第65話
私は壁を利用して上体を起こし、手錠の付いた右手で端末を取り出した。端末の裏には水野財閥のロゴマークが刻まれており、あまり見たことのないタイプのものであるので、やはり恐らく新製品なのだろう。
私は全身の痛みに耐えながら、「0725」と入力し、通信画面を開いた。すると、一秒と経たずに黒い画面が白く変わる。既に対策本部の方からこちらの端末にアクセスしてあったのか、すぐに第一の塔司令室の様子が映し出された。随分と起動が速い。平常時ならば、水野財閥の技術の高さに感心しているところだっただろう。
映し出された画面は司令室を見下ろすように映っており、全体がよく見渡せた。すぐに黒衣姿の柊が中心に駆け寄ってくる。久しぶりの柊の姿に、それだけでもう胸が熱くなった。柊はかなり疲れ切っているようで、目の下には隈が出来ている。この事件の対応に追われて、ろくに休めていないのだろう。
「柊……」
私は壁に寄りかかったまま、その名前を呟いた。たった数日会っていないだけなのに、どうしてこんなにも彼を遠く感じるのだろう。まるで、もう二度と触れられないような寂しさに襲われる。
「憐っ! 大丈夫か!?」
珍しく慌てるような柊に、私は微かに笑ってみせた。笑えるうちに笑っておこう。次があるとは限らないのだから。
「ああ……。満身創痍だがな」
「傷の具合は……?」
「命を落とすようなものはないが……そこそこに出血している。あと、数か所骨にひびが入っているかもしれないが、まあ、折れてはいないだろう。意識も明瞭だ。だが……シアンの、あの道化師の半面をつけた青年は容赦ない。さっき何気なく殺害予告をされたから、危ないかもしれない」
柊の表情が苦々しいものへと変わる。そんな沈痛な面持ちの柊を見ると、胸が痛んで仕方ない。
「何か……薬は持っているか?」
私は軽くスカートのポケットに触れた。最終手段はまだ残されている。
「この間処方してもらった鎮痛剤と睡眠薬をそれぞれ10錠ずつ持っている」
音森財閥第一研究所で負った怪我のアフターケアとしてもらったものだ。深手を負い、酷い不眠に悩まされたこともあって、一般には処方されないような強い効果のものを貰ったのだ。
「それじゃあ、救助が来るまで鎮痛剤を飲んで少しでも痛みを和らげるんだ。今、憐の居場所を捜している。見つかり次第、軍の精鋭部隊を向かわせて――」
「いや、やめておこう」
私は柊の言葉を遮るようにして告げた。出来るだけ、何でもないことのように。決して悲観しているわけではないのだと示すように。
「これは、最終手段に取っておくよ。私の使っているような強いものであれば、一度に大量に服薬するのは危険なはずだ。20錠で上手くいくか分からないが……きっと、よく眠れるだろう?」
柊の表情が凍り付く。直接的な表現でなくても、やはり彼には伝わったらしい。
「馬鹿、何言って――」
「大丈夫だ、勝手には死なない。そちらの捜査の結果を待とう。だが……情けないが私もいつまで正気でいられるか分からないのだ。理性が崩壊してしまえば、それこそ『影』の思うつぼだ。……そうなる前に、もう一度連絡するよ。ついでに私の持っている薬で本当に死ねるかどうかも調べておいてくれ。駄目ならば、別の方法を考える」
柊の背後で、対策本部の大人たちが動揺しているのが見て取れた。柊は、苦し気な表情で私を見つめたままだ。
「……楽に死にたいんだ。『影』に殺されるよりは、柊の命令で自決したい。――頼むよ、柊」
酷いことを言っているのは承知していた。柊は、誰よりも私と合崎を大切にしてくれている。彼の優しさは、痛いほど身に染みていた。そんな彼に、私の自決命令を出せだなんて、どうかしているのかもしれない。けれども、なぜだか柊の声で聴けば、命を絶てという残酷な命令もすんなりと受け入れられる気がするのだ。
「――承知した。だが、あくまでもこれは最終手段だ。きっと、君を見つけてみせる……」
柊の目に嘘はなかった。数年前、初めて会った時から変わらない真剣な瞳だ。シアンと同じように色素の薄い瞳なのに、柊の方がずっと綺麗だった。美しい、私の大好きな色だ。
「――犯人について、何か分かっていることは?」
「……そうだな。名前はシアン。道化師の半面をつけているのは、昔、目を負傷したためらしい。左目の視力が完全に失われているのか低下しているだけなのかは分からないが……それでもものすごく強い。戦闘力は合崎並みか、それ以上だ」
画面越しに大人たちが再び騒めく。それも当然だろう。学院始まって以来の以来の秀才と謳われる合崎と同程度の戦闘力を持つ人間なんて、できれば私も会いたくなかった。
合崎。その名前を心の中で呟いて、ふっと寂しくなった。あいつは、元気にしているのだろうか。千翔が解放されていくらかは安心しただろうが、無理はしていないだろうか。一応画面の隅から隅まで眺めやるも、残念ながら、対策本部には合崎の姿はないようだった。気持ちを切り替えて、再び柊を見やる。
「……千翔の傷の具合はどうだ?」
一つ、気になっていたことをこちらから質問する。柊は一瞬驚いたように私を見ていたが、すぐに答えてくれた。
「良好だよ。憐が心配するようなことは何もない」
「そうか……」
それを聞いて、一安心だ。後は傷跡が残るようなことがなければいいと、小さく願うばかりだ。
「……空に、会うか?」
柊は、先ほどの私の挙動から察していたのか親切にも提案してくれる。会いたい。それが率直な想いだったが、今はそれをかなえてはいけない気がする。私は静かに首を横に振った。
「……どうして? 空は、会いたいと思うよ」
どうだろうか。いっそ、この機会に合崎の重荷でしかない私がいなくなってしまえば、彼はもう少し幸せに生きられるはずだ。
「……いいんだ」
私は、柊から視線を外して自嘲気味に笑った。
「今、会ったら……泣きそうだ」
ここで泣いたら、もう終わりな気がした。合崎の顔を見て安心した後に、シアンの迫害に耐えきれる自信がない。帝国を――大切な人たちを守るためには、まだ耐え続けねばならないのだから。
「憐……」
その瞬間、金属のドアの向こうで何かが落ちる音がした。まずい。シアンだろうか。
「誰か来た、また連絡する」
手短にそう述べ、手早く端末を制服の内ポケットへしまった。こちらの方が、投げ出される心配も少ない。そして壁に寄りかかったまま、訪問者を迎え入れた。




