第60話
それから2時間ほどが経ち、灰色の部屋の中には千翔の寝息だけが響いていた。こんな冷たい床の上では十分に安らげないだろうが、それでも睡眠を取れば多少の回復は望めるかもしれない。
溜息交じりに、私は冷たいコンクリートの壁に寄りかかる。先ほどの千翔の言葉から推測するにもう夜だが、きっと第一の塔の対策本部は眠らないのだろう。ただでさえ多忙な柊に、余計な仕事を増やしてしまった罪悪感が広がっていく。もっとも、今は悔やむよりも脱出方法を考えるほうが賢明なのだろうが。
この部屋の出入り口は、あの耳障りな音を立てて開く金属のドアの一つだけ。ちらりと見えたドアの先は「白」と同様に最新の設備が整っているようだったので、当然、監視カメラも多数設置されているだろう。武器も何もない私たちが脱出するにはハードルが高すぎる。仮に手錠が取れたところで、逃げおおせる可能性は低いように思われた。
だが、今日のペースで迫害され続ければもって7日間だ。いくらあのアザレアという少女が手当てをしようが、この環境下ではきっと絶命してしまう。それまでに、せめて千翔だけでも解放されることを祈るばかりだ。
私は、何と引き換えに取引されるだろう。「影」のことだ。無理難題を押し付けてくるに違いない。そもそも取引条件など提示しないかもしれない。私が次期軍師だと調べがついたということは、恐らくは私の記憶力についても知っているはずだ。私の記憶の限りの情報を聞くだけ聞き出して、殺される可能性だってある。「実験」の1か月のおかげで、苦痛にはある程度の耐性はあるつもりでいるが、それでも度を越せばどうなるかわからない。心神喪失状態になって、理性など働かず、ただ痛みから逃れるためだけに情報を吐き続けるようになる可能性がないとは言えないのだ。そうなってしまっては、「影」の思い通りだろう。それだけは何とか避けたい。
私はそっと制服のスカートのポケットに触れた。端末などは奪われてしまったが、幸いにも最終手段はここに残っている。これは、最悪のシナリオを回避するための小さな犠牲だ。
ふと、眠っている千翔が苦しそうに呻いていた。慌てて彼女を見やると、頬には汗が伝っている。寒いくらいの室温だというのにどうしたのだろう。傷口から何か感染してしまったのだろうか。不安になり、彼女の傍に擦り寄るとそっと彼女の頬に触れた。特別熱いわけではない。高熱があるというわけではなさそうだった。
「千翔……? 大丈夫か……?」
僅かに呼吸も乱れているのを見ると、胸騒ぎがした。焦りを滲ませて、鎖と共に彼女の肩を軽く揺らす。
「千翔……? おい、千翔っ! どうしたんだ?」
何度も彼女の名前を呼んだ。そのたびに不安が膨らんでいく。脳裏には、私の力では回避しきれない最悪の結末が浮かんでいた。
「千翔っ!」
泣き出しそうな勢いで叫んだとき、唐突に千翔が目を覚ました。その目は酷く怯えていて、私の叫び声に驚いてしまったのかとも思ったが、どうも違うらしい。輝きを失った目を私に向けると、軽く目を閉じて深呼吸する。
「千翔……大丈夫か?」
私の声に、千翔は再び目を開け曖昧に微笑んで見せた。やはりその目に光は無い。やがてゆっくりと体を起こす。
「すみません……急に」
そう言った千翔の横顔は今まで眠っていたはずなのに、ひどく疲れているように見えた。儚げに伏せる視線の先には、手首に繋がれた鎖がある。
「……ひどく苦しそうだったぞ。どこか痛むのか?」
千翔は微笑みながら、ゆっくりと首を振る。そして少し迷うような沈黙の後で口を開いた。
「悪い……夢を見たのです」
そう語りだした千翔の物腰は至って穏やかだった。
「遠い昔のこと……。私が、初めて人を殺めたときのことを……」
数秒間、時が止まったかのような感覚だった。今日は驚かされてばかりだ。
「……それは、悪夢だな。だが、目が覚めたんだからもう大丈夫だぞ。夢なんて大体一度きりだろう」
「……夢じゃ、ないんです」
千翔の声はか細いのに、はっきりと私の耳に届いた。血の気が引いていく。彼女の横顔は、とても冗談を言っている風には見えなかった。
「6歳のころ、私は、手錠の鎖で、友人を、殺しました」
途切れ途切れに語られたその言葉の意味を、すぐには理解できなかった。千翔は瞳を翳らせたまま、小さく微笑み独白を続ける。
「……人身売買の商品として生きていた私にも、たった一人だけ大切な友人がいたんです。彼女はあんな闇の中でも、いつも未来の話をしていました。いつか、自由になった暁には、帝国中の光を見に行きたい、と口癖のように言っていました。……千翔、という名も彼女がつけてくれたものです。一つ年上の彼女を、私は姉と慕っていました」
千翔の名付け親、姉と慕うほど信頼を寄せていた友人。すべてが私の知らない世界の話だった。
「でも、私は心のどこかで、彼女の純真さを、白さを、その無垢さを恐れていたように思います。彼女の語る未来が少し怖くもありました。白い彼女が笑うたび、私は黒くなっていくような……いっそいなくなれば心は軽くなるのに、と思う日も少なくなかったのです」
物語のように、どこか他人行儀に語られるその言葉が、確かに千翔のあ変えた過去であると瞬時に理解するのは難しかった。それくらい、千翔は冷静で淡々としていたのだ。
「……そして、彼女はとある宗教団体に売られることになりました。その組織は、残虐非道であると商品たちの間でも囁かれるほど、悪名高いところだったんです。……宴の席で、儀式と称し、美しい少年少女に対して拷問に近い迫害を加えた末、その遺骸を食しているとの噂もありました」
身の毛がよだった。全身の血液が凍り付くくらい、ぞっとした。そんな宗教団体があるなんて知らなかった。恐らくは帝国の手の行き届かない地下都市に蔓延る輩なのだろう。帝国の倫理条約の禁忌を今の言葉だけでどれだけ破ったか分からない。
「売られていく前夜、彼女は私に言いました。どうか私を殺してほしい、と。当然だと思います。彼女の立場に立てば、誰だってそう言うでしょう。そして、誰もそれを実行してくれないのでしょう。それがいかに酷なことか、私には分かっているような気がしたんです」
ふっと、千翔の表情から微笑が消える。彼女の手錠に繋がる鎖が僅かに揺れては、灰色の部屋に響いた。
「だから、私は彼女を殺しました。手錠の鎖で、彼女の首を絞めたんです。今思えば、たかが6歳児の力ですから、きっと中途半端に苦しませてしまったことでしょう。それでも、あの宗教団体の迫害よりはマシだったと今でも信じています。彼女は、絶命する最期の最後まで、笑っていました。死の間際、零れ落ちた彼女の涙が、薄暗い部屋の中でも信じられないくらい綺麗で……。私は、とんでもなく美しい人を殺してしまったのだなと自嘲しました。彼女は死して尚、純白なままで、白は死をもってしても侵せないものなのだと知りました」
千翔の抱える過去の重さに、私は目を逸らしたくなる思いで一杯だった。知らなかった。彼女の笑顔の裏側に、そんなにも深い闇が隠されていたなんて。私の予想を遥かに超えていた。気づいてあげるべきだったのに、私は巧妙に張り巡らされた予防線を超えることは出来なかったのだ。
「私は、殺されるべき人間です。悲観している訳ではありません。そう言う義務を負っているような気がします。だからきっと、いずれは殺されるでしょう。ここで死ぬならそれも運命だと受け入れられるくらいには、覚悟を決めているつもりなんです。世の中が良くも悪くも報いの連鎖で成り立っているのならば、私も例外なく報いを受ける。それでいいんです」
千翔はどこか吹っ切れたような笑みを見せ、私を見つめた。彼女はその言葉の通り、全てを受け入れているようだった。そんな彼女に「千翔が悪いんじゃない」だの「千翔は殺されたりしない」など、ありきたりな言葉をかける気にはとてもなれない。千翔だって、そんな安っぽい気休めが欲しくて話したわけではないだろう。私の想像以上に、千翔は強い人だった。
「……憐姉様に出会った時には、正直自分をちょっと笑いました」
千翔の目はいつしかいつもの輝きを取り戻しつつあった。
「ああ、恐らく私は一生白から逃れることは出来ないのだろう、と。黒い私は死ぬまでずっと、白からは逃れられないのだろう、と」
彼女の目に私はそれほど白く純真に映ったのだろうか。そんな自覚はない。むしろ、救いようがないくらいの黒に染まった人間だと思って生きてきた。
だが、千翔の言葉は単純な誉め言葉としては受け取れなかった。良くも悪くも誰かにとっての白であることは、自分だけでなく相手も飲み込んでいく。その全てを背負う覚悟があるのかと遠回しに尋ねられているような気がしたのだ。
「……そして、どうせ殺されるのならば、白のために殺されよう。そう決めた瞬間でもありました」
そう言い切った千翔の横顔は信じられないほど凛としていて、見惚れるほどに綺麗だった。言っていることは物騒なのに、なぜか私も微笑んでしまう。彼女の言葉は、中途半端な泣き言ではなかった。恐らくは、彼女が一生かけて貫いていくであろう信念を、私に教えてくれたのだ。
「……今の独白の語彙力があれば、次の考査では赤点は免れるんじゃないか?」
あえて茶化すと、千翔はいつも通りくすくすと笑う。
「そうですね。でも、残念ながら14年かけて得た結果がこれなのです」
私は、千翔の綺麗な茶色の目にそっと笑いかけた。
「――充分じゃないか」
そう言うと、千翔は嬉しそうに笑った。月並みな表現だが、彼女の笑顔はこの灰色の部屋までも明るく照らすようだった。私としては、そんな風にひたむきに、ひたすら自分の信念を守り抜く彼女の方が白く美しく見えるのに。そんなことを口にすれば、彼女が困ったように笑うのは目に見えているから、その言葉はそっと胸の内にしまっておくことにした。




