第57話(合崎視点)
――合崎なんて、もう嫌いだ。
我ながら情けないと思うが、憐のその一言がこんなにもショックだったなんて考えてもみなかった。
合崎は一人、「白」へと続く帰路を辿りながら溜息をついた。憐に嫌われていることくらいは態度で分かるが、いざ言葉にされるとこうも辛いものなのか。本当に拒絶されてしまったような気がして、今朝は憐のことを待てなかった。会っても、何を言えばいいのか分からない。あいつにとっては朝からこんな厄介な「兄」に絡まれなくて良い朝だったに違いないが、やはり朝一目でも見ないと落ち着かない。そのせいで、午前の授業は殆ど上の空だった。午後の訓練でようやく顔を合わせたものの、事務的な会話ばかりでこの状況を打開できるような言葉は何一つかけられなかった。
当然のように、こうして帰り道も一人で歩いている。「白」の本人証明をパスして、自分の部屋へ戻ると自然と深い溜息をついた。明日もこんな一日が続くのは御免だ。夕食の後にでも、何とか声をかけに行くべきだろう。
用意されていた白いシャツとパーカーに着替えて、読みかけの洋書を手にソファーに腰かける。これは「外」の世界があった時代の本で、理解を超える情景描写が多々出てきた。もちろん、一般的には禁書扱いの本だ。こういった類の書物を飽きることもなく繰り返して読むのは、全て憐のためだった。いつだったか、幼い憐は「外」へ行きたがっていた。今、もしもそんなことを口にすれば厳罰は免れないだろうが、あの頃の彼女は無邪気だったのだ。今も憐が「外」に行きたいと思っているのかは分からないが、彼女の望みをかなえてやれなかった代わりに、次に憐が「外」の世界のことを口にしたときには、せめて質問に答えられるくらいの知識をつけておこうと思ったのだ。
それに、「外」についての知識は軍師としても役に立つものだ。折角、特権階級にいるのだから、あらゆる手段を使って知りたいことは調べ尽くせばいい。それが功を奏して帝国を救うようなことになれば、少しくらいは憐を大切にすることも許されそうな気がするのだ。
夕食を終え、レモンティーを片手に憐の部屋の前に立ったときには既に午後8時を過ぎていた。意を決して、ドアの横の小さなディスプレイに触れ彼女を呼び出す。第一声は、何がいいだろう。仲直りの仕方なんて、誰も教えちゃくれなかった。
数十秒間、じっと待っていたが応答がない。入浴中か、あるいは避けられているのか。いずれにせよ、出てこないのならこれ以上、手の打ちようがない。珍しく反省したというのに、こうも軽くあしらわれるとは思わなかった。まあ、当然か。憐に嫌われているのだから。大嫌いな人間にこうも執着されるとは、つくづく憐は憐れな子だ。
本当に自分でも嫌になる。真っ直ぐには愛せない癖に、正々堂々と「大好きだ」とも告げる勇気もない癖に、屈折した想いばかりが積み重なっていくことが。少し離れただけでこんなにも息苦しいのは、やはりあの1か月の「実験」のせいなのだろうか。
憐が帝国の手中にある限り、自分は帝国を裏切れない。嫌味なくらい、見事な手法だ。あの1か月で、憐の存在をここまで大きなものにしてしまったのだから。縋れるものがあるだけ幸せだと言えばそうなのかもしれない。だが、互いに報われることのない一方通行の想いだ。
「……空」
不意に背後から声をかけられる。振り返ると、司令部の黒衣を纏った柊が立っていた。いつも通りの出で立ちと言えばそうなのだが、その表情には珍しく僅かな焦りが見て取れた。
「憐を、見ていないか?」
「部屋にいるんじゃないのか」
柊が呼び出せば、きっと出てくるだろう。憐は、柊に良く懐いている。きっと彼女は、柊のように優しい雰囲気のある紳士が好きなのだ。そんな下らないことを考えながら、温くなったレモンティーを片手に自室の方へと歩き出す。
「憐が部屋に戻った記録はない。朝、学院へ行ったきり一度も帰っていない」
その言葉に、思わず足を止める。もう午後8時を過ぎているのだ。一般の学生がどうかは知らないが、少なくとも憐がこんな遅くまで戻らないことは今までになかった。彼女は寄り道をするタイプでもない。そもそも、憐にこんな時間まで遊ぶような友人がいるとも思えなかった。
「……電話でもすればいいだろう」
心の隅に芽生えた小さな不安のせいで、ぶっきらぼうな言い方になる。だが、柊はその言葉に表情を曇らせた。
「それが……通じないんだ。連絡が取れない。位置情報も途絶えている」
思わず、柊を見据えた。それは明らかに異常事態だ。柊の焦りの理由をようやく理解する。
「空のところにいるのかと思ってきたんだけど……これはちょっとまずいかもしれないな。何か、悪いことに巻き込まれていなきゃいいんだけど……」
「……まさか、憐に限ってそれはないだろう。力勝負はともかくとしても、あいつには帝国規模で見てもトップクラスの技術がある」
実際、銃撃戦になると冷や汗をかくこともある。確実に、憐は日々強くなっているのだ。
「でも、下校時に銃なんて持ってないだろう。そうなると話は別だよ」
柊の冷静な言葉に、血の気が引いていくのが分かった。柊の言う通りだ。護身用のナイフを持っていればいい方だろう。憐は銃に比べればそれほどナイフ戦術には長けていない。無論、周りの生徒と比べれば群を抜いているのは確かだが、ナイフ戦術のみであれば優秀な男子生徒でも憐に勝てるかもしれない。
「柊さん!!」
ふと、柊の背後から若い白衣の男性が駆け寄ってきた。部下だろうか。柊以上に、酷く焦った表情をしている。
「……どうした?」
冷静な面持ちで部下に対峙するも、柊の横顔は憂いを帯びていた。溺愛と言って過言でないほど憐を大切にしている柊のことだから、その内心は気が気でないのだろう。
「今、水野財閥の当主から、令嬢の捜索願が帝国警察に提出されました」
思わず耳を疑った。憐だけでなく、千翔までいないというのか。
「それで……学院に問い合わせたところ、放課後、一条憐と水野千翔が一緒に歩いているところを何人かの生徒が目撃しているそうです」
「……憐と、水野さんが?」
柊はどこか悔しそうに視線を伏せる。
「……すぐに帝国警察と連絡を取れ。……憐も、水野さんとともに行方をくらましたのかもしれない」
どうか、思い違いであってほしい。心の底から、そう願った。
だが、そんな淡い願いは翌日の犯行声明でいとも簡単に打ち砕かれることになる。




