第64話
咳き込みながら、冷たい灰色の床に横顔から倒れ込む。その拍子に舌を僅かに噛み、鈍い痛みと鉄の味が広がった。既に起き上がる気力すら無くした私を見下ろして、シアンは笑う。
「もう一度訊くよ。『白』の第一の塔司令室、メインコンピュータの取扱責任者は誰だ?」
千翔が解放されてから、約一日半。私はほぼずっと事情聴取を受けていた。ひとことだって語るまい、と固く口を閉ざしたはいいものの、そろそろ体力は限界に近づいていた。何とか彼が私に興味を失うまで、黙秘を決め込むしかない。シアンの前で下手な嘘をつけば、綻びから事実を見抜かれかねない。
メインコンピュータのセキュリティは責任者と院長をはじめとした幹部会数名の本人証明でしか開くことが出来ない。数字や文字の羅列のパスコードで辿り着ける情報など、一般的に知られているものをベースにした第三級の情報だった。「影」だってそのくらいは、とうに辿り着いているはずだ。だからこそ、彼らが求めるのはその情報の真髄。幹部会の人間よりは狙いやすいであろう責任者を誘拐なり殺害なりして情報を手に入れるつもりなのだろう。
「ねえ、黙ってないで話してよ。それとも……」
シアンは私の前に屈みこむと、その右手を私の喉元に伸ばした。
「話さないなら、声なんていらないかな?」
「――っ!」
シアンの言葉と共に、片手で首を絞められる。シアンはあくまでも怖がらせるだけなのかもしれないが、こちらとしては死を覚悟するのに十分な強さだった。圧迫感と耳鳴りに、思わず涙目になる。息が出来ない苦しさと、相手の片手だけで絶命してしまうかもしれないという己の無力さに絶望が忍び寄った。
意識を失う寸前で、喉元から手が離れた。霞む視界とゆらゆら揺れるような気分の悪さに、目尻に一層涙が溜まる。
――こんな姿、千翔に見られなくて良かった。
息苦しさに咳き込めば、滲む視界にシアンが映った。繊細な表情までは溜まった涙のせいで分からなかったが、笑っているのは火を見るよりも明らかだろう。千翔の理論でいけば、シアンの攻撃の手が止まっているこの状況は、深い傷を避けるための最善の状況なのだろうが、生憎すでに意識を失う寸前だ。この状態を演じるようにするだとか、そう言った余裕はとうに失っていた。
そう考えると、千翔の適応力と演技力は素晴らしい。それらを取得せざるを得なかった状況は筆舌に尽くしがたいほど憐れだが、結果だけを見れば彼女は私よりもずっと多くの生きる術を身に着けている。彼女は帝国に保護されるまでずっと、逆境に耐えながら生きてきたのだから。
「……本当、強情というかなんというか……。帝国の洗脳がそんなに強いのか……」
退屈そうに溜息をつきながら、シアンは血の付いたナイフを弄ぶ。どこを切られたかなんて、もう覚えていなかった。
「まあ、こんな状態の次期軍師様を見るのは楽しいから、別にいいんだけどね?」
くすくすと笑いながら、倫理観をどこかに置き忘れた道化師を見上げる。半面に覆われていないほうの、色素の薄い片目だけはやけに鮮明に見えた。
「影」に落ちていく人間も、恐らくは私と同じ扱いを受けたのだろう。日に日にシアンへの恐怖と軽蔑は募っていくばかりだが、「影」に落ちた人間がどの段階で彼に縋りだすのかが分からない。無論、拷問のような苦しみから逃れたいからという理由は思い当たるが、そんな一方的な暴力による洗脳がいつまでも続くとは思えなかった。それに、時折姿を現す黒い外套姿の部下たちは確かにシアンを恐れているようだが、それは最早畏怖に近いもので、シアンの仲間であることを誇りに思っているような印象も受ける。妙な連帯感の正体もつかめない。
「じゃあ、質問を変えようか。――主電源室の人間は何人いる?」
起き上がることもなく、冷たい床の上に投げ出された私の左の甲に、シアンがナイフを当てる感触があった。アザレアが、消毒液の安全性を証明するために、自ら切った場所と同じところだ。傷つけられるのは今更だが、刺されるのは御免だ。だが、抵抗の間もなく、あっさりと左手首を押さえつけられてしまう。
「ほら、憐ちゃん。答えて? 何人?」
その言葉と共に、ナイフが手の甲を縦に刻むように移動していく。かなり深く切っていると、嫌でも思い知らされる痛みだった。アザレアに、自ら傷をつけさせたことがよほど気に入らなかったと見える。それはある意味、この狂った人格の持ち主にしては人間らしい側面であるのかもしれないが、その怒りをこうして傷つけることでぶつけてくるのだから質が悪い。
「……っ!」
手の甲が切り裂かれる感触というのは、当然ながら気分の良いものではない。痛みは絶叫ものだが、一度叫んでしまえば心神喪失状態に陥りそうで、ぎゅっと唇を噛みしめて耐えるしかなかった。嫌でも目尻に涙が溜まっていく。
もし、アザレアが来てくれたら、この痛みも少しは軽くなるだろうか。
そう思ってからふと、私は心のどこかで彼女の来訪を待ち望んでいるのだと気づく。双子の片割れとしての情はないが、彼女だけがこの痛みから救ってくれる救世主のような気がしていた。
「何も言わない、叫ばない、か。本当に憐ちゃんは帝国の人形だね。つくづく憐れな子だ」
実際、それが名前の由来なのではないかと思うくらいに、「憐れだ」と私は言われ続けてきた。それほど自分が惨めだと感じることは無いが、次期軍師としての存在価値は疑っている。帝国は手間をかけてまで、私を救おうとするだろうか。
もし、誘拐されたのが私ではなく合崎だったら、帝国は死に物狂いで彼を取り戻そうとするだろう。帝国トップレベルの戦闘力と終末予知能力が「影」の手に渡れば、恐らく「影」と帝国の戦況は大きく変わる。
だが、私にはそれほどの影響力はない。合崎の付属品。帝国の捨て駒の人形。言われなくても知っているのだ。私に与えられた存在価値は、所詮そんなものだということを。それを残念には思っても、帝国を恨む気にはなれなかった。帝国に良い扱いを受けたことは一度もないのに、心の奥底では帝国が正義であると信じている。一秒ごとに募るのは、怒りでも恨みでもなく、ただ帝国に見捨てられるのだという小さな恐怖と失望感だけだ。
どうせ死ぬのなら、「影」の手によってではなく、帝国を守るために死にたい。あの完璧な「白」の中には、たとえ私の一方的な想いだったとしても大切な人たちがいるのだから。
やがて、シアンが私の左手から手を離す。左手は小刻みに震え、手の甲からは目を背けたくなる大量の血液が溢れ出していた。脈打つたび、傷口は痛み、少しずつ赤が広がっていく。もう左手を使うことは、ほぼ不可能だろう。
「……もう一息、ってとこかな」
シアンは私の目をのぞき込んで、不吉に笑う。端整な顔立ちが、余計に恐怖を駆り立てた。猟奇的な笑みに反射的に怯えてしまう。
まずい。恐怖は洗脳にもってこいの道具だが、私は少しずつその第一段階に踏み込んでいるのかもしれない。
私は息を整えながら、胸ポケットの中の端末の感触に集中した。大丈夫。まだ、望みは残っている。機を見計らって、対策本部と通信を図ろう。恐らく千翔から事情を聴いた対策本部が、私からの連絡を待っているはずだ。幸いにも、両手は体の前で拘束されているため、何とか操作は出来そうだ。
そう思えば、まだ希望は持てた。私は次期軍師としての威厳と誇りをもって、私を見つめるシアンの色素の薄い瞳を睨んだ。まだ、こいつの思い通りになるわけにはいかないのだ。たとえ、この命が絶えようとも、こいつには何一つ教えてやるものか。
シアンは、そんな私を一瞬冷めた目で見つめると、やがていつも通りの狂気じみた微笑を浮かべた。
「……本当、嫌になるな。何の因果なのかな……」
くすくすと笑いながらも、その瞳はどこか沈んでいた。今の私の一睨みで何を思ったか知らないが、シアンは興ざめしたようにドアノブに手をかける。
「……早いところ、殺しちゃった方がいいのかもしれないね。ねえ、憐ちゃん?」
何気なく不吉なことを口走りながら、シアンはドアの向こうへ姿を消した。
久しぶりに味わう一人の空間に、安堵の溜息が漏れる。緊張が解けたのか、どっと疲れが押し寄せてきた。抗いがたい眠気にも襲われる。
だが、ここで眠るわけにはいかないのだ。次、シアンの監視の目から逃れられる機会がいつ来るか分からない。たった2,3分でも構わない。対策本部と通信しなければ。




