物が落ちるのも構わずに、アザレアは私の許へ駆け寄ってきた。澄んだ瞳は動揺しているのか、涙を溜めながら揺らめいている。
「酷い傷……。ごめんね、私がもっと早くに来ていれば……」
彼女の言葉は、恐らくすべてが本音だ。私を見て泣き出しそうなその表情も嘘ではない。だからこそ、ぞっとしたのだ。いくら双子だとは言え、会ったばかりの人間をここまで思いやれるなんていくら何でも優しすぎる。本当に聖女のような人だ。ある意味、異質な存在であることは確かなようだ。
それと同時に、アザレアが来てくれたことに安心している自分もいた。彼女の純粋さは、自然とこの閉鎖空間の光となりつつあるのだ。
「今、手当てするね。ちょっと我慢してね……」
そう言うと、彼女は濡れたタオルを私の頬に当てた。少し痛む当たり、いつの間にか頬も負傷していたのだろう。柊には、随分と酷い姿で通信してしまったようだ。
「……いい、そんなこと。気持ち悪いだろう」
恐らくは過保護に育てられてきたであろう彼女にとって、生傷なんて直視できるようなものではないだろうに。しかし、私が制止しても、彼女が手を休めることは無かった。
「気持ち悪くないよ。私たち双子だよ?」
さも当然と言わんばかりにアザレアは笑った。やがてタオルを置き、ガーゼと消毒液を取り出す。左手の甲を拭ったタオルは、鮮やかな赤が染み渡っていた。
アザレアはそのまま慣れた手つきで消毒液をガーゼに染み込ませようとしたが、はっと気づいたようにその手を止める。そして小箱を漁り始めた。
「あった!」
朗らかな声でそう言ったアザレアの手には、いつか彼女が自分自身の手の甲を傷つけたのと同じ鋏が握られている。今度はその刃先を迷いなく、自分の右手の甲へと向けた。
「待て!」
刃先がアザレアの白い肌に沈む寸前に、思わず引き留めてしまう。こんな行動は、自分でも予想外だった。アザレアは驚いたように目を瞬かせ、私を見つめている。
「……この間、証明したんだ。もういいだろう」
双子としての愛情はないはずなのに。自分で自分がよく分からなかった。きっと、アザレアがまた自分を傷つければシアンに復讐される。それが嫌だっただけなのだと言い聞かせることで気持ちを落ち着かせるしかなかった。
「でも……」
「双子、なんだろ」
認めたくなんてなかったのに、異質な状況下では自分に優しくしてくれる者を拒むことは出来ないようだ。
「嬉しいっ!」
次の瞬間には、私はアザレアに抱きしめられていた。久しぶりに触れた温もりに、不覚にも動揺してしまう。手錠の乾いた音が、すぐ傍で響いた。
「……服に血がつくぞ、離れろよ」
口ではそんなことを言いながらも、言い表せない不思議な感覚に自分を見失いそうだった。この感情は、なんというのだろう。
「こうしてぎゅってするの、懐かしいね」
「懐かしい……?」
懐かしい。私はその感覚をこれまで一度も理解したことは無かった。言葉として知っていても、懐かしいという感覚を味わったことが無かったからだ。私の記憶力を思えば、恐らく無理もない話なのだろう。懐かしむも何も、どんな記憶も経験したその瞬間と同じように蘇るのだから。
「憐は、あんまり覚えていないんだね。私、憐とこうしてくっついていたことよく覚えているよ。とても幸せだった」
その言葉に、違和感を禁じえなかった。どうして、私が覚えていないようなことをアザレアが覚えているのだろう。幼少期の記憶がないのは、物心がつく前だったからだと思い込んでいたのに、まさか違うのだろうか。ぴたりとはまっていたと感じていたピースが、少しずつずれていく気色悪さを感じた。
「……アザレアは、その……一秒も忘れられないような……完全な記憶を持っていたりするか?」
ある一つの可能性を思いつき、恐る恐る尋ねてみる。物心がつく前のことすら覚えているというのなら、彼女は私以上に完璧な記憶力の保持者なのではないかと考えたのだ。双子であることを考えても、不思議な話ではない。
「……記憶? んー、そんなにいい方ではないかなあ? 人の顔とかは忘れないつもりだけど、座学の知識を覚えるのは結構苦手なの」
「……本を一度読んだだけで、一語一句違えず暗唱したりはしてないのか?」
「そんなことできたら、お勉強が随分と楽になるね! ……もしかして、憐はそんなことが出来るの?」
「まあ、な……。そんなにいいものではないが」
「すごい! すごいわ!!」
目をキラキラと輝かせて私を褒め称えるアザレアを見ながらも、私はこの違和感を見過ごせずにいた。アザレアの言葉を信じるのならば、特殊な記憶力を持って居なくても、断片的には物事を覚えている程度の年まで私たちは共に生きていたということだ。それを、完全な記憶の保持者である私が覚えていないだなんておかしな話だ。
そうなると、疑うべきは人為的な記憶除去術だ。公にはされていないが、「白」にその技術があることは察していた。なかなか精度の高いものらしく、精神疾患の治療などにも使われたりすることがあるという。けれど、たかだか4歳やそこらの子どもに施術する意味も分からない。爆発事故による心の傷を癒すためとも考えられなくはないが、どうも腑に落ちなかった。恐らく、私が今まで気付かなかった何らかの思惑が隠されているはずだ。
「じゃあ、憐は学校のお勉強なんて、簡単すぎてつまらないでしょうね」
アザレアは楽しそうに語りながら、私の傷の手当てをしていた。消毒液が傷に染みたが、丁寧に処置されていることは伝わってくる。
「そんなことは無い。……アザレアには、何か特技はあるのか?」
さりげなく、情報収集してみる。同じ双子なのだ。私の記憶力ように、何か人とは違う力を持っていても不思議ではない。
「自慢できるようなものは無いけれど……大切な人の、痛みを分かち合えることかしら」
成程。随分と彼女らしい答えだ。何か特殊能力をもっていることを誤魔化すための答えかもしれなかったが、それ以上追及のしようがない。私にしたって、この記憶力が先天的なものかどうかも分かっていないので、双子だからと言って彼女にも特殊能力があると考えるのは早計かもしれなかった。
「アザレアらしい特技だ。私には程遠い」
「そんなことないよ、憐は優しい人だと思う。友だち思いで……」
アザレアは丁寧に包帯を巻き終えながら、楽しそうに笑った。
「あの子……千翔ちゃんだっけ。今度会ったら、私も友だちになりたいな」
その言葉に他意はなく、アザレアが「影」側の人間であることさえ、一瞬忘れかけてしまった。彼女はどのくらい、私との立場の違いを理解しているのだろうか。
「友達がいたら、きっともっと毎日が楽しくなるよね?」
私の頬に薄いガーゼを貼りながら、夢見るようにそう呟いたアザレアに違和感を覚えた。
「まるで友だちがいないような口ぶりだな」
もっとも、私も人のことは言えないのだが。
「そうだよ。私、友だちがいないの。シアンがね、あんまりシアン以外の人に合わせてくれなくて……」
見るからにしょんぼりとするアザレアを見ると憐れに思わざるを得ない。あの価値観の歪んだシアンならばやりかねないが、人懐っこいアザレアの性格を考慮すればもう少し自由を与えてやるべきだ。
「……よく、ここには来られるな」
「ここはね、特別なフロアだから私も行き来できるの。今はシアンもいてくれるし……少しだけ自由なんだよ」
そんな風に自由を奪われて接する人間がシアンだけだというのならば、アザレアが帝国と「影」の対立を深刻に考えていないのも無理はない。
「だからね、いつもここに誰かが捕まっていたら少しでも手当てしようと思うの。そうしたら少しは、シアンも認めてくれて自由が広がるかもしれないし……何より、シアンが傷つけてしまった人を助けたら、少しは償いになるかなって」
アザレアは、どうやら心までもがシアンに囚われているようだった。傍から見れば憐れで仕方がないが、恐らく彼女はそれなりに幸せなのだろう。しかしながら、それを分かった上でも、彼女に自由な世界を見せたいと思ってしまった。アザレアが街を歩けばいったいどんな表情をするだろう。見るものすべてに目を輝かせて、一日中感動しているに違いない。叶うならばここから連れ出してあげたいとさえ、思ってしまった。




