第58話
どのくらい時間が経ったのだろう。千翔が連れていかれた不安と緊張のせいで時間感覚が狂う。私は1秒間を正確に覚えている。秒単位は戦闘時に役に立つが、今は時間単位で数えていた。それでもそれなりに気力を使うものなので、一日中数えるのは無理があるだろう。しかもこの状況のせいで、正確な時間を数えられているとは考えにくい。
大体の時間で言うのならば、千翔が連れ去られて3時間半が経過しようとしていた。思っていたよりも、随分長い時間を千翔と離されているものだ。不安で胸が締め付けられ、脈が早まった。体力が奪われていくのが分かる。無駄だと分かっていながらも何度も脱走を試みたが、その度に手首に血が滲むだけだった。
「千翔……っ」
どうか無事であってほしい。ただひたすらにそれだけを願った。千翔の命とならば、自分の命を引き換えにしてもかまわなかった。たった一人の、大切な「妹」なのだ。こんな私を「姉」と慕ってくれる優しい子なのだ。
その瞬間、不意に乱雑にドアが開けられる。視界に飛び込んできたその光景に、思わず絶句した。シアンに連れられる千翔の白い制服は埃と血飛沫に薄汚れ、垣間見える手足には目を逸らしたくなるほどの擦り傷と内出血の跡が広がっていた。目隠しをされた千翔は、頭を垂れるように項垂れて、手を後ろ手に縛られていた。額が切れているのか、俯いた顔からはぽたぽたと鮮血が滴っている。
「千翔っ! 千翔……っ!!」
シアンは意地の悪い笑みを浮かべ、乱暴に千翔を床へ突き倒す。その瞬間に目隠しは外れたが、千翔は倒された体勢のまま動かなかった。結っていたはずの明るい茶色の髪は解け、乱れてしまっている。
「千翔っ、千翔っ……!」
殆ど泣き出しそうな勢いで、彼女の名を叫んだ。何て、酷いことをするのだろう。あまりにも残虐だ。怒りと同じくらい恐怖にも震えてしまう。
シアンはそんな私を見てくすくすと笑うと、ナイフを片手に私の前に屈みこむ。その刃には少量ながらも既に鮮やかな赤が付着していた。きっと、千翔の血液なのだろう。
「どうだい? お友だちのこういう姿。なかなか綺麗だろう?」
シアンのその言葉に、私は思いきり彼を睨みつけ掴みかかる勢いで膝立ちになる。無論、彼に害を与えられるわけもなく、むしろ首筋にナイフを当てられてしまう始末だ。
「貴様……っ、千翔に、何てことを……っ!」
「このくらいしておかなきゃ。埋め合わせだからさ」
「千翔は関係ないだろう? 人を傷つけたいのであれば、私を傷つければいい!」
そう言うとシアンは嘲笑を浮かべ、私の首筋に当てていたナイフを瞬時に引いた。僅かに飛び散る赤と鋭い痛みに思わず顔を顰める。
「憐……姉様……っ」
床に横顔を付けたまま、千翔が悲痛そうに表情を歪める。シアンの笑い声だけが、耳障りに頭の中に響いた。
「みんなそう言うんだよね。相手の代わりに自分を傷つけろ、殺せ、ってね。君たちそう言えば僕が手を止めるとでも思っているのかな。でも、ちょっと傷つけたらもう何も言わなくなるよ」
大して深い傷ではないだろうが、ぽたぽたと血が滴り落ちていく。駄目だ。ここで屈してはいけない。私は怯まずに真っ直ぐシアンの目を見上げた。彼の色素の薄い瞳の奥の奥を捉えて告げる。
「何だ? ……続けろよ、駄弁って終わりか? 道化師め」
ほんの一瞬、シアンの瞳が微かに揺れた気がした。その動揺を私は確かに捉えたが、次の瞬間には脇腹をけられた衝撃で床に転がっていた。思わず咳込んでしまう。倒れた拍子に口の中を切ったのか、血の味がした。
「……本当、いい目してるよね。憐ちゃん」
軽く血を吸い込んでしまい、余計にむせてしまった。かなりの勢いで蹴られたようだ。あの躊躇いの無さは、合崎にも匹敵する。シアンは、私の知る限りでは帝国最高レベルの戦闘力を持っているだろう。
やがて、興を削がれたのかシアンは退屈そうな表情で部屋を出ていった。金属のドアが閉まる音をぼんやりと聞き届ける。首筋も脇腹もちっとも痛みは引かないが、千翔の方が傷ついているはずだ。私は膝立ちになって、何とか千翔の傍へ移動する。床に突き飛ばされたりしたのだろう、生々しい擦り傷が何か所も見受けられた。
「憐姉様……」
いつになく虚ろな目で千翔は私を見上げていた。どうもそういう目で見られると胸騒ぎがする。合崎も、よくそんな目で私を見ていた。
「千翔……じっとしていろ、今、傷を診てやるからな……」
もっとも、本当に診ることしか出来ないのだが。手錠の鎖が千翔に当たらぬよう配慮しながら傷の様子を確認する。擦り傷と内出血は酷いが、刃物で切り裂かれたような深い傷はない。制服に飛び散った血飛沫を見て心配したが、出血はそれほどではないようだった。立ち眩みくらいは引き起こすかもしれないが、今すぐ命にかかわるような出血量ではない。ひとまず、安心してもよいだろうか。
「憐姉様……駄目ですよ……」
「え?」
千翔は冷たい床に頬を付けたまま、儚げな表情で笑う。
「避けられる傷は、避けないと……死んじゃいます」
諦めたような千翔の目に光はなかった。
「反抗しても……相手を喜ばせるようなものです。こういう場では、自尊心よりも適応力です」
「適応力……?」
千翔は長い睫毛を伏せてふっと微笑む。
「大体ああいう人間は、自分が満足する反応を得られれば攻撃を止めます。そんな反応を……いかに早く示せるか。それが、出来るだけ傷を浅くする唯一の方法です……」
確かに千翔の言うことには一理あるのかもしれない。人が苦しんでいるのを見て喜ぶような人間を止めるには、満足させるのが手っ取り早い方法だ。
「……私も、その方法を取っていなければ、殺されはしなくとも意識は失っていたでしょうね」
そう言って、千翔は苦しそうに表情を歪める。少し呼吸が乱れているようだった。
「千翔……わかったから、もう話さなくていい。私が浅はかだったよ。頼むから安静にしてくれ」
無理をして無知な私にアドバイスをくれたのだろう。私は手錠で繋がれたままの両手で、千翔の頭を撫でた。この冷たい床では風邪を引いてしまうかもしれないが、眠れば少しは回復するだろうか。
「憐姉様……どうやら私たちは、丸一日眠っていたようです」
何を思ったか、千翔は震える声でそんな報告を始めた。明らかに無理をしている。
「そんなこと、今はどうでもいい。とにかく休め」
「……大きなモニターのある部屋に連れていかれて……シアンはそこで交渉をしていました。モニターには帝国の人たちが映っていて……。……どうやら、『白』の第一の塔にこの誘拐事件の対策本部が出来ているようです。柊さんが、交渉役をされていました……私が部屋を出る頃は午後5時を過ぎた頃でした。シアンは……私の父に身代金を要求しました。」
言葉の途中で千翔は苦しそうに咳込んだ。あまりにも辛そうで見ていられない。
「千翔……もう充分だ、充分だから……」
「駄目です。……憐姉様には、生きていただかなければなりません」
千翔は先ほどの虚ろな目とは打って変わって、強い意志のこもった瞳で私を見上げた。普段の無邪気な彼女からは想像もつかない、大人びた表情に戸惑ってしまう。
「柊さんは……憐姉様の身を案じていました。この場所が特定され次第、軍による武力行使の準備も整っているようです」
たかが学院の女生徒2人の誘拐事件で、帝国軍まで動かすとは。柊の過保護っぷりは相変わらずだった。
「……柊さんの背後に、僅かに空兄様の姿も見えました」
合崎の名が出ると、ちくりと胸が痛む。彼は今、どうしているのだろう。シアンの要求を聞きながら、どんな表情をしていたのだろう。
「……相当、病んでましたよ。憐姉様のためならば、何でもしそうな勢いです。ちゃんと会って、傍にいてあげないと……空兄様まで死んじゃうかもしれません」
そう言って再び咳込む千翔の口元には、少量の血が付着していた。今すぐ背中をさすってあげたいのに、手錠が音を立てて私の手を制する。千翔の意識は朦朧としているようだった。
「千翔……っ、千翔っ……!」
無力だ。目の前で「妹」が苦しんでいるのに、私は見ているだけだなんて。こうして声をかけることしか出来ないなんて。千翔が苦しむ姿を見るのは、斬られた首筋の傷よりも痛かった。こんな緊張状態が続いたら、いずれ気が触れてしまいそうだ。
きっと、合崎も同じだった。「実験」の日々の中で、「憐」の叫び声を聞く度に、何も出来ない己の無力さに絶望し、不安と緊張に心を潰されてしまったのだろう。帝国も「影」ももとは一つの組織だっただけあって、やっていることに大差はない。
その瞬間、再び金属のドアが悲鳴を上げて開き始めた。もう顔を上げるのも嫌だった。これ以上、千翔を傷つけられたらどうしよう。焦りにも似た恐怖に、心が少しずつ崩れ始める音を私は確かに聞いたのだった。




