第59話
意味のないことかもしれないが、呼吸の乱れる千翔の頭をなるべく自分の方へ引き寄せ、何とか庇う態勢をとる。せめて、私たちに直接害を与えることのない、あの白衣の青年でありますようにと祈りながら相手の出方を待った。
「……っ! た、大変!」
聞こえてきたのは聞きなれた声だった。シアンではない。私がこの15年間、嫌というほど聞いてきている声。一瞬で、背筋が凍り付く。
「す、すぐに手当しないと……!」
邪気のない口調で、その人は言葉を紡ぐ。駆けるようにして、軽い足音がこちらへ近づいてくるのが分かった。
千翔を挟んで向かい合うようにして、質のよさそうなグレーのワンピースの裾が視界に入ってくる。フレアスカートのようになっているその裾は二段重ねで、上品な雰囲気の黒生地が覗いていた。彼女はその上質な服が汚れるのも厭わずに、千翔の傍にふわりと膝をつける。
その瞬間、私はその人と目が合った。時が止まってしまったかのようだった。衝撃というよりは、ある種の恐怖に近いのかもしれない。
そこには、まるで鏡写しのように私と同じ顔の少女がいた。雰囲気は私と随分違い、少女らしい可憐さが滲み出ていたが、目の形も鼻も唇も髪色も何もかもがそっくり同じだった。少女は驚いた様子を隠すこともなく、何度か瞬きしてみせる。
「……あなた、誰?」
少女はきょとんとした表情でそう問いかけていた。声までもが全く同じだ。その質問はむしろこっちがしたいくらいだ。自分のクローンを見ているような感覚は、正直言って気味が悪かった。
だが、彼女は思い出したように千翔に視線を移すと、慌てて手に持っている小箱を漁り始めた。そこから包帯やら消毒液やらを取り出して床に並べると、千翔の傷を庇うようにして様子を観察し始める。
「大変……。ちょっと待っててね、今、手当てするからね」
私と同じ声のはずなのに、その言葉は酷く優しく響いていた。少女は瓶から液体をガーゼに含ませて、それを千翔の傷口に当てようとする。
「待て!」
思った以上に高圧的に響いた私の声に、少女はびくりと肩を震わせて手を止める。何だか、弱い者いじめをしているような感覚を覚えるが、構うことなく私は続けた。
「……それは本当に無害なものか? 毒薬じゃないだろうな?」
「ち、違うよ! そんなことしない……!」
少女は真剣な眼差しで訴えてきた。急にやってきて、本当に手当てしようとでもいうのだろうか。「白」の第一の塔でさえ、この場所を突き止められていないのだからまさか帝国の人間ではないだろう。十分に警戒する必要がある。
「証明してみせろ」
私の言葉に少女は困ったように表情を曇らせると、やがて小箱の中から包帯を斬るような鋏を取り出した。そして刃の部分を開くと。その切っ先を躊躇いながらも自分の左手の甲に沈め、線を描いていく。じわりと赤が浮き出てきた。
少女は自らつけたその線状の傷に、千翔につけようとしていた液体をしっかりとつける。一瞬痛そうに顔を顰めたが、すぐに申し訳なさそうに笑ってみせた。私と同じ顔で。
「……ね? 大丈夫だよ。ただの消毒液だから」
そう言って彼女は再びガーゼを取り出し消毒液を染み込ませると、千翔の傷口に当てた。千翔もおとなしく手当されている。
私は茫然としてその光景を眺めるしかなかった。「影」の人間のくせに、なぜ私たちを助けようとするのだろうか。令嬢は殺すなという指示でも受けたのだろうか。
彼女は懸命に手当てをしていた。その姿は「白」で見かける献身的な看護師たちの姿を彷彿とさせる。手際もよく、何より接し方が丁寧だった。まるでお伽話の主人公のように、無垢で無邪気な雰囲気の持ち主だ。ゆるく結ばれた亜麻色のサイドテールがゆらゆらと揺れてる。
「……シアンは、酷いことをするんだね」
ガーゼを貼った千翔の傷口に包帯を巻きながら、少女は一人嘆いた。
「ごめんね、痛かったよね」
まるで、自分せいであるかのようにしゅんとして、少女は申し訳なさそうに千翔を見つめていた。何も言わない千翔だったが、その目を見ればかなり動揺していることが分かる。無理もないだろう。私だって、何が起こっているのかよく分からないのだから。
「……額も切れちゃってる。ちょっと待ってね」
少女は千翔の制服をきちんと直すと、そっと千翔の前髪を掻き上げてよく観察していた。そして安心したように、ふっと微笑んで見せる。私と同じ顔でそんな優しい表情が出来るものなのかと、思わず感心してしまった。
「良かった。そんなに深くないよ。跡は残らなさそう」
そう言うとその傷口にも手際よく処置をして、ガーゼを貼りつける。千翔の小さな額にガーゼは少し大きく見えたが、これで一安心だろう。傷口からの感染症に対するリスクは減った。
「他に痛いところはある?」
「……蹴られたところは、全部……」
千翔は小さな声でそっと返事をした。まだ警戒を解いていないのだろう。千翔の態度はどこか遠慮がちだった。一方で少女はそんなことを気にする素振りも見せず、千翔の内出血の跡を丁寧に観察し始める。その横顔は本気で千翔を心配しているようにも見え、何だか調子が狂ってしまいそうだ。
「……骨折はしてないよ。全部、打撲みたい。本当は冷やしたいのだけど……ごめんね、氷はシアンにすぐバレちゃうから持ってこられないの。本当にごめんなさい……」
そう言って少女は千翔に頭を下げた。シアンにばれてはいけないということは、この応急手当は彼女が自主的に行っていることだというのか。
「じゃあ、次はあなたの傷を診るね」
少女は私の傍へ歩み寄ると、私も目の前に屈みこんで視線を合わせた。本当に、鏡を見ているような感覚だ。
「私たち、そっくりだね。皆が言ってた一条憐さんって……あなたのこと?」
同じ声なのに、彼女の方がずっと明るく聞こえる。私は頷かざるを得なかった。
「……そうだ」
ふと、目の前で少女は嬉しそうに笑ってみせる。私と同じ顔のはずなのに、なぜだろう、直感的にこの人は人から愛される存在なのだと分かってしまった。
「そう、憐さん……。私、きっと、ずっとあなたのことを待っていた」
それだけ告げると、彼女は消毒液の染みこんだガーゼを片手に私の首筋の傷を手当てし始めた。
「私は、アザレア。本当の名前は別にあるのだけれど、今はこれしか言えないの。……でも、憐さんならもしかすると知っているかもね」
シアンといい、アザレアといい、「影」の中のコードネームのようなものなのだろう。学院で習った知識によれば、一介の戦闘員は番号で呼称されることが多く、信者はそのまま生まれ持った名のままで過ごす習わしのようだから、色を連想させるコードネームを持つものは何か特別な立場にあるのかもしれない。現に、今まで聞いたアザレアという名には、常に敬称がついていた。
「後でゆっくり話そうね。まずはシアンに見つかっちゃう前に、手当てしないと」
彼女は首筋だけでなく、血の滲んだ手首にも包帯を巻いてくれた。これは正直有難い。
「あんまり、無闇に手首を動かしちゃだめだよ。傷がひどくなるからね。本当は私が鍵を持っていればそれで済む話なのだけれど……」
それから彼女は手早く器具類を小箱に収めると、「それじゃあまた後で」と可憐に手を振って、来た時同様に颯爽と去って行った。一方で、残された私は恐怖に近い何かを感じていた。自分と顔がそっくりな人間に出会ってしまったということも勿論だが、何より彼女が持つ雰囲気に絶句してしまう。あんな人間が、この世にいるというのか。
彼女はあまりにも純真すぎる。彼女に穢れなど一点もないのだということが、少し話しただけで分かってしまった。あの純粋さは演じて手に入るものではない。まるで、世界の汚いものやあらゆる悪意とは無縁の場所で生きてきたかのような無垢さだ。しかもその彼女が帝国最大の敵である「影」の一員であるというのだから余計に怖い。
圧倒的な白さには、人は恐れを抱くものなのだとこのとき私は初めて気が付いた。
「あの方が……アザレア様? 呼ばれ方からしても……何か特権的な立場にあるようですね」
「……そのようだな」
「憐姉様の姉妹の方ですか?」
傷を手当された千翔は多少回復したのか、先ほどよりは滑らかに話せるようになっていた。千翔は灰色の壁に寄りかかり、私の方を見つめている。
私に、家族がいるとは聞いていない。孤児院出身なのだから、身元も不詳なのだろう。極端な話、私に「影」側の血が流れていたって不思議はないのだ。帝国もそれを承知の上で私を育ててきているはずだった。このご時世、最早血筋というものは重視されない。育った環境と能力によって左右されるのだ。千翔がいい例だ。水野家の養女である彼女には、もちろん水野の血など一滴も流れていないが、後継者として育てられている。これは特に珍しい話というわけでもなかった。
「……何かしらの縁はある人なんだろうな」
正直、血の繋がりを信じざるを得ないほど私とアザレアは似すぎている。むしろこれで全く血の繋がりがないだなんて言われたら、いよいよどちらかがどちらかの人為的に造られたクローンである説を真剣に考えなければならないだろう。
「もし、憐姉様とアザレアさんに血の繋がりがあるのなら、妙に納得してしまいますね」
千翔は壁にもたれたままふっと笑ってみせる。
「憐姉様もアザレアさんも本当に白いですから」




