第63話(合崎視点)
「水野千翔が解放されたぞ!」
一際大きなその声は、合崎を浅い眠りから現実へ呼び覚ました。眠るつもりではなかったのに、いつの間にか第一の塔の司令室の隅でうたた寝をしていたらしい。肩には帝国軍上官の黒衣が掛けられており、こんな非常事態でも柊の気遣いを感じて何も言えなくなる。
数秒してから、先ほど飛び込んできた「水野千翔の解放」という言葉の意味を理解して思わず立ち上がる。あの犯行声明から丸一日が経とうとしていた。久しぶりの朗報に、司令室の空気が少しだけ明るくなる。
良かった。千翔が解放された。それも、命のあるままで。それは本当に喜ばしいことだった。だが、心からは喜べない自分がいることに合崎は気づいていた。千翔の解放は、即ち憐が一人になったことを意味しているのだから。
千翔が誘拐されてからというもの、仕事もそこそこにこの対策本部に滞在していた水野財閥の当主が真っ先に司令室を出ていった。恐らく、千翔を迎えに行くのだろう。水野財閥の関係者や、対策本部の数名も彼に続く。
それから一時間後、「白」のエントランスホールで千翔と彼女の両親は三日ぶりの再会を果たしていた。財閥令嬢誘拐なんていう格好のネタを放送局や電子誌が放っておくはずもなく、千翔の誘拐のことは帝国に広く知れ渡っていた。解放されたという情報をどこから仕入れたのか分からないが、今も数えきれないほどのカメラとフラッシュが千翔とその両親を囲んでいる。今夜の情報番組はこの話題で持ちきりだろう。
千翔の体は随分と負傷しているようだったが、なぜか傷口には包帯が巻かれていた。帝国側の人間が施したにしては、対応が速すぎる気がして違和感を覚える。
話を聞くと、千翔は人工知能の誘導で約束の場所まで連れてこられたらしい。その人工知能が、残る憐を助ける手助けになるかと思ったが、役目を終えた途端に自爆したという。それを聞いた時の柊の落胆ぶりと言ったら無かった。
でも、今は千翔だけでも解放されたことを喜ぶべきなのだろう。フラッシュの中で両親に抱きしめられる千翔を眺めながら自分に言い聞かせるように心を落ち着けた。水野の当主は身代金の倍額を出すから憐も解放してくれと言ってくれたようだが、やはり「影」が応じるはずもなかった。それも当然なのだろう。自分が「影」であれば、憐のような切り札を金で取引するような真似はしない。
両親に抱きしめられている千翔を見ていると、血の繋がりはなくとも家族は家族なのだなと実感する。千翔の母親らしき女性は、随分とやつれた姿でフラッシュの中号泣していた。あれは、本当に千翔を心配していた者にしか出来ない姿だ。
自分に家族という概念を理解できる日は来るだろうか、と合崎は視線を伏せた。唯一家族に近い存在を挙げるとすれば、それは憐なのだが、彼女は最早ただの「妹」として扱うには相応しくなかった。正直、自分の中で憐の存在がどういったものなのかはっきりと言い表せなくて困っているくらいだ。ただ、全ての中心にいるのが憐で、あらゆる判断基準に憐が絡んでくる程度には、彼女に依存しているのだという自覚だけはある。
ぼんやりとそんな物思いに耽っていると、千翔が両親に連れられてこちらへ移動してきた。千翔の横顔は、解放されたにしては暗い面持ちだ。やはり、憐のことが気になっているのだろう。
「……空兄様」
ふと、こちらに気づいた様子の千翔が駆け寄ってくる。近くで見れば見るほど、千翔の体中に傷がついていることが分かる。犯行声明で目にした、道化師の半面を被った青年の嘲笑を思い出し、泣き虫な千翔があいつに傷つけられたと思うと一層犯人に対する殺意が増した。
「空兄様っ!」
駆け寄ってきた勢いで、千翔に抱きつかれる。少々の戸惑いを隠せなかった。「妹」とはいえ、普段そこまでするほど親しくはない。だが、カメラ向けの演出なのかとも思い、小柄な彼女の背中に手を回し素直に千翔に合わせた。憐よりも背の低い千翔は、こちらの肩のあたりまでしか身長がなく、やはり慣れない。
「千翔……無事でよかった」
思った以上に暗い自分の声に、嫌気が差す。もっと素直に、「妹」の無事を喜ぶべきなのに。
「……本当に、怖かったです。空兄様っ……」
縋るようにしがみ付いてくる千翔は、傍から見れば完璧な悲劇の令嬢だ。だが、ふとカメラの死角に当たる部分で薄い端末のようなものを手渡される。千翔は涙ぐみながらも、囁き声で告げた。
「――その端末で、憐姉様と通信できます。対策本部の皆さんにお渡しください」
その囁きは、およそ普段の千翔らしくない冷静なものだった。かと思えば、涙ぐんだ声で縋りついてくる。
「空兄様……私っ……」
思わず、ふっと微笑んでしまった。この「妹」は思ったよりも策略家だ。見事に涙に騙された。この行動も、いち早く端末を手渡すための演技に過ぎない。意外な千翔の才能を目の当たりにし、「妹」の成長を頼もしく思った。
「大丈夫だ、千翔。……もう、大丈夫」
カメラのフラッシュの中、千翔の頭を軽く撫でる。憐と連絡が取れるのは大きい。位置情報から、憐を助け出すことも可能かもしれない。
そっと腕を離すと、千翔は涙ぐんだ表情のまま、両親の許へ戻っていく。その途中、一瞬見せた冷静な眼差しは、千翔ではないのではないかと思うくらいに大人びていた。大きな希望を、千翔に託されたのだ。必ず、憐を助け出さなければ。




