第62話
アザレアとシアンが去ってから、もう一度横になってみたものの、床の冷たさは夢の中へは誘ってくれなかった。手当てをしてもらったとはいえ、ナイフで切られた傷は動くと裂けるように痛む。思ったよりも深い傷なのかもしれない。
千翔は未だに規則正しい寝息をたてて眠っていた。その横顔は安らかで、少しは休めているようだと安心する。きっともう、悪い夢は見ていないはずだ。せめて目が覚めるまでは、この冷たい部屋に閉じ込められている現実を忘れてほしかった。
一度眠ってしまったせいで、はっきりとした時刻は分からないが、アザレアが去ってから4時間ほどが経とうとしている。こうして一人灰色の壁を眺めることは、フラッシュバックとの闘いでもあった。あまりにもぐるぐると思い悩むと、必ずと言っていいほど辛い過去が蘇る。普段はそれを避けるために、情報番組なんかを見て気を紛らわせているのだが、生憎この部屋にそんな都合の良いものはない。それどころか、この部屋の無機質さは例の「実験」の日々を思い出すことが多く、常に緊張状態を強いられていた。自分の部屋や「白」を恋しく思ってしまう。
不意に、乱雑にドアが開けられたかと思うと、シアンと黒い外套を纏った数人が入室してきた。その音に驚いたのか、千翔がびくりと肩を震わせて目を覚ます。
「おはよー。憐ちゃん、令嬢さん。いい夢見れた?」
色素の薄い目で、シアンは私たちを見下ろす。アザレアに向ける視線とは大違いだ。だが、今はナイフを手にしていないようで、少しだけ安心した。
「残念だけど、令嬢さんは解放するよ。君のお父さんが、高いお金を払ってくれたからね」
その言葉に、肩の力が抜けたようだった。良かった。千翔はこれで助かるのだ。身代金を払っても、シアンならば千翔を始末しかねないと危惧していたが、やはり水野財閥を無闇に敵に回すような真似はしたくないらしい。
だが、私の喜びをよそに、千翔ははっきりと言い放つ。
「私一人では……行けません!」
千翔は睨むようにシアンを見上げていた。彼女が私を心配してくれる気持ちは分かるが、下手に刺激しないほうがいいに決まっているのだ。
「憐姉様を残して行けません」
そんな健気な千翔を見て、シアンはくすくすと笑い出す。彼にとってはどんな懇願も命乞いさえも、嘲笑を浮かべて聞き捨てるものに過ぎないのだ。
「……千翔、私はいいから」
「嫌です! 憐姉様を……失いたくない」
千翔の目には切実な思いが宿っていた。彼女の独白を聞いた今ならば、その思いが分かるような気がする。
「はいはい。そう言う茶番も、もう見飽きているからさ」
そう言って気だるげに笑うシアンの許に、不意にいつか見た白衣の青年が駆け寄ってくる。
「シアン! ……今、水野財閥から連絡があった」
「この期に及んでまだ何か?」
退屈そうに、シアンは報告の続きを促した。
「それが……水野の当主が要求額の倍を出すから、一条憐も解放しろ、と」
思わず耳を疑った。その心遣いは嬉しく思ったが、娘の友人にそこまでする必要があるのだろうか。
だが、シアンは悩む素振りも見せずにその提案を却下する。
「憐ちゃんは、金で取引するにはもったいないんだよね。この子がいるだけで、僕らは『白』のメインコンピュータを乗っ取ったも同然なんだからさ」
覚悟はしていたことだが、やはり私の記憶力についてもしっかり把握されているようだった。メインコンピュータは少々言い過ぎな気もするが、確かに今まで目を通した重要書類や要人の情報などはすべて記憶してしまっている。「影」からすれば、喉から手が出るほどに欲しい情報が満載だろう。
「……下手すれば、帝国を破滅させる鍵になるかもしれない」
シアンは意味ありげに笑って、私に視線を合わせるように屈みこんだ。
「だから君にはもうちょっと付き合ってもらうよ。楽しみだね?」
そう言ったシアンの目が、本当に猟奇的なものを感じさせて、不覚にも動揺してしまった。だが千翔の手前、余計な心配もかけたくない。必死に平静を取り繕った。
「――水野千翔を連れていけ」
シアンは冷え切った声で黒い外套を纏った者たちに命令する。彼らは千翔の足枷と手錠を外すと、腕を掴んで立ち上がらせた。
「っ憐姉様!」
絶叫する千翔は必死に抵抗しているようだった。あれでは傷が悪化してしまう。私だって、千翔とはなれるのは心細いが、見送るしかないのだ。
「千翔……」
なるべく穏やかな声で、彼女の名を呼びかける。トラウマのある彼女にとっては、この場に仲間を残していくことが不安でならないのだろう。
「憐姉様ぁっ!!」
もしかするとこれが、最後の対面になるかもしれないのだ。今の私ではきっと、シアンには勝てないのだから。最後には、どんな表情を浮かべるべきだろう。やはり笑顔だろうか。
不意に、千翔がシアンの部下たちの手を振り払って私の許へ駆け寄ってきた。幸いにも、シアンはもうドアの方にいて、彼女を妨げるものはいない。駆け寄ってきたその勢いで、そのまま千翔に抱きつかれた。
「憐姉様!」
泣き叫ぶように、千翔は私の名前を繰り返す。こんなに冷たい部屋の中でも、千翔の小さな手は温かかった。
「嫌です! 憐姉様を……一人にするなんて」
彼女のその言葉と同時に、制服の胸ポケットに何か薄いものが入れられるのを感じた。硬さからして、端末のようなものだ。
「私一人で帰るなんて……」
泣きじゃくるような声を上げながら、千翔が私の耳元に顔を寄せる。そして信じられないほど冷静な声で囁いた。
「――パスコードは0725です」
大した奴だと、思わず彼女の腕の中で笑ってしまった。千翔は、私のそうそう以上に大人びていて優秀だ。
「憐姉様!」
シアンの部下に再び腕を掴まれながらも、千翔は絶叫する。彼女の演技力は、私が知っている誰よりも高い。騙し討ちが得意な軍人というのも、悪くはないだろう。彼女の将来がますます楽しみになった。
「離してっ! 憐姉様!」
泣き叫ぶ表情の狭間で、一瞬だけ彼女は私に微笑んでみせた。彼女の目は、私の命を諦めてはいないようだった。私はそんな彼女の強さに励まされるようにして、弱々しく笑みを零す。
やがてシアンの部下たちに連れられて、千翔の姿は見えなくなった。閉ざされた金属製のドアを前に、私はゆっくりと深呼吸をする。
千翔が残してくれたこの端末は、私たちが誘拐されたあの日、彼女が話していた新商品という奴だろうか。従来のものよりもさらに軽くなっている。電源に限りがあるだろうから、連絡を取れる回数は限られていた。だが、こんなにも心強い味方が出来たことは大きい。これを隠し持っていた千翔には、感謝の念で一杯だ。
だが、ここからは一人なのだ。静寂がその現実を痛いほどに表わしていた。
せめて、「影」の手に情報が渡るという最悪の結末だけは回避しなければならない。私の記憶にある情報は、何に代えても守り抜かなければならないものだ。その自覚は十分にあった。それと同時に覚悟も決める。
「……大丈夫だ」
軽く目を瞑り、自分に言い聞かせるように呟いた。声だけ聴けば、アザレアに励まされているような気がしなくもない。
これは、帝国を守るための孤独なのだ、苦しみなのだ。そう思っていくらかこの気持ちが楽になるのならば、どんなによかっただろう。いっそ洗脳されていた方が私は幸せだったのかもしれない。そんなことを思いながら、心細さを誤魔化すように、私は一人小さく笑ってみせた。




