第61話
安らぎと温もりを感じる、不思議な歌が聞こえる。
意識していないくらい遠い昔に、耳にしたような歌が。
淡く白い光の中に誰かがいる。
なぜだろう。
どうして、思い出せないのだろう。
言葉にできないもどかしい感覚に、ふっと現実に引き戻された。どうやらうたた寝をしていたらしい。首元に違和感を覚えて見やれば、首筋の傷に巻かれた包帯が取り換えられている最中だった。無論、アザレアと呼ばれた例の少女の手によってだ。歌を口ずさんでいたのは、彼女だったらしい。
「……起こしちゃった? ごめんね」
アザレアは申し訳なさそうに微笑んだ。仮眠を取って多少回復したと言えど、冷たい床の上では体力の消耗が激しい。全身がいつもよりずっと重く感じてしまう。千翔は未だぐっすりと眠っており、起きる気配を見せなかった。
「シアンが来る前に、もう一度診ておきたくて……。ちょっと、心配だな……。先生に診てもらいたいけれど……難しいよね……」
独り言のように呟きながら彼女は私の傷を観察する。ひどく心配そうなその表情に嘘はないように思えた。
「私はお前らにとっては敵なんだ。お前らの医者が私を診るはずもないだろう」
「そうかな。人の命に、敵も味方もないと思うけれど」
まるで聖女のようなことを宣う彼女は、私の首元の包帯を丁寧に巻き終えると少し困ったように微笑んだ。
「愛されない命なんてないよ。それだけで、もう、救うべきものだと思うんだ」
ゆるく結ばれたサイドテールが可憐に揺れる。私と同じ顔でありながら、彼女の方がずっと愛らしいのは言うまでもなかった。大切に育てられてきた証なのか、この年まで純粋な心をもって生きてこられた彼女が、私には少し眩しくてならない。
「……今、歌っていた歌は何だ?」
彼女の綺麗な言葉に付き合えるほど、私の世界は美しくない。意図的に話題を転換した。
彼女の歌は、音森財閥で聞いたような「影」の宗教歌とはまるで違う、優しい響きの穏やかな歌だった。興味を持たれたことが嬉しいのか、アザレアは思った以上に喜んだ表情を見せる。
「私たちのお母様がよく歌ってくれていた子守歌だよ。覚えてない?」
「私たちの」という言葉に、やはり少し戸惑ってしまう。私は動揺しながらも、それを悟られぬよう聞き返した。
「……私とお前は、姉妹なのか」
もしそうならば、私には「影」の血が流れているのだろうか。その可能性を考えてみなかったわけではないが、いざ真相を前にすると脈が早まった。覚悟はしていたはずなのに、絶望感が忍び寄ってくる。
「そうだね。双子だと思うよ。どっちが姉か妹かはよく分からないのだけれど……」
そう言うとアザレアは、首元に提げていたペンダントを外し、私の目の前で開くと小さく折りたたまれた紙を取り出した。それをゆっくりと広げていく。
それは家族写真のようだった。爽やかな笑みを見せる帝国軍の制服を纏った若い男性と、その隣の車椅子の上で微笑む、亜麻色の髪の美しい女性。その女性の後ろには、帝立第二学院の制服を着た眉目秀麗な少年が立っている。そして少し傾けられた二つの揺りかごの中には、それぞれ亜麻色の髪を少しだけ生やした赤子が乗っていた。絵にかいたような幸せが、そこにはあった。
「私ね、ずっと信じていたの。いつかは、双子の片割れに出会えるって。シアンは無理だと言ったけれど……でも、こうして会えたんだから」
双子の片割れの存在。血縁者など一人もいないと信じて生きてきた私にとっては、そう簡単に受け入れられるものではなかった。写真を見ても、双子の片割れに会っても、動揺するだけで感動はない。私には、今更、家族愛など理解できそうにもなかった。
「私たち、4歳の頃に爆発事故に巻き込まれたんだって……。その時に、この写真に写っているお父様やお母様、お兄様は亡くなってしまって……。私は幸い、がれきの中からシアンに助けてもらったの」
爆発事故。さも不慮の事故のように形容されているが、この時代に起こる爆発なんてまず間違いなく「影」によるテロだ。その無差別殺人のせいで、身寄りのなくなった子供たちが大勢孤児院に引き取られることになるのだ。
「憐さんは?」
「……私は孤児院育ちだ」
こうして命が助かっているのだから、私も誰かに救い出されたのだろう。今まで興味を持っていなかったが、もし「白」に帰ることが出来たら調べてみてもいいかもしれない。
「楽しかった?」
「まさか」
「憐さんの周りには、今どんな人がいるの?」
彼女は興味津々といった様子で質問を重ねてくる。下手に喋れば情報を渡してしまうことになるので軽はずみなことは言えない。そして今はそんなことよりも、私と同じ声で「憐さん」と繰り返し呼ばれることに微妙な恥ずかしさを抱いていた。
「その……憐、でいい。変に敬称をつけられても困る」
「憐って呼んでいいの?」
「そう言っている」
アザレアは無邪気に喜んだ。どうやって生きてきたら、こんな風に感情を素直に表せるような少女になるのだろう。忌み嫌われている「影」の教育が、帝国のそれよりも上等なものだとでもいうのだろうか。
「じゃあ……憐! 憐は、今誰と暮らしているの? まさか一人じゃないでしょう?」
「答える義理はない。情報を提供する気もない」
「そっか。じゃあ、私の話をするね」
彼女は純粋に世間話を楽しむように自分の身の上を語りだす。
「私の傍にはね、昔からずっとシアンがいてくれたの。シアンは私より8歳年上で、すっごく強くて、大好きな人なの。必要なことは全部、シアンが教えてくれたし私の願いも全部、シアンが叶えてくれた。今回だって、ほら、私と憐を会わせてくれたでしょう!」
自分の話をすると言った割には、随分シアン一色だ。それほどに、アザレアの中で彼の存在は大きいのだろう。十分すぎるほどに、アザレアがシアンを大切に想っていることが伝わってくる。
「シアンはね、とっても優しい人なんだよ。でも、お仕事のときは……こうして人を傷つけてしまうの。どうしてだろうっていつも考えているけれど、分からないままなの」
どうしてもこうしてもあったものじゃない。シアンに優しい面があるだなんて、想像もつかない。殺戮と加虐を楽しむあの目に、慈愛が満ちることなどあるのだろうか。
「だから私はこうやって、シアンが傷つけてしまった人を手当てするの。それでシアンのしたことが許されるわけではないと思うけれど……。私に出来ることはこれくらいしかなくて」
意外にも、アザレアの罪悪の価値観はまともであるようだった。シアンを妄信して、彼のやることなすこと全てが正しいとは思っていないようだ。とはいえ、アザレアの中心にシアンがいることに変わりはないのだろう。外部とのつながりをシャットアウトして、シアンだけが彼女に新しい世界を教えてくれたのなら、嫌でも彼を中心に生きていくほかない。
ふと、警戒心の薄いアザレアの独白は、利用できるかもしれないと思いつく。私はあくまでアザレアの調子に合わせるようにして、そっと尋ねてみた。
「……シアンは、どうして道化師の半面をつけているんだ?」
その質問には、アザレアは視線を伏せ、それはそれは悲し気な表情をした。大した思い入れがなくとも、質問したこちらが罪悪感を抱くには充分な表情だった。
「昔は……つけていなかったの。でも、私が8歳のとき、お仕事から帰ってきたシアンは左目に怪我をして……。詳しくは教えてくれなかったけれど、私が怖がるといけないからってああやって隠すようになったんだよ」
どう考えても、あの半面の方が怖いだろうに、殺戮を道化としか思っていないようなシアンには、この上なくお似合いではあったが。
「目に怪我……か」
失明か、あるいは著しく視力が低下している可能性はある。もしほぼ片目だけで、あの戦闘力があるのだとしたら脅威以外の何物でもなかった。両目が健在なシアンだったら、合崎でも手も足も出せないかもしれない。
そんな中、不意に部屋のドアが開けられる。相変わらず耳障りな音だった。噂をすれば影と言わんばかりに、入室してきたのはシアンだった。アザレアは彼の登場に見るからに嬉しそうに目を輝かせる。
「シアン!!」
シアンは私と眠る千翔を一瞥した後、溜息交じりにアザレアを見つめた。
「……また手当てしたのか。汚いから駄目だと言った気がするんだけど」
「でも、苦しそうだったから……」
「この二人は、アザレアが気にかけてやる価値のある人間ではないんだ。さあ、早くこっちにおいで」
アザレアは迷うように私とシアンを交互に見つめ、やがてゆっくりと立ち上がりシアンの許へ歩み寄った。
「シアン……。憐は私の双子の姉妹なの。だから、もう酷いことはしないで……?」
アザレアはシアンの手を握り、それは美しい目で訴えた。甘えるような甘い声なのに、不快な感情は一切湧き起こらない。ただひたすらに何て愛らしい存在なのだろうと思わせるだけの魅力が彼女にはあった。
「……血の繋がりが、なんだっていうんだ?」
シアンの言葉には、いつも私と対峙するときのような狂気が滲み出ていた。アザレアは少し不安げに、シアンを見上げている。そんな彼女をみて、シアンはふっと笑ってみせた。
「怖かった? ごめんね」
そんな優し気な言葉とは裏腹に、シアンは冷え切った目で私を一瞥すると、自然な仕草でアザレアの肩を抱き部屋を出ていった。あの様子では言葉通り、私の迫害をやめる気はなさそうだ。
だが、シアンのアザレアに対する視線や仕草で、彼が彼女を大切にしているらしいことははっきりと伝わってきた。どんなに狂った人間にも、愛する人の一人や二人はいるものなのだな、と笑ってしまう。それと同時に、雰囲気は違えどもシアンの愛するアザレアと同じ顔の私を、よく躊躇いもなく傷つけられるものだと感心してしまった。同じ顔でも別人だと割り切っているのだろうが、その潔さは正直羨ましい部分がある。
合崎とシアンだったあら、どちらがより狂っているだろう。猟奇的なのは間違いなくシアンだが、手段を選ばない冷酷さはお互い様な気がした。合崎が軍師になった暁には、きっとシアンと対面する日も来るはずだ。そしてそれは歴史的な戦いになるに違いない。
その時に、私は合崎の傍にいることが出来るだろうか。床に飛び散った血飛沫の跡をなぞりながら、私は一人溜息をついた。




